三 花 ~ 覚めない心 ~ (2)
すべてが現実…… になるのか……。
2
「警察に行けっ」
怒鳴りつけるように話すのは父親だった。
部屋の扉越しに。
璃香から事情を聞いた父親は、一階から階段を駆け上がってきて、開口一番、瑠香に怒鳴った。
部屋には鍵をかけ、入れないようにしていたが、父親はドアノブを乱暴に回し、激しく扉を叩き続けた。
世間体を気にする父親にとって、強姦された瑠香にも怒りをぶつけた。娘が強姦されたことを恥だと捉えている。
父親の剣幕が忌まわしい記憶を蘇らせそうで、恐怖がより瑠香を硬直させていた。瑠香は両耳を手で塞ぎ、父親の怒声を拒絶していた。
「ふざけないでっ。何、怒鳴ってるのよっ。バカじゃないっ」
扉越しに璃香が叫ぶのが聞こえた。璃香が父親を一蹴している。何度かの押し問答があったあと、父親は憤慨した様子であったが、引き下がったみたいで、廊下に静けさが戻っていた。
それでも、瑠香の全身を襲う震えは治まってくれなかった。父親だと分かっていても、男の声に過敏に反応して、体が拒絶しているのだった。
そのあとも、一階のリビングでは、母親を加えた三人の口論が、二階の瑠香の部屋にまで届いていた。
主に父親が激高し、それに璃香が反抗すると、母親が諭す。そんな状況だった。
みんな、自分のことで争っているのを肌で痛感していた。自分のことを考えて争っている。けれど、それが原因で争い、崩壊していくのを感じてしまう。だからこそ、瑠香は辛かった。
耳を塞いでいた手を放すと、不意に立ち上がり、瑠香はフラフラと部屋を出た。意識が朦朧として覚束ない足取りで階段を下り、壁に凭れながら廊下を伝い、パジャマ姿のままリビングに向かった。
「……お姉ちゃん」
未だ口論を続けていた家族であったが、瑠香に気づいた璃香の一言で静まり、三人の視線が一気に瑠香に注いだ。
瑠香は誰の顔も見られず、足元に視線を落としていた。
警察に何を言うの? あのときのことを全部?
「……もう、いいから。もいう…… いい」
脆く崩れそうな声がリビングに広がり、息苦しい沈黙が流れ、全員の肩にのしかかった。
知られることも恐れていた。あの時間のあの状況を思い出すのも身の毛がよだつ。誰かに話してしまえば、自分の心が一枚、一枚剥がされ、最後には「山崎瑠香」という存在が消されてしまいそうな不安に押し潰されそうで、瑠香は頑なに拒んだ。
「……もう、ごめん」
不思議と涙は出なかった。泣きたくて声は震えているのに、目頭が熱くなっているのに、涙は出てこなかった。
瑠香の訴えによって、父親の気持ちは折れたのか、話はそこで中断した。
次の日。父親は仕事。璃香は学校に行き、瑠香は家に母親と二人になっていた。
璃香は瑠香と違う高校に通っており、瑠香の高校の生徒と面識はなかった。
瑠香はまだ表に出る勇気はなく、ずっと部屋に籠もっていると、唐突に扉が優しくノックされた。
「お昼、どこかランチにでも行かない?」
扉越しに母親は話した。すぐに理解はできず、困惑している瑠香に、母親は続ける。
「怖いのは分かってる。けど、少しは外の風に当たった方がいいわよ。それに、お父さんと璃香には黙っているから」
優しい口調で母親は諭した。
「ゆっくり考えてね、瑠香」
最後にこう切り上げ、母親は部屋から離れていった。決して強要するわけではない。その事実は瑠香を安心させた。
小一時間ほど、ベッドのなかで悩んでいた。どうしても歯痒さが拭えない。
この気持ちをちゃんとしなければ。
結局、母親の誘いに乗り、瑠香は昼食にテラスのあるカフェに行った。自分でも、部屋に閉じ籠もっているのはダメなんだと分かっていたから。
「別にいいよ、気を遣わなくても」
デザートのチーズケーキにフォークを刺したとき、瑠香は呟いた。顔を上げりりと、向かいでコーヒーを飲んでいた母親の手が止まり、目を丸くした。
「今まで通り、普通でいいよ、お母さん。こうやって気を遣われてる方が、逆に辛いから。今まで通りで」
きっと自分のことを考え、部屋に塞ぎ込んでいる瑠香を見かねて誘ったのは伝わった。
学校もズル休みである。中学のころ、ちょっとでも休めば怒っていた母親も、今は何も言わない。
きっと今も普段通りに接しているつもりだろうが、どこか腫れ物に触れられている様子も否めず、それが瑠香には居心地が悪かった。
だからこそ、瑠香は本心を言った。
しばらく母親はコーヒーカップに口元を当てたまま、固まっていた。瑠香もフォークを置き、耳元の髪を忙しなくねじってしまう。返事を待つ沈黙が苦しかった。
「……分かった」
静かな返事が、瑠香の忙しなく髪をねじっていた手を止めさせた。瑠香が顔を上げると、母親の真剣な眼差しとぶつかった。
「じゃぁ、そろそろ学校も考えないとね。これ以上は休めないでしょ」
「それは……」
ゆっくりと諭す母親を瑠香は制し、そこで学校を辞めたいと伝えた。
突然の申し出に、母親は驚きを隠せずにいた。だが、この考えはどうしても揺るがなかった。譲れなかった。
襲われた日に着ていた制服の袖に、腕を通すにはどうしてもできなかった。制服そのものが、おぞましい記憶そのもので怖かった。
そらには母親もすぐに返事をしてくれない。しばらく考えたあと、「お父さんと相談してから」と濁すに留まった。
母親が快く理解してくれないのは、瑠香も覚悟していた。そう簡単にはいかないのは承知していたので、黙って頷いた。
「ね、ほかにこのパンケーキも頼んでみる?」
顔を伏せ、黙り込む瑠香を見兼ねたのか、メニューを開いた母親は、写真を指差して言った。重い空気を察して、また気を使ったらしい。
だから普通でいいのに、と内心で毒づきながらも、「うん」と甘えた。
誰が悪いの? 自分も悪いの?




