変わりたくて走る
同じ本を読んでいた。ただそれだけの人だった。紙とインクと本特有の匂いを、彼も嗅いでいたのだろうか。私にとっては、過去の出来事なのに今さら心臓が痛いほど動く。一度だけ同じクラスで、隣の席になった時も、本の趣味が同じだなとしか思っていなかった。名前も覚えていないのに何故今さらこんなにも痛くなるのだろうか。麦茶を注いでいたコップは汗をかき出し、口を付けないまま長い時間を過ごしていた。誰かを思わなくても生きていける。そう思っていたいし、これからもそうだ。だってこんなにも痛い思いをして生きていくのは嫌だから。
彼と私の関係なんて同級生だった以外ない。私が名前を覚えていないのだから、彼もそうだろう。その薄い関係性に心臓がギュッと小さくなりました。久しぶりに彼を見かけたとき、もう五年以上前なのに分かってしまった。霧がかかっていた顔がうっすら晴れた。こんな少ない情報の中で、たった一人の人間に私の心が振り回されている。何故過去の私でなく今の私なのだろう。変わっていった世界の中、部屋の窓からは変わらぬ塔が見える。不格好な塔。
「塔を上ろう。心機一転しよう。このままでは、私がだめになる」
持っているお金と、携帯食に飲料をリュックに詰め込み動き出す。玄関に来て何かが倒れる音がし、リビングに行くとお気に入りの本が落ちていた。それを少し乱暴に詰め込み私は家を出る。いつもの街並みが、別の場所のように思えてきた。運動靴が軽快にコンクリートを蹴り上げ走り出す。大好きなコンビニのポテトも、駅前の雑貨屋も私を大切だと思ってる人も、全部脱ぎ捨てたかった。人から貰うのも、あげるのも全てまっさらな状態にしたかった。下り坂の一本道。塔までの道は走れば十五分弱。呼吸が浅くなり、肺が酸素を求めてきりりとする。感情も体も塔へとむける。余計な感情は隅にうずくまっていた。
通りすぎてく人も速足で、どこかに向かっているようだった。この世界は大半は人工的に作られている。そのことを教えてくれた先生も、先生として製造されたものだ。歴史の教科書なんて、ころころ変わるぐらい不確かで、空想事のような内容だ。生態学では生き物が外で生きていたと書かれていたが、私達は施設以外で見かけることなんてない。もし鳥が一羽でも飛んでいたら、総勢力で確保されるだろ。鳥の幸せなんて知ったことないが哀れだ。そして私達人間も似たり寄ったりかもしれない。だってこの世界は人間が生きてくために人間が造った世界だ。天気予定も毎年公開される。自然現象なんてほぼない。あるとすればこの世界も歳をとることぐらいだ。そのぐらいだ。みんな気にも留めないことなのです。
塔の入り口が見えてきた。鞄から私にとっての大金を取り出し窓口へと急ぐ。
「おはようございます。今日はどのようなご予定でしょうか?」
にこやかにほほ笑むお姉さん。受付スタッフも機械であった。
「塔を上がりたくて、値段はこれで足りますか?」
「ご利用ありがとうございます。料金は足りておりますので、入場手続きをに移らせていただきます。お名前はスズ様でよろしかったでしょうか?」
「はい」
「では、本人確認させていただきます。ご了承ください」
彼女のその一言で、受付天井から青い光が私に降り注ぎ終了音とともにそれは消えました。
「確認でき出ました。どうぞ、お進みください」
壁だった場所が大きくさけ、内部への道に変わった。ひんやりとした空気に戸惑うも、ゆっくり足を進める。奥につくと私以外にも数名エレベーターの中にいた。いそいそと中に入り、一息つく。もう戻れないとこまで来た。私はもう上ることしかできない。
「皆さま、本日はご利用ありがとうございます」アナウンスが室内に響き、扉が閉まる。「ただ今から、出発のためエレベーターが動き出します。より良い旅を」
体が少し浮く感覚がした。すると白い壁が一面ガラスのようになり、住んでた場所を見下ろしていた。突然のことに驚き、後ずさり何かを握りしめてしまった。足の下に街並みが見える。体験したことのない高さに頭が真っ白になる。
「大丈夫ですか」
優しい、男性の声が聞こえ振りむくと、自身が何を掴んでいたのかを知り恥ずかしくなった。
「ごめんなさい。びっくりして」
「気にしていませんよ。なれるまで掴んでもらってもかまいません」
「とてもありがたいです」
男性の腕に手をのさせていただき、あたりを見渡す。他の人は特に驚いた様子もなく、こちらのことも気にしていないようだった。そのことがまた、恥ずかしかった。
「塔の利用は初めてですか?」男性は言った。
「初めてです。凄いですね、こんな機能があるとは知らなくって」
「私も初めて利用したので、この機能には驚きましたよ」
ほほえみながら言った男性に、少し緊張がほぐれた。また視線を足元に戻す。
「どうしてこんな機能を付けたのですかね」
「最後の見納めってやつかもしれませんよ」
「そうですね、最後なんですよね」
「何か心残りでもあったのですか?」
少し心臓がきつくなる。
「私三時のおやつを食べて、思いったったままここに来たんです」
「それは、凄い決断ですね」
「挨拶もなしに飛び出してきました」
「それが心残りなのですか?」
「いいえ、こんなにも簡単に縁って切れるんだなと。こんなにも簡単に離れていけるのだと」
ずっといた街なのに、こんな表情を見たことなっかった。こんなにも離れたこともなかった。
「私は、一度リセットしたくてここに来ました。少し似てますね」
「リセットってヒューマノイド限定のですか」
「はい、私達はなかなか記憶を捨てれないので」
「怖くないのですか」
人間と違い機械はこの塔を使用すると、記憶の整理として一度初期状態に戻すことが義務付けられている。
「きっとあなたと同じ心情ですよ」
彼は私に腰を下ろすことを勧め、二人して座った。塔を中心として形成された町並みは規則正しく広がっている。それは夕焼け色の人工光で全て塗り替えられていった。キラキラ光る鉄が遠くからでもわかって、世界全体でお喋りをしているようだ。
「見てください、空に星が構築されていってるのが分からいますか」
「何処でしょうか、まだ明るくて」
彼は少し上の方を指さすと、ここにありますよと言った。私の視力では見えなかったが、もうそこに星が出来上がっており、夜を待っているのでしょう。
「あの星たちは全てこの塔で、プログラムされて投影されてるいのですよ。夜を増すほど光り輝きます。本物の星とは違いますが、その瞬間はあの星も、終わりがある生きた光になるのです。昔は鉱物をつるして発光させてたそうですが、コストのことを考え今になりました。でもコアなファンはそれを模倣してつくった、プラネタリウムがいくつかあるそうです」
「初めて知りました。みてみたいです。貴方は見たことがあるのでしょうか?」
「見たことありますよ。目の裏まで焼け付く光景でした。きっとあなたも見れますし、気にいるはずです」
「先生みたいですね」私は懐かしくなった。
「私ですか?」と彼は少し驚きつつ言った。
「ええ、学校で学んでたことを思い出しそうです。そうやって誰かに教えてもらうのは懐かしいです」
「失礼しました。職業病でしょうかね、確かに私は教師でした」
「次も教師志望ですか?」
彼は困ったように悩むと、私の頭に手を乗せ撫でた。そらは少し暖かくて優しいものだった。先生は何も言わない。言わないのではなくて、言えないのかもしれない。それは私の中にあったもやもやした感情に似ている。ガラスの向こうにいもしない彼の姿が見えた。本を読む姿、町で通り過ぎた姿。たった二枚の画像がくるくる回る。こんなに気になるなら声をかければよかったのだろうか、私もその本が好きと。でもその時の私は彼なんて気にも留めてなかった。でもこんなに苦しいのに、彼は知らないままあの町で歩いているんだ。このもやもやを彼に投げたいとは、思わないし別の感情にしたい欲もない。でもどこのも置けない感情は、私には重たかった。ゆっくりと上がってくエレベーターは、重い体の私を上にもっていってくれる。
「先生は」私は少し重たくなった口を開けた。「先生は『星の王子様』を知っていますか」
「本ですよね。分かりますよ」
「王子さまは、最後星に帰れたと思いますか?」彼の顔を覗き込むように言った。
「どうでしょうね、帰っても彼の星はもう彼の星じゃないかもしれませんね」
「別の星になってしまうのでしょうか」
「どんなことがあっても、一番最初の状態に戻ることは難しいのですよ。でも文章は人の解釈次第でどんなものにも化けますから、これは私の主観です」
「先生、本当はやり直したくてここに来たんです、まっさらにしたくて。今のままだとダメになると思って。私のラストは王子さまのようになるのでしょうか」
「大丈夫ですよ。貴方も、王子さまも違いますから。同じ感情を共有していたとして結果まで同じとはならないのです」そう彼は言いました。
「では、今の先生は何処に行くのでしょうか。私はこのまま先生の考えを記憶してエレベーターをおりますが、先生はどうなるのでしょう」
「心配はいりませんよ。私は私のままです。案外変わっていくものは少ないのです」
私達は答えの出ないようなこと、他愛のないことをお話ししました。やがて夜が私達を包み、月と同じ高さになりました。町は天の川のようにみえ、月へ行くような気分はかぐや姫を思いださせます。どうやらこのエレベーターは、朝方につくようで皆横になっていましたが先生と私は起きていました。私以外はヒューマノイドらしく明日にはこれまでの出来事が無くなるそうです。そう思ったからでしょうか、私は数時間前に出会った先生にすっかり心を開いていました。終わりがあると分かっているからか、大切なものに思えました。
「どうして私達は上に行きたくなったのでしょうかね?」
「先生のことはわかりませんが、私は塔が見えたからですよ」
「そうですね、塔がなければ上に上がりたいなんて言いませんね。でもね、意外と塔を上る人は少ないのですよ。みなさん知っていても、自分に関係ないと忘れていくのです。きっと忘れられないような私達のためにこの塔があるのでしょうね」
「そうだといいですね」
確かにこの塔は何のためにあるかは聞いたことはありません。ですが、私達のような人の為と考えれば、私は一人ではないきがしてきました。
「先生はこの上に何があるか知っていますか?」
「私達が住んでいた世界と同じような世界が広がていますよ」
同じような世界。でも知らない世界。
「先生はものしりですね」
「教師だったからですよ」
「でも誰も教えてくれませんでしたよ」
「それはきっと、誰も聞かなかったからかもしれません。しかしこの記憶ともおさらばです」
エレベーターが暗いトンネルに入る。ザーッと早まるスピードと音に驚き、先生の横に座るれば、触れる部分が温かくて落ち着きました。境界線をぬけるエレベーターは、もうあの世界を見せてはくれません。少しずつ体が軽くなるのを感じます。もうあの世界とは会えないのです。
「先生。ついたら私は何と呼べばいいでしょうか。もう先生は、先生ではないのですよね」
「そうですね、次お会いした時は友人としてキクとお呼びください」
「私はスズと言います。先生さようなら、また後で」
「さようなら。また逢いましょう、スズさん」
そこは輝かしい世界だった。また新しい明日が来るのだ。