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真夏の空

作者: 高宮 咲


じりじりと暑い八月。

ミンミンと鳴く蝉の大合唱は、まだまだ続きそうだ。

半袖でも暑いおかげで、街中を歩く人は大抵がぐったりしている。

もう夕方だというのに、空から降り注ぐ強い太陽の光。

早く沈めば良いのになと思うが、多分今夜も熱帯夜だろう。

寝苦しいこの季節が、大嫌いだった。


『続いてのニュースです。本日朝8時半頃、××県葉山市の交差点で、トラックが通学途中の男子高校生を撥ねる事故が発生しました。男子高校生は病院へ搬送されましたが、間もなく死亡が確認されました。』


どこかの家から聞こえてくる夕方のニュースだろう。

そうか、自分の住む場所でそんな事故があったのか。自分も気を付けよう。

フラフラと少年は宛も無く歩く。


『事故に遭った少年と同じ学校に通う生徒は…』


おいおい、マスコミさんよ。そういうのはやめてやった方が良いんじゃないのかな。毎度のことながら、悲しんでいる人のところにインタビューをしに行くと云うのが良くわからない。


『ご両親にもお話を伺う事が出来ました…』


両親も可哀そうにな。

自分の息子が死んで、しかもマスコミからインタビューまでされるのだから。


『本当に駄目な息子でした…親より、先に死んでしまうなんて…』


「ちょっと待て」


おかしい。

これもしかしなくとも自分の親じゃないか?

こっそり塀の上から覗き込んだテレビの画面に映るのは、間違いなく自分の母親だった。

皺の目立ち始めたおばさんという印象で、涙を浮かべて話をしている。

その横に立つのはスーツ姿の自分の父親だ。


『最後の最後まで駄目な息子でしたが…たった一人の息子だったんです…』


いや、ちょっと待ってくれよ。

確かに住んでいる場所は葉山市だ。映っているのも両親だ。

でもなんだ?人を勝手に殺すなよ。

自分は生きている。生きているからこうして外に居てテレビの画面をのぞき見しているのだから。


「いーや?君死んでるからね。」


「…は?」


「ハァイ。探したよ。死んだなら死んだ場所か病院に居てよね。」


目の前…というより、反対側の塀の上に座り、こちらに手を振る不審者。

全身黒で纏め、黒く長い髪が夕方の風に揺れている。

いや、そんなことはどうでもいい。


「死んでる?」


「うん、死んでる。さっきからそのニュース覗き見してるならわかるっしょ?」


塀の上から降り立った不審者がこちらに歩いてくる。

とても、背が高い。黒い長身の男に目の前に立たれると威圧感が強い。

ニコリと笑った男が右手を掴んで塀に押し当てた。


「…は?」


「ね?」


「何で突き抜けてんだよ!」


「君が死んで実体が無くなってるからだよ。」


男に右手は掴まれている。それなのに、塀には触れず突き抜けているのだ。

死んでいると言われ、現に目の前では塀を突き抜ける自分の腕がある。

混乱。そう、混乱だ。目の前の状況がうまくつかめない。

ニタニタと笑う男が掴む手の冷たさが、やけにしっかりと認識できた。


「だって君、今の季節解ってる?」


「…八月…真夏だろ?」


「汗ひとつかいてないじゃないか。」


指摘されてようやく気付いた。

そういえば、どうして暑さを感じていないのだろう。

通学途中はあんなに暑くてげんなりしていたのに。

今はなんともない。快適なまでに何も感じないのだ。


「いや…だって…は?」


「はいはい、面倒だから落ち着こうね。君の体のところに行ってみようか。」


「ちょっと…待てよ!」


グイグイと腕を掴んだまま男が歩きだす。

恐らく180を超えている男だ。力に抗うことはまず出来ない。

ずるずると引きずられるようにして、少年は道を歩いた。


蝉の声が、やけに大きく聞こえた。


*・*・*


ひんやりとしているであろう、病院の廊下。

薄暗く、白い壁の長い廊下の、沢山あるドアの一つの前で男は止まった。

入れという仕草をされ、ドアノブに手を伸ばした。


「あ…。」


そうだった。

掴めないんだ。

もう何かに触ることも出来ない。

触れることが出来るのは、隣で笑っている男だけだ。


「このままドアに触れれば通り抜けられるよ。」


「…変な入り方だな。」


「それが俺たちの入室方法だからね。」


ニタリと笑う黒ずくめの男が、嫌味ったらしくドアに手を通した。

ね?と子供に諭すように言うのはなんなのだろうか。

これでも17だ。言われなくてもそれくらい出来る。


「…俺だ。」


「そりゃぁ死んでるのは君の体だからねぇ?」


「じゃあ…なんで俺はここに居るんだ。」


「君の魂というか…思念というか…まあ小難しいことは気にしないでさ。」


君の体にお別れをしようか。

ヘラヘラしているはずの男が、急に真面目な声を出す。

目の前で横たわっている体は、確かに自分のものだ。

青白い顔。組まれた両手。鼻と口には脱脂綿。

可笑しいな、ドラマでこんなの見た気がするんだ。

死んだ人にやるんじゃなかったっけ。


「は、はは…気持ちわりぃ…。」


「まぁ死んでる人間を見るのが初めてなら当然の感想だよね!」


「普通そんなに見るもんじゃねぇだろうが!」


「まーね。俺の仕事柄こういうのはしょっちゅう見てるから。」


こいつは本当に何者なんだろうか。

大人しく引きずられて来たは良いものの、目の前の男の正体は解らない。

見るからに怪しいのしか解らない。

年齢は?見た目は大体二十代後半だろう。

長い黒髪を無造作に纏めている姿から考えて、性格はかなり適当だと思われる。

貧層な観察眼でわかるのはそれくらいだ。


「お前…誰なんだ?」


「君たちに解る様に言うなれば死神ってやつかな?正確にはちょっと違うんだけどね。」


「いやいや、意味わかんないから。」


「だろうね。俺にもよく解らないから。」


本当に、適当だと言う事だけしか解らない。

ヘラヘラしながら自分の体にちょっかいをかけるのは如何なものか。


「そうそう、一応お仕事するかな。君の名前は伊藤健君。年齢は17歳だから享年17歳だね。死因はトラックに撥ねられた時に頭を打っての脳挫傷。おっけ?」


「おっけ?って聞かれても…年齢も名前も当ってるけど…なんでそんなこと知ってるんだよ?」


「だから死神みたいなもんだって言ったっしょー?はいはい次いくよ。」


手元の手帳を見ながら色々と言葉を投げかけてくる。

ちょっと待ってくれと言葉をかける間も無いまま、矢継ぎ早に言葉が出てくるのだ。

真面目に仕事をしているのかもしれないが、自分からしたら何が何だかわからないことを延々と言われているに過ぎない。


「ってなわけで、君にはチャンスがあります。」


「チャンス?」


「そ。日付が変わってからの24時間が君に与えられたチャンスです。何をするかは君の自由だよ。」


「死んでるのに何しろって言うんだよ?」


死んでいるのだから、何かを食べるのも、何かをするのも、誰かに会うこともできやしない。

そんな状態で24時間も何をしろというのだろう。


「だからチャンスだって言ってっしょー?この24時間の間なら、誰かに話しかけることが出来るんだよ。人数制限は3人までだけどね。」


「へー…。」


「普通ならこんなチャンスは無いけどね。君は特別に許されてるみたい。」


「なんで?」


「そこは企業秘密。」


ウィンクなんかすんな腹立つんだよ。

3人だけに話しかけることが出来ると言われても、誰に何を話せばいいのだろう。

生憎彼女も居なければ、親友の様に未練を残した友人も居ない。

あまり人と関わってこなかった事が悔やまれる。


「あ、因みに俺も一緒に行くから!」


「は?何で。」


「監視ってやつ?だからエロイ事は出来ないね!」


「しねぇよ!」


噛みつくように言ったが、ヘラヘラ笑う死神もどきはなんとも思っていないのだろう。

与えられた時間を、どう使おう。

とりあえず、外に出てみよう。


「はーい日付変わったね!好きに行動して良いよ!」


「馬鹿かお前。こんな夜中に人と会ったらそれこそホラーじゃねーかよ!」


「えー。それが楽しいんっしょー?」


「さっきから気になってたんだけどさ。っしょってなんだよそれ。」


「癖ってやつ?」


腹立たしい事に、そんな言葉を使っていても似合うのが腹が立つ。

それにしても、こんな夜中にどうしろというのだろう。

眠ることも食べることも出来ない。

そんな状態で朝まで待つのか。


「あ、君のお母さんじゃないかな?」


「はぁ?」


何を言っているのだろう。

コツコツと靴音が廊下から聞こえてきた。

別に会いたいわけでもないが、何処に行けば良いのかも解らない。

キィと音が聞こえて、そちらを振り向くと、真っ赤な目をした母親が本当に居た。

育ててくれたことには感謝はしているが、それ以上の感情は無い。


「あーあ。目真っ赤。君の事大事にしてたんだね。」


「知るか。」


思春期特有の反応というわけでは無い。

昔からこうなのだ。

どうしても、この人が母親とは思えない。


「…本当の母親じゃないんだからな。」


「そういえばそんなデータもあったねぇ。君が4歳の時にお父さんが再婚したんっしょ?」


「そうだよ。だからこの人は俺の母親じゃないんだ。」


それなのに、どうしてこの人はこんなに目が腫れるまで泣いているのだろう。

本当の息子でも無いのに、自分は本当の母親でも無いのに。

横たわっている自分の頬を、涙を流しながら撫でる姿に、胸が少し苦しくなった。


「…話しかけなくて良いのかい?」


「別に。話すことなんて何も無いし。」


ボロボロと涙を流しながら何か話しかけている。

死んだ人間に話しかけてもどうにもならないのに。


「本当の息子じゃなかったけど…本当の母親じゃなかったけど…本当に、健の事は大事に思っていたのよ。」


だからなんだ。

確かに本当の親子じゃない。

4歳の頃からとは云え、大事にされていたことは解る。

それでも、血のつながった母親を失って、すぐに家に来たこの人をどうしても好きにはなれなかった。


「ごめんね、健。私は貴方の母親をしっかりやっていれたのかしら。」


出来ていたよ。

でも、それでも自分は、この人に話しかけることは出来なかった。


「意地っぱり。」


「煩い。」


この場所に居たくなくて、入ってきたときと同じように部屋を出る。

ドアをすり抜ける事に慣れることは無さそうだ。


さて、何処に行こうか。

行く宛も無く、夜道をフラフラと歩く。

幽霊…という認識では居るが、漫画の様に空を飛んだりは出来ないようだ。

さっき木から飛び降りてみたが、落ちただけで特に何も無かった。

強いて言うなら、痛みが無い事と、死神に大笑いされたくらいだ。


「で?何処に行くんだい?」


「んー…親父のとこ。一応実の親だしな。」


「へぇ?お父さんなら今家に居るよ。」


「そんなこと何でわかるんだよ?」


「死神の特権ってやつ?」


何だそれは。

訳が解らないことは最初から解っていたが、いよいよ本気でコイツの頭が心配になってきた。


「ここから歩いたら結構時間がかかるね。連れて行ってあげるよ。」


「そんなん出来るなら最初からやってくれよ。」


「まあそこは気にしない方向で。」


ニタリと笑った死神が、右手を掴む。

痛みを感じないとはいえ、思い切り掴まれたのを見ると、どことなく腕が痛いように思えた。


「はい到着。」


「…は?」


掴まれた腕を見ているうちに、何故か先程まで居た道から自宅の前に居た。

小さな頃から見慣れた玄関のドア。

一部屋だけ明かりが付いているのだが、そこはリビングだ。

玄関のドアをすり抜けて、意味もなく靴を脱ぐ。

死神もどきはそのままだ。


「お父さん君の写真見てるね。」


「見れば解るっての。」


写真を見て、真っ赤になった目を擦っている。

自分の嫁がこの夜中に病院に居るのに、この男は何をしているのやら。


「…健。」


「なんだよ。」


条件反射で返事をした。

聞こえないと思っていたのに。

ビクリと肩を震わせてこちらを見た。


「…あれ。」


「健…。」


「お、おいっす。」


「健…健か?」


「自分の息子の顔くらい覚えてろっての。」


大粒の涙をこぼして、フラフラと立ち上がってこちらに向かってくる。

目の前で自分の手を握ろうとしているが、当然のことながら掴めない。

それに困惑しているのか、すり抜けてはまた手を掴む。

何度も、何度も。涙をこぼしながら。


「ごめんな、親父。先に死んで。」


「何でだ…何で。何で…。」


「俺は死んでるんだよ。幽霊みたいなもんだから触れないんだ。」


「…馬鹿息子が…。」


その場で崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ父親に、自然と涙がこぼれた。

仕事ばかりで昔から構ってなんかくれなかった。

大好きだったキャッチボールも、いつの間にかしなくなった。

最近話したことも、よく覚えていない。

最後に話したのは「いってらっしゃい」のひとことだけだ。


「もっと、ちゃんと話してやりたかった…お前と…またキャッチボールがしたかったんだ。」


「うん。」


「お前に彼女が出来て、家に連れてきてくれるのを楽しみにしてたんだ。」


「ごめんな。俺モテないからさ。」


ぽつりぽつりと、父親の素直な気持ちを聞かされる。

もう触れることも出来ない。

話すことが出来るのも、これが最後だ。


「そろそろ時間だよ。」


時間制限があるなら先に言ってくれればいいのに。

何を言おう。

何を言うかなんて決めていなかった。

それに、話しかけるなんて思っても居なかった。


「そろそろ時間なんだってさ。」


「…もう、逝くのか。」


「まーね。…おばさん…母さんと仲良くな。育ててくれてありがとう。」


素直な、言葉だった。

目を見張った父親に、死神もどきが手をかざす。

多分その姿は見えていないのだろう。


「お、おい…何したんだ?」


「ちょっと眠ってもらっただけだよ。朝になったら目を覚ます。君と話したことは夢とでも思うよ。」


「…そっか。」


「話せる人数はあと二人だよ。次は誰のところに行くんだい?」


死神もどきが、無表情で突き付けた現実を、俺は眠り込んだ父親を見つめながら耳にした。


さて、次は何処へ行こう。

ぼんやりと、次に行く場所を考える。

日は登り始めて、暑さが徐々にだが強くなる。

まだ朝だというのに、ちらほらと道を歩く人が増えてきた。

今は何時だろう。

学校へ行くときの恰好のままだが、右腕に嵌めてある腕時計は死んだ時の時間を刺したまま動かない。

時計の針は8時34分。

そうか。これが自分の死んだ時間なんだと、少年は唇を噛みしめた。


「ねぇ健君。何処に向かってるの?」


「…何処だろうな。」


「会いたい人は、居ないのかい?」


「わかんねーよ。ただ…」


ただ、歩いているだけだ。

立ち止まったら、それこそ本当に消えてしまうんじゃないかと。

いや、夜中になったら本当に消えることは解っている。

それまでは、まだ自分の世界だったこの世界に残って居たかった。


「消えたら…どうなるんだ?」


「それは秘密。」


「…そっか。」


学校の近くの向日葵の咲いた家。

この家に居る犬が好きだった。

真っ白で、毛のふわふわした大きな犬。

通い始めてからすぐに気に入って、毎朝の様に声をかけてから学校に行ったんだっけ。


生きていた頃の思い出を、こうして死んでから思い出すなんて。

なんでだろう。なんだか胸が苦しいのだ。

夏休みなのに補習で学校に呼び出され、面倒だと言いながらも学校に向かっていただけなのに。

どうしてトラックに撥ねられて死ななければならなかったのだろう。


「…彼女くらい欲しかったなぁ…。」


「生まれてこの方出来た事無かったんだっけ?非モテだねぇ…。」


「っせーな…仕方無いだろ。別に容姿端麗な訳でも運動が出来た訳でも無いんだから。」


「…そうだね。平凡が君の良いところだ。」


それは、褒められているのだろうか。

何をやっても平均。身長も体重も平均で、テストはいつでも平均点で…誰かよりも秀でたところは何一つ無かった。

それでも、自分は満足していたのだ。


それを、あの朝の事故のせいで全てを失った。

小さな頃から、気が付けば大事なものをぽろぽろと両手から溢していたのだ。


「…行きたいところ、あった。」


「ふーん?どこに行くんだい?」


「実の、母親のところ。」


4歳の頃に離婚して居なくなった母親だ。

たまに手紙が届くおかげで、何処に住んでいるかは知っている。

本来なら歩いていける距離では無いが、この死神もどきの力を借りればすぐに着くだろう。

現に、ニタリと笑った死神もどきが手首を掴んだ。


ぐにゃりと歪んだ視界が戻ると、そこは広い広い向日葵畑だった。


一面黄色い絨毯の様に広がる向日葵が、少し蒸し暑い風に揺れた。

葉が擦れる音が耳に心地良い。


「…何処だい此処。」


「お前が飛ばしたんだろ?…母さんの暮らしてる家の近くの向日葵畑だよ。」


絵を描く事が好きな母親が、この場所はお気に入りなんだと言っていた。

何年か前の夏休みに一度だけ連れてきて貰ったんだ。

母親は何処に居るだろう。

そうだ。母親のところへ行く前に、この景色をもう少し見て居たかった。


「綺麗な所だね。」


「な。…母さんの好きな場所で…俺も好きなんだ。」


この間もこの向日葵畑の写真を送ってもらったんだっけ。

もう少ししたら泊りがけでこっちに来る予定だったんだけどな。

死んだことは知っているんだろうか。

多分親父が電話したんだろうな。それともニュースか何かで見たかな。

どちらにせよ、こんなに早く死ぬなんて思わなかった。


「お母さんももう少ししたら此処に来るかもね。」


「どうだろうな。とりあえず家に行くよ。歩いてすぐなんだ。」


「そっか。」


二人でサクサクと音を立てながら歩く。

ここは本当に田舎で、秋になれば少し離れたところで紅葉が見られるらしい。

まだそれも見ていなかった。見てみたかった景色だったのに。

俺は秋まで生きることが出来なかった。


「…此処だよ。」


「入ったら?」


「そうする。」


腕をドアに通して、母親の住んでいる家に入る。

向日葵畑の外れにぽつんと立っている家。

窓から向日葵畑が見えると喜んでいた。


「もういい加減起きてるかな。」


「多分ね。物音がするから。」


台所からカタカタと音がする。

そっとそちらに近づけば、母親が洗い物をしていた。

茶色くて長い髪の毛を後ろで綺麗に纏めて、長いスカートを着ている。

久しぶりに会った。

その姿を見て、じわりと涙が浮かんでくるのが解る。


「話しかけるかい?」


「…うん。」


そっと、母親の後ろに立つ。

息を吸って、そっと吐き出すように「母さん」と呼んだ。


「…健?」


「うん、母さん。久しぶり。」


はにかんだように微笑んで、頭をかく。

面と向かって話すとなると、どう話せばいいかわからない。

きょとんとした顔でこちらを見る母親は、自分が死んだことは知らないのだろうか。


「どうしたの。来るなんて聞いてないわよ?しかも制服だし…。」


「ちょっと、色々あって。少ししか居られないんだけどさ。」


「そうなの。何か食べる?」


「…もう食べられないんだ。」


そうだ。母親の作った料理が好きだった。

小さい頃に食べた記憶しか無いが、前に来たときに食べた料理はとても懐かしくて、美味しかった。


「…母さん。あのさ。」


「どうかした?」


「親父から何か聞いてない?」


「聞いてるわよ。テストの点が最低だったーって嘆いてたわ。」


離婚したくせに色々と話していたのか。

どうして離婚したのかは知らない。

すぐに次の母親が来たことから、多分親父が浮気していたんだろうとは思う。

小さかったおかげで何も解らなかったが、今となっては大人にも色々合ったんだろうなと、それくらいは解る。


「死んだって聞いたときはびっくりしたけど…やっぱりタチの悪い冗談だったのね。だってこうして目の前に居るんだから。」


そっと、頭を撫でてくれる。

いや、撫でようとしてくれたのだが、頭に触れる事は出来なかった。

空を掴むように、何度も何度も撫でようとする。

解っていたはずだ。そんなタチの悪い冗談を親父が言う筈無いと。

死んだことは、解っていたはずなのだ。


「…どうして…?」


「ごめんな。死んだんだ。三人とだけ話が出来るから…母さんのとこに来たんだ。」


「目の前に居るのに…どうして触れないのよ…!」


「死んでるから。…ごめん。泊まりに来るの楽しみだったんだ。お土産だってもう準備してあったんだ。」


慣れないながらも短期バイトなんかして、その給料で買った腕時計。

ラッピングも綺麗にしてもらって、泊まりに行く用の荷物の中に忍ばせてあったのだ。

それも、もう渡すことが出来ない。


「生んでくれてありがとう。一緒には暮らせなかったけどさ。俺の母親は母さんだけだよ。」


「…新しいお母さんとは仲良く出来てた?」


「…そう、だね。うん。」


「あの人は良い人だから。大事にして貰ってた事もちゃんと解ってる。」


「…うん。」


「お母さんって…呼んであげた?」


「やだよ。呼んでない。」


「駄目よ。あと何人とお話出来るの?」


「一人。」


まっすぐにこちらを見る瞳は、涙を沢山浮かべていた。

母親を泣かせてしまったことに胸が痛む。

何も出来なかった。親孝行なんて何一つしないまま死ぬなんて。

申し訳なくて仕方が無かった。


「だったら、ちゃんとお礼くらい言いなさい。本当は解ってるんでしょう?」


「…うん。」


「健。ごめんね。」


「は?」


「ちゃんと育ててあげられなくて、ごめんね。」


「…良いんだよ。」


二人して、大泣きしてしまった。

もう自分は死んでいる。夜中になれば消えるのだ。

それでも、母親はまだ生き続ける。

自分が産んだ息子を亡くして、それを胸に刻んだまま生きるのだ。


「そろそろ時間だね。」


「…うん。」


「健…?」


「ごめんな、時間だって。」


「嫌よ…お願い行かないで…。」


涙を流して懇願する母親に、無情にも死神もどきが手をかざしかける。


「母さん、大好きだ。」


その言葉は届いただろうか。

意識を失う様に眠った母親の頬には、涙の筋が残る。

それを拭ってやりたくて、頬に手を伸ばすが、あっけなくその手はすり抜けてしまった。


「…健君。」


「ごめん。もう少し此処に居させてくれ。…まだ行きたくないんだ。」


「…起こそうか。もう話すことは出来ないけれど。」


「うん。…生きて、ちゃんと動いてる母さんをもう少しだけ見たいんだ。」


コクリと頷いて、死神もどきがもう一度手をかざす。

うっすらと目を開けた母親が、きょろきょろと周りを見回していた。

自分の名前を呼ぶ声は、震えていた。


「此処に居るよ、母さん。見えない?」


「健…健…?」


当たり前なのだろうが、声は届かない。

うずくまって泣き出した母親の背中を擦ってやりたかった。

触れる事なんて出来ないけれど、傍に居たかった。


「笑ってくれよ母さん。…お願いだから。」


「健ぅ…お願いよぉ…もう一回だけで良いから…っ」


「出来ないんだよ、母さん。ごめんな。」


「聞こえてないよ。ほら、早く行こう。」


「…うん。」


泣きじゃくる母親を放って行くことはしたくなかったが、死神もどきが行こうと腕を掴む。

最後に一つだけと、聞こえる筈の無い言葉を母親に向けた。


「生まれ変わりがあるのなら、もう一度母さんの息子に産んでくれよな。」


床に涙の水たまりが出来そうな勢いで泣く母親を見て、ぐにゃりと視界が歪んだ。

視界が安定すると、そこはまた、自分の遺体のある部屋だった。


「…最低だよ、死神もどき。」


「知ってる。」


ニタリと笑った黒い死神もどきが、楽しそうに遺体を弄んだ。


もう何もしたくない。

あんなに泣きじゃくる母親は初めて見た。

見たくなんか無かった。


遺体のある部屋には居たくなくて、家に戻ってみた。

自分の部屋のベッドに寝転んで、なんとなく天井を見つめた。

そういえば、触れる事は出来ないのにどうして座ったり寝転んだり出来るのだろう。


「ずっと立ってるのもしんどいっしょ?」


「まーな。」


隣に座った死神もどきが、ぶらぶらと足をぶらつかせる。

眠ることも出来ないのに、夜中まで何をすれば良いのだろう。

幽霊なら、何処かに覗きに行くというのも漫画ではありがちな話だ。

まあそういったことに興味が無いおかげで、自分は今こうして退屈しているのだが。


「最後の一人は誰にする?」


「んー…どうしよっかな。」


母親に言われた通り、育ての母親と話そうか。

…何を話せと言うのだろうか。

いまいち思い出も何も無い。

小さいころから懐くこともせず、頼ることもしなかった。

会話らしい会話をした覚えもそんなに無かった。

あると言えば、小さい頃に連れて行かれた夏祭りで無理やり手を繋がれたことくらいだろう。

それがどうしても嫌で、ずっとむくれていたんだっけか。


「お、お母さんだ。」


「はぁ?」


部屋に入って来た育ての母親。

相変わらず目は真っ赤になって居る。

それにしても、何故自分の部屋に入ってきたのだろう。


「君の荷物だね。散らばった荷物も全部回収されて、それを部屋に置きに来てくれたみたいだ。」


「ふーん…。」


学校用の鞄から出された自分の腕時計。

液晶が割れて、もう時は刻まなくなっている。

可笑しいな。自分の腕に嵌っているコレはなんだ。

駄目だ。もう深く考えるのはやめよう。


「鞄ボロボロだねぇ。」


「撥ねられたからじゃん?」


「そっか。」


今度はケータイか。

買い替えようと思った矢先に死んだおかげで、ガラケーのままだ。

それを母親が開けば、まだ電池が残っていたおかげで待ち受け画面が現れた。

好きなバンドのロゴ。どうにも親には理解されなかったが、それでもこのバンドが好きだった。


「本当に、私にはこの人達の曲は解らないわ。」


知るか。

別に解らなくても良い。理解されたいとは思わない。

というか、聞いてたのかそのバンドの曲。


「結局、お母さんって呼んでくれなかったわねぇ…。」


呼ぼうと思ったことはある。

タイミングを逃してしまったのだ。

というか、そもそも呼ぶ必要が無いと思っていた。


『おとーさん、このおばさんだれ?』


『新しいお母さんだよ。』


ふと、頭に浮かんだ懐かしい記憶。

懐かしいというよりは、複雑な気持ちだ。

出かけてすぐに帰ってきた父親が連れてきた見知らぬ女性が、頭を撫でながら「よろしくね」と笑ったのだ。

本当に、嫌で嫌で仕方なかった。

大好きな母親が出て行って、すぐに家に来た「お母さん」と呼ばれる女性。

良くわからなかったけれど、この人のせいで大好きな母親が出て行ったのだと思っていた。いや、今でも思っている。


「不倫して…健からお母さんを奪って…恨まれてて当然よねぇ…。」


やっぱり、そうだったのか。

結局はそうだったのだ。

母親が居ないと寂しいだろうと言った父親の言葉は、恐らくだが自分の為の言葉だったのだろう。

自分が浮気をしていた癖に。一緒になりたいが為だけに自分から母親を取って転がり込んできたのだから。


「でも、本当に健の事は息子だと思っているのよ…大事にしていたつもりだったのよ。」


今更なんだ。

そんなことは一度も聞いたことが無い。

気が付けば何時でも怒鳴っていた。

あれをしなさい、これをしなさい。ああしなさいこうしなさい。

そんなことばっかりだった。

その度に「本当の母親でも無いのに親面すんじゃねぇ」と怒鳴り返していたんだっけ。

夜こっそりキッチンで泣いていることも知っていた。

後ろめたさは少しだけあったものの、それでも謝る気にもなれなかったし、お母さんと呼ぶ気にもならなかった。


「…良いのかい?話さなくて。」


「…どうだろうな。」


泣いている姿を見ていたら、急に何か話しかけても良いんじゃないかと思い始めてしまった。

謝った方が良いのだろうか。

本当の親ではなかったけれど、感謝はしていると伝えたほうが良いのだろうか。

今更伝えても遅いかもしれないけれど、これを逃してしまったら、もう二度と話すことは出来ないのだから。


「自分の気持ちに素直になりなよ、健君。」


「…解ったよ。」


ベッドから起き上がって、スゥと息を吸い込んだ。

背中に向けて、言葉を投げた。


これで、最後の一人だ。


「…洋子さん。」


「…っ」


驚いたように後ろを向いた。

ベッドに座ったまま、こちらを見ている義理の息子に驚いているのだろう。

手にしていたケータイを落として、ポカンとした顔でこちらを見つめた。

やめてくれ、壊れたらどうしてくれるんだ。

いや、死んでいるのだからもう使わないのか。


「健?」


「そ。健。」


「…どうして…?」


「三人とだけ会話が出来るんだってさ。…洋子さんが最後。」


「…私で、良かったの?他にも話したい人が居たんじゃないの?」


そう言われると、友達とも話したかった。

一番仲良しだった友人にも何も言っていない。

隣のクラスの奴だって、近所の幼馴染だって、他に話したい人物は居た筈なのだ。

友人の中から誰かを選ぶことは出来なくて、つい家族に話しかけていただけで、別に他意はない。…筈だ。


「あんまり時間は無いんだ。だからちょっとしか話せないけど。」


「…じゃあ、先に良いかしら。」


「何?」


「ごめんなさい。」


服の裾を握りしめ、声を震わせながらの言葉だった。

普通なら、何に対しての謝罪なのかは解らないだろうが、さっきまでの言葉を聞いていたおかげで、何に対しての謝罪なのかは解る。


「…良いよ。大人には大人の事情があって、子供はそれに従うしかないんだから。それに、洋子さんが一生懸命だったことくらいは解ってる。」


「でも…。」


「確かに母さんを追い出したのは恨んでるけど…まあ、うん。洋子さんの事、嫌いじゃなかったよ。」


これが、自分の精一杯だった。

泣き崩れる育ての母親の傍にしゃがむ。

ここまで三人共大泣きしているが、良い年した大人が泣くところなんて滅多に見られるものでもないだろう。

冥土の土産にしてやろうと、そっと顔を覗き込んだ。


皺の目立ち始めた肌に、涙を沢山浮かべた目。

もうずっと泣いていたのか、腫れあがって真っ赤になってしまっている。


「親父のこと、よろしく。…それから、この荷物の中にラッピングしてある箱があるんだ。…俺の実の母親に送ってやってくれる?バイト代で買った腕時計なんだ。」


「うん、うん…解った…送っておくから…。」


「頼む。…親孝行してやれなくてごめん。」


「私は…本当の母親じゃ無いのよ?」


「解ってる。だけどさ、大事にしてくれて、育ててくれてありがとう。」


そろそろ時間だよと、死神もどきが言った。

こんなに時間が過ぎるのは早いのか。

涙を溢して謝る母親に、そっと寄り添う。

息子としては最低だったな、と自嘲気味に笑いながら、育ての母親に時間だと告げた。


「生きてるうちに言えなくてごめん。…ありがとう、母さん。」


照れくささはあるものの、言えてよかったと思う。

すぐに死神もどきが手をかざしてしまったが、多分声はちゃんと聞こえていたのだろう。口元が微かに微笑んでいるようだったから。


「ちゃんと言えたじゃないか。」


「なんか恥ずかしいけどな。…これで三人終わりかー。まだ夜にもなりかけってとこだぜ?」


夜中までどうしていろというのだ。

せめて眠ることくらいは出来るようにしておいて欲しかった。

何かに触れることが出来ないせいで、漫画も読めないのだから。


「散歩でも行く?」


「君の育った場所を案内してくれよ。時間はまだあるんだから。」


「はいはい。んじゃー遠くまで歩いてみますか。」


眠った母親を名残惜しそうに見つめ、二人はそっと部屋を後にした。


色々な場所を回った。

小学校、中学校。幼馴染の家。

小さい頃に良く遊んだ小さな林。

歩いていればなかなか時間が過ぎるのは早いもので、既に夜中になっていた。


「昔ここで溺れたんだよ。足つくのに慌てたおかげでぎゃーぎゃー叫んでさ。」


「昔から間抜けだね。」


「うるせーよ。」


月が川の水面で揺らいでいた。

街灯に照らされた川辺に座っては居るが、影が無い事に気づいて少しへこむ。

そうだ、死んでいるんだ。

そのことをたまに忘れてしまうのは何故だろうか。


「そろそろ時間だね。やり残したことはもう無いかい?」


「特にはねーよ。話もしたし。」


「そっか。じゃあ逝こうか。」


さっきまで、話をした相手にしたように死神もどきが手をかざした。

意識が遠くなるような感覚。

走馬灯というのだろうか。死んでいても見えるものなのかとぼんやり考えながら、脇をゆっくりと流れるそれを眺める。

ああ、自分が死んだ時はこんな顔で死んだのか。

目を開いたまま道路に横たわる自分の姿が気持ち悪い。


「ちょっとネタばらしさせてもらうと、生まれ変わりの話、あれ実は嘘なんだよね」


「無いのか。」


今更そんなネタばらしをされたところで、もう死んでいる以上どうにもならない。

今更「嘘つき!」なんて騒いだところで、きっと目の前の死神もどきはニタニタと笑うだけなのだ。


「うん、無いよ。それはすぐにわかることだから、君は安心して逝くと良い。」


「…解った。…じゃあな死神もどき。」


「またいつか。」


もう会いたく無いと言う事は叶わぬまま、今度こそ本当に意識が途絶えた。

途絶えた、というよりは真っ暗になったのだ。

目を開けているのかも解らない、ただただ真っ暗な世界。

急に怖くなったが、死んだ以上は何もできやしないのだ。


「結局、誰だったんだろうな。あの死神もどき。」


見覚えがあるわけでも無いが、なんだか気になってしまったのだ。

死神のようなものだとは言っていたが、それがどういう事なのか、どういうものなのかも結局解らず仕舞いだった。


「…なんか眠いな…。」


死んでいるのに眠れるのか。

さっきまでいくら眠ろうとしても眠れなかったのに。

久しぶりに感じた眠気に抗うことは出来ず、健は深い深い眠りについた。










「はっぴばーすでーとぅーゆ-、はっぴばーすでーとぅゆー…」


ニタリと笑った死神もどきが、生まれたばかりの赤ん坊の頬を啄きながら、小さく口ずさむ。


「君にチャンスがあったのは、君がこれで丁度100回目の人生を終えたからなんだよ。今度はもっと長生き出来ると良いね。どうぞ、健やかなる生を」


ゆっくりと立ち上がった死神もどきが、眠っている赤ん坊を嬉しそうに眺めた。

健は今までに47回の人生を短命で終えている。

事故死だったり、病死だったり、自殺だったこともあった。

同じ人間として生きているのに、選択肢をどこかで一つでも間違えば、人生には大きな狂いが生じてしまうのだ。


「生まれ変わりは無いけれど、同じ人物としての別の生は繰り返されるのさ」


誰に向けるでも無い言葉が、窓から吹き込む風に乗って消えた。

真っ黒な髪をした死神もどきの姿もまた、風に揺られて消えていった。


ここまで読んで下さりありがとうございました!

この作品は、三年程前に書いていたもので、別のHPに掲載していたものを、少しだけいじったものになります。そもそもがPCのメモ機能を使って打ち込んでいた物なので、やけに改行が多いのはそういう理由なのです。現在HPの更新は行っておりませんが、メイン更新している「それは泡と消える」が完結後、もしかするとシナリオ配布を行う可能性が…あったら…いいなって…まぁまずはるるぶの購入からですね!(元掲載場所「道端地蔵」 http://id11.fm-p.jp/400/drdrsafu3910/ )

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