臆病な私
桜の道美術館・・・・・・それは、私の住む街にひっそりとある個人経営の美術館だ。
「まあ、こんにちは、椿ちゃん。よく来てくれたわね。」
「こんにちは、琴平さん。うん、ちょっと琴平さんとお話したくて。」
「まあまあ~、嬉しい事言ってくれるじゃない。ささ、お茶持ってくるからちょっと待ってて。」
「わあ、ありがとう!」
桜の道美術館の館長である、琴平千鶴子さんは私のもう一人の「おばあちゃん」である。目尻に寄せる深いしわが彼女の人柄をよく表していると思う。
昔は、とてつもない美人だったらしく、男の人によく言い寄られていたらしい。でも、それが面倒で、東京からこのような片田舎に移り住み、それからこの美術館を開くに至るようになったのだとか。
琴平さんの人生74年。その半分以上は、この美術館と共にある。
「今日はどうしたの? この時期だと受験のお話かしら。」
琴平さんは、ガラスのコップに麦茶を入れて持ってきてくれる。コップの中の氷が、カランと心地よい音を立てた。
「ち、違うよ。あの・・・・・・聞きたい事があって。」
「聞きたい事? 何かしら。」
私の顔を見てにやにやしていた琴平さんだったが、ふっと真剣な表情に戻った。しかし、その表情の中にもどこか余裕があり、私の言わんとしている事を察しているようにも見える。
「あのね、この作品募集のチラシの事なんだけど・・・・・・。」
私は制服のポケットから、くしゃくしゃになった、例のプリントを取り出した。何だかプリントされたインクの文字も滲んでしまっているような感じがする。
まるで自分の今の気持ちみたいだな、なんてあまり嬉しくない感想を抱いた。
琴平さんも私の持ってきたチラシをジッと見つめ、そして小さく微笑んだ。
「悩んだのね。」
「うん。」
それだけで十分だった。
次の瞬間、私の瞳からは大粒の涙がボロボロと溢れ出したのだ。自分でも、よく分からない。だけど、ずっと張り詰めていた心の緊張の糸がブチッと切れたような気がした。
「この企画・・・・・・私の為でしょ。私がずっと、彼のことを忘れられないから。前に進めてないから。」
「さあ、何のことかしらねぇ・・・・・・。でもねえ、椿ちゃん。そんなにずっと同じ人を思い続けられるって、私は凄く素敵なことだと思うの。私にはそんな経験はないから。ねえ、ほら見て御覧なさい。」
琴平さんは、フッと笑い、私たちの周りに飾ってある様々な絵を指で示す。
「みんなの中にある春夏秋冬。それがこの美術館に飾ってある絵よ。みんなの心の中にある、忘れたくない一場面、逆に絵にすることで忘れてしまいたい一場面がここに詰まってるの。」
桜の道美術館の壁には、琴平さんが言うとおり、本当に色々な絵が掛けられている。
それは、多くの人が形に出来ない思いを表現した証。多くの人が、行き場の無い思いを抱えている証。
良い思い出でも、それは時として心の負担となる事がある。
琴平さんは、それを知った上で、みんなの気持ちの吐き場を「美術館」という形で提供した。
それが、「桜の道美術館」。
「私がもっと強かったら、彼との思い出を絵にして、彼の事を忘れてしまおうって思えたのかも。でもねえ、琴平さん。私、そんな強くないよ。忘れたくない。総兄ちゃんに会いたいよ。好きな人がいるって、こんなに辛いの?」
「そうねえ・・・・・・。椿ちゃんを見てると、だから私って恋から逃げてきたのかもと思うわ。」
臆病な私。
好きでいるのも辛いくせに、忘れるのも辛いなんて。
静かな美術館に、私の鼻をすする音だけが響いた。