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月並綺譚

芦原の時辰儀、琥珀の鮭

作者: 秋澤 えで

 判で押したようなリクルートスーツで川辺に座るのは気が引けたが、一度座ってしまえばまるで身体が岩になったように動かない。かすかに水の中が見えるが、興味を引くような動物も無視もいない。川辺には葦が茂っているが、もしかしたら彼方の方には何かいるのかもしれない。緩やかに流れる川は別段きれいでも汚くもない、深くもないし浅くもない、流れは速いわけでも滞っているわけでもない。どこにでもあるような、つまらない、なんの特徴もない川。まるで十把一絡げの自分のようだと、そこまで考えて嘆息した。つい悲観がちになる。次から次へととりあえす受けて回る会社。前々から就職活動というのは闇深いと聞いていたが、実際にその立場になると闇深いという言葉では足りないと感じる。何をしても息苦しく、息抜きに趣味をしても思考のどこかに就活の二文字がちらつく。


 現実逃避に自宅付近の川に来てみたが特に気分が晴れるということはない。うすらと曇った空に靄かかるように濁る川。平日の昼間であるためか人っ子一人歩いていない。


 ぼうっとしながら川を眺めていると、ふと川の底に何かが落ちているのに気が付いた。空き缶かビール瓶か何かなのだろうが、いやに気になる。視線をはずして空などを眺めてみるも、気が付けば川底の何かに視線をやっていた。

 わずかに泥がかぶっているそれはどうも円形らしく、銀色の半円が顔をのぞかせている。こんな川に落ちているものといえば台風で飛ばされてきたごみくらいだ、と思いながらも、気が付いたら革靴を脱ぎ靴下を底に突っ込んで、川に足を踏み入れていた。


 川底は思っていたよりも柔らかかったが、細かな小石が足の裏に刺さる。ズボンが濡れてしまわぬよう気を付けながら川底に手を伸ばすと硬くて冷たいものが指先に触れる。それを拾い上げてみれば金属でできた時計だった。掌の上に乗るほどの懐中時計はついさっきまで川底で泥に埋もれていたようには見えない。おそらくある程度値の張るものだろう。


 「兄さン黒服の兄さン!」

 「んあ?」


 かけられた声に振り向けば葦の陰から笠をかぶった男が出てきた。腰に魚籠を下げ浴衣の裾をたくし上げた姿は時代錯誤に見えたが、スーツで川に入ってる俺に比べればはるかにふさわしい格好だと思いなおし、奇異の目で見たのを恥じた。


 「それ、その時辰儀あっしのでは!?」

 「これか?川底に落ちてた。あんたのか?」


 バシャバシャと水が跳ねるのも気にせず駆け寄ってくる。傘の下の顔を見れば思ったより幼い顔で、自分と同じくらいの年恰好に見えた。


 「あっしのだけどあっしのじゃねえの!兄さンから拝借した時辰儀でな、なくしたなんざ言った日にゃ細かくちぎって撒き餌にされちまう!あンたが見つけてくれて助かった!命の恩人じゃあ!」


 よくしゃべる人懐っこい男だ。パッと俺の手から時計、時辰儀を奪い袖で拭って傷がないか確かめる。きっちり眺め終わってから、俺がいたことを思い出したようににかっと笑った。笑うと前歯がかけているのがよく見えた。


 「ありがとうなあ兄さン!拾ってもらったんじゃあ、お礼をせんとな!」

 「いや、俺は本当に拾っただけだし、」

 「いんにゃあわざわざ拾ってもらったんじゃ。しかもその着物も高いんじゃろ。それなのに川にまで入ってくれたんじゃあ礼をせんわけにゃあいかん。とこいで兄さン、昼餉は食ったか?」


 そう言われ、そういえば何も食べていなかったと思い出す。帰りの電車に乗ったのが正午過ぎで、こっちに戻ってきたのが1時過ぎ、昼ご飯を食べ損ねたのだ。鬱々とした気分のせいで食べる気など失せていたのだが、剽軽な男と話していると思い出したように空腹が戻ってくる。


 「近くにな、よくいく定食屋があるんじゃ!うまい魚を出しとってな!礼に馳走させてくれにゃあ!」



 ざぱざぱと水をかき分け俺の手を取るとあれよあれよと引っ張られ、川から上げられると靴を履く間もなくどこかへ連れていかれる。慌ててひっつかんだ革靴から靴下が片方零れ落ちる。けれどどこかヒヤッとした彼の手を振り払ってまで靴下を拾う気にはなれなかった。


 濡れた足のまま、男の背中を追う。川に入っていたときは気が付かなかったが思ったより背が低い。使い古され幾分か色の抜けた笠に、手作りのような木でできた釣り竿、顔つきは同い年くらいに見えたが、もう少し子供なのかもしれない。遊びまわっている高校生なのかもしれない。川釣りに興じるあたり、ゲーセンの類でないだけ健全だろう。

 2メートルはありそうな草むらの中を歩かされる。足の裏はチクチクと痛いし、草に遮られあたりの様子はわからないのに、彼は勝手知ったように歩き進める。


 「そいやあ兄さン名前はなんていうんちゃ?」

 「……葉隠椿。」

 「ツバキかあ。かいらしい名前じゃねえ。」

 「ほっとけ、あんたは?」

 「あっしはネジレメ。よろしくにゃあ。」


 ネジレメ、捩目だろうか。フルネームで名乗ってしまったのが気恥ずかしくなってしまった。

 思えば平日の昼間、だれとも知らぬ奴と裸足で草むらを歩き回るとは全く奇妙な状況だった。狸貉に化かされるにはいささか早すぎる。


 「ここ、ここじゃあ。イグマの旦那の定食屋でなぁ、安くてうまいんじゃ。」


 川から歩いて15分程度だろうか、地元だというのに一度も聞いたことも見たこともない店がそこにあった。イグマと墨で板に書かれていて、どこか貫禄さえも感じられた。


 「旦那ぁ!来ましたぜぇ!定食2膳頼みまさあ。」

 「……ネジレメ、と珍しい客だな。」


 引き戸を開けた先、厨房に立つ店主が見えた。


 「…………くま、」


 そこに立つのはまさしく熊であった。見上げるほどの背丈、ヒグマと同じくらいだろうか。前掛けを掛け、フライパンを持つ熊。死んだふりはだめだったはず、と思う俺を知らぬように、ネジレメはカウンターに座らせた。カウンターの向こうには熊がいる。 


 「今日の定食は?」

 「鮭大根。」

 「うひゃあいいなあ!」


 熊が喋っている。

 今日の定食は鮭大根なそうな。

  呆然とする俺を気にも留めず、ネジレメは喋る喋る。寡黙な熊は言葉少なにそれをあしらっていた。

 あれよあれよという間に、俺とネジレメの前に定食が置かれる。熊の作る定食とは、と戦き逃げ出しそうになっていたことも忘れ、それにくぎ付けになる。


 白いご飯にシンプルな味噌汁、それにメインの鮭大根。優しいショウガと醤油のにおいが湯気とともに鼻腔に漂う。思わずごくりと唾を飲み込んだ。思えばここ最近の昼飯といえば電車の中やベンチで食べられるパンやおにぎりばかりで、まともに食べてはいなかったと思い出す。濃い目の味付けにご飯が進み、我を忘れて鮭とご飯を交互に食べる。夢中になる俺の視界の端に黒い手が湯呑を置く。


 「落ち着いて食え。」

 「……ありがとうございます。」


 熊、されど熊。こんなに旨い定食を作るのだ、きっといい熊なのだろう。鮭と白米の多幸感のままにそう思った。



 「旦那、旦那!今度鮎食べたい!」

 「季節じゃねえ。……あんたも大変だったな。ネジレメに無理やり連れてこられたんだろ。」

 熊、否イグマが言う。表情はわからないが、声色は少し申し訳なさそうだった。

 「いやまあ……でもすごい旨かったです。久しぶりにまともな昼飯食いました。ごちそうさまです。」

 イグマは少しだけ目を細めて笑ったように見えた。

 「また来るといい。来づらい場所だろうが、いつでもおいで。」



 膨れた腹でネジレメと歩く。どこからかトンボが飛んできて、ネジレメの笠のてっぺんに止まる。


 「そういやあツバキは何でそんな真っ黒な服を着てるんで?」

 「ああ、就職活動中なんだよ。」

 「なるほど。シューカツってやつじゃね。」


 ぐりぐりと黒目勝ちの目を動かして小さな顎を撫でた。


 「午前も会社の面接だったんだ。そんで昼飯くいっぱぐれた。」

 「ううん、飯よりも優先しなきゃならんてえのは問題じゃね。ツバキはあんまり笑わん辛気臭い顔しちょるのもメンセツのせいじゃな。」

 「……そうだな。」


 少し悩むようにして、それから何か思いついたようでニヤッと笑った。


 「ところでところで、」


 パッと前の方へ駆けていき顔を両手で隠す。笠にとまったトンボがどこかへ飛んでいく。


 「ツバキが午前にみたメンセツカンってぇのは、」


 こんな顔だったかい?

 手を退けたネジレメの顔には目も鼻も口も、何もなくなっていた。


 「っ!!?」


 驚いて後ずさると、きゃらきゃらとネジレメが笑った。


 「人の世は面白くないかもしれんけどにゃあ、そいでこそ笑っとらんとなおのこと面白くなくなっちまうもんじゃあ!笑っとれツバキ!旨いもん食って楽しく遊んで、辛いにゃあしんどいにゃあ思っとるより、馬鹿みたいにしとる方がずっと面白いからにゃあ!」


 もう一度手をかざすとまた黒目勝ちの目や口が現れて大口開けて笑って、草むらの中に飛び込んでいった。

 慌てて草むらを見ても、そこにはもう誰も何もいなかった。

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