6.旅立ち3
大森林の中に、緩やかに落下するかのように、エルは着地した。
木々の中にほんの少しだけ開けた空間で、四方は十メートルくらいか。
着地と同時にうずくまったエルから飛び降りて、念の為に周囲に魔法障壁を展開してから、エルの翼に手をやる。
先ほどワイバーンに体当たりされた時に、傷を負ったのが見えたのだ。
『癒しの手』の魔法の効果により、手先が光ると、エルの翼の傷を覆って、輝きが薄れると同時に傷が消え失せていった。
それから両手を腰にあてて、だから迂回した方が良いって言ったでしょ!──と言おうとして、結局その言葉を口に出さずに飲み込む。
叱るまでもなく、エルが自信を喪失してしょんぼり項垂れているのが見て取れたからだ。
わたしは溜め息をつくと、言った。
「エル。魔力、切れちゃったんでしょ? いいよ、食べて」
≪えっ? 何を?≫
「だって、わたしはエルの、魔力の補充用の非常食みたいなものだから…。腕一本くらいでいいかな…痛くしないでね?」
ぎゅっと目をつぶって、左腕をエルの前に差し出す。
──すると、エルの呆れたようなイメージの念話が伝わってきた。
≪やだなぁ、人間なんて食べないよ? エルダードラゴンは魔素を取り込むだけで生きていけるから、食べ物自体が必要無いんだよ≫
「そうなの? じゃあ、どうやってわたしから魔力を補充するの?」
その方法は先代竜の知識でも、具体的には分からなかった。考えてみれば古神竜の長い歴史の中でも、今回は初めての事態なのだ。上手く馴染まない魔力を外付けタンクのわたしから補充する方法なんて、きっと当のエルだけにしか分からないことなんだろう。
エルは丸い目をくりくりさせてわたしを見つめると言った。
≪うーん、側にいるだけで、流れ込んで来てる感じ≫
「そうなの?」
≪うん。オレは魔力に馴染んでなくて、魔力を一度にたくさん溜め込めなくてすぐ枯渇するから、すぐ側にいて魔力をたくさん持ってるルカが必要なんだよ。減ったらすぐに流れ込んで来るから≫
「だって、それならどうして、ブレスを吹いて魔力が無くなった時、すぐに魔力が戻らなかったの? わたし、エルの背中に乗ってたのに」
すぐ側どころか、身体が密着した状態だったのだ。エルの言葉の通りならばすぐ魔力切れは補充された筈だ。
≪だって、オレがまだ、魔力に馴染んでないから、そんな一挙に魔力を取り入れられないし。それでもルカがいるから、かなり早く回復してるんだよ。もう、一回ブレス分くらい回復してるし。ルカがいなかったら、次にブレス吹けるようになるまで、十日はかかると思う≫
「そうなんだ…」
わたしはエルの説明に息をついた。つまり魔力は一瞬で補えるようなものではなく、ある程度の時間経過が必要ということだ。考えてみれば、器に水を満たすにしたって、相応の時間はかかるものなのだ。
わたしがいれば、喉が乾いた時にいつでも手持ちの水筒から水が飲める、そういった感覚なんだろう。
≪それじゃルカ、これからどうしよう? オレ、まだ飛べるけど≫
エルの問いに、わたしは空を見上げた。
まだ明るいが、日は西に傾きかけている。現在の時刻は分からないが、恐らく更に南を目指して飛ぶうちに日が落ちてしまうだろう。
この世界は元の世界と時間の感覚は同じで、一日が二十四時間、月も年も殆ど同じだが、曜日の概念は無いらしい。
「今からまた飛んでも、夜までに大森林を抜けられそうにないし、魔法障壁を張ったから、今日はもうここで休んだ方が良いと思う。エルもわたしも、疲れてるし」
≪そうだね。今日はもう魔物に会いたくないや≫
休むと決めたは良いが、念の為に周囲を探知魔法で探ってみる。
半径数キロメートルにわたって、反応を探ることが出来る魔法だが、遠隔カメラのように遠くが見えるというわけではない。生物や動くモノ、或いは水場なら水場と対象を絞って、それらしい反応を探るのだ。
ざっと探った限りでは、近くに人間らしき反応は無い。少し離れた場所に泉らしき水場があるが、その周りには魔物らしき反応がある。恐らくは近辺の魔物や動物の水飲み場なのだろう。
側に行って蹴散らしたとしても、またすぐに集まって来るだろうから意味は無い。無理に近付く必要は無いだろう。
水は水魔法で出せるし、応用の洗浄魔法で身体を清めることも出来る。
わたしは先ず自分に洗浄魔法を使うと、服ごと濡れた身体を風魔法で乾かした。本当はのんびりお風呂に入るか、せめて裸でシャワーを浴びたいところだが、こんな野宿状態で贅沢は言えない。
「うん、洗浄魔法のやり方は分かった。それじゃ、エル?」
「ぴ?」
反射的に鳴き声で返事をしたエルに、水魔法の力を向ける。
「ぴぎゃっ!」
魔法で作った大きな水玉に頭から突っ込んだエルは、驚いたようで鳴き声で悲鳴をあげた。両の前足で頭を抱えようとする。
≪ひどいよルカ! いきなり水かけるなんて!≫
「大丈夫、綺麗に洗うから。じっとしててね」
エルの身体を覆った水玉に両手を突っ込んで、ビロードのような滑らかな身体を、撫でたり揉みほぐすようにして洗っていく。温度調節も熱すぎず冷たすぎず、丁度良い。
最初は不満そうにしていたエルも、身体を撫で回されるうちに気持ち良くなってきたのか、目を閉じて、わたしのするままに任せている。
洗浄魔法はこうして水分で対象を覆い、汚れを水に浮かせて、汚れた水に魔力を通して浄化する。この繰り返しで対象物を洗浄する。
わたしはこの通常の使い方に更に加えて、水に石鹸成分を含ませてみた。
手を動かすにつれて汚れがどんどん落ちていき、最後に浄化した水でもう一度全身を拭って、それから風魔法で乾かす。
「どう、さっぱりした?」
さすがに二メートル超えのドラゴンの身体を洗うのは大変で、一時間以上はたっぷり掛かってしまった。
その甲斐あってか、エルはさっぱりしてご機嫌な様子だ。
≪洗うのって、気持ちいいね! また洗ってね≫
「うん、綺麗にするのは気持ちいいよ。ホントはお風呂に入りたいけど、今は無理だからしょうがないね」
≪お風呂?≫
エルがきょとんと小首を傾げるので、わたしは自分の記憶の、お風呂に入るイメージを開放して念話で伝えた。さすがにエルがいくら幼竜でも、自分の入浴シーンを見せるのは抵抗があるので、テレビで見たことのある温泉紀行番組の映像を思い出して見せる。
≪これは、水浴びしてるの?≫
「ううん、お湯を沸かして 浸かるの。この世界でも、人間にはお風呂に入る習慣があるみたいだから、人間の住む地域に行ったら入りたいね」
≪うん。じゃあその時は、オレも人間に変身して入りたいな≫
古神竜が人間に変身する能力があることは、先代竜の記憶から分かっていたので、エルの発言に特には驚かない。
「お風呂は気持ちいいから、きっとエルも気に入ると思うよ。早く行ってみたいね」
≪うん!≫
嬉しそうに返事をするエルの様子は、本当に可愛くて微笑ましい。わたしは思わず背伸びしてその頭を撫でた。
「ぴぃ…」
エルも撫でられるのが気持ちいいのか、可愛らしく喉を震わせた。