考えていたいから走る
これでも二人は幸せなのです。
今から行うことには結果はあるが、意味の無いものだと思う。花の種を埋めその上から家を建てるようなことだ。
白い鳩が飛んだ。コンクリートの、延長線のような空をだ。あいつらは、親子関係なく食べ物を奪い合う。どうせ、飛んだ後のことなど考えていなかったのだろう。悲しげな声がきこえる。可哀想だとは思わないが、やるせない気持ちを抱いた。何であいつらは飛ぶのだろうか。飛んだからといって何があるのか。マツはただ疑問に思うことしかできなかった。しかし彼女にとって考えることは生きていることと同義である。彼女は今生きているのだ。そして彼女と同じ空間にいる彼らも生きている。緊張か疲労かでかさついた唇を舐めても、粘り気が強い唾が乗るだけだった。
「ようやく都内への侵入に成功した。やつらも我々が、まさか旧道から来るとは思ってもいないだろう」
オイル臭いが、疲労には敵わない。皆地べたへと腰を下ろしている。とても脆い建物だが、彼女達にとってはこれ程適した休憩場所はない。低い声が静かに脳に響く、それ以外何もない。
「しかし、我々の目標は中央にそびえ立つ塔だ。ここは通過点に過ぎない」
目蓋が重くなる。こんな話真面目に聞いている人なんているのだろうか。彼はこの集団のリーダーなのだろうが、マツにとってはどうでもいいことだ。何しろ彼女はこの集団の目的が成功すると思えったからだ。目蓋をおろせば鮮明に想像できる光沢を帯びた高い塔。彼女らはそこにある一つの機能を壊すために集まった集団だ。美しさなどなく、ガラクタを寄せ集めたように建造された塔は嫌らしくてみすぼらしいが、あれより存在感や高さのある建物などない。あれはどこまでも続いている。
「今は皆、各自で休養をとってもらいたい。月が真上に来るころまた動き出す。以上だ」
辺りはとても静かだ。誰も喋らない。地上の音が上からきこえる。剥き出しになった壁が、コードが地上の振動を伝える。誰も喋らない。不満も言わない。皆、疲れすぎたのだ。神経を継続的に研ぎは澄ますのは負担が大きい。そんなことになってまで彼らはあの塔の機能を止めたいらしい。彼女は体験したことはないが、あれは夢を奪う機能があるそうだ。夢とは睡眠をとる時の副産物らしいが、奪われたものは取り返したいのだ。マツにとってはその結果は重要ではない。今こうして考えているだけで十分であり、子の行動で彼女は生きている実感を抱きたいのだ。少しの好奇心と知らないことへの欲求が彼女の行動力へと繋がる。
右手を頬にあて緩やかに胸元に滑らせる。ここには小さな音がある。目線を横に向ければ幼い少女が二人抱き合いながら座っていた。彼女たちもこの小さな音を隠しているのだろうか。天井のひび割れから差す光だけでは確認しにくいが不健康な青白い肌が、暗闇の中ぼんやりと見える。暗い髪が彼女たちの少しの動きに合わせて白を見え隠れさせた。
「わたしたちに何か用ですか」
か細い声が聞こえた。気のせいかと思うほど小さく消えてしまいそうな声だった。彼女は二人の少女の視線を感じ取り、少しだけ近づいた。四つの瞳はとても不思議そうに見上げている。マツも自身の行動に何とも言えない違和感を持った。
「不愉快な思いをさせたのならごめんね。少し寒そうに見えて気になったの」
するりと出た嘘は真実のように落ち着きを持っていた。
「ダンが言っていた。もう少しすれば暖かい場所に行くと、だから大丈夫」
ダンとはこの集団のリーダーのようだ。あの男が此方を見ている。正確には彼女の唇をだ。静かな空間といえ、会話が全て聞こえるわけではない。口先に視線が神経が集中する。唾を軽く飲み込み、生ぬるい吐息とともに言葉は漏れた。
「そう。大丈夫ならいいの」
無意識に握りしめていた手を緩め、そっと息を吹きかける。じわりじわりと静寂に包まれ、地上の音に想像力を膨らませた。鋭い視線も何時しか消え、もたれた壁の冷たさが心地いい。皆が口にする夢とは何なのだろうか。少女でさえ命を懸けるほどの夢。それは現実とは合間見えないものだ。脳が見せる記憶の断片、マツには分からなかった。それを追い求める理由もなくしたわけも、あの塔のある理由も、分からないことだらけであった。
ぼんやりと意識を漂わせる中、彼女の脳はある映像とリンクした。光が散り散りになって弾け、中央から藍色の空間が出現し彼女が見たことない映像が、色が視界をジャックする。パチパチと音をたて物がぶつかり空が剥がれ落ち、水が上へと昇りだす。マツは自身が目を開けているのか閉じているのか分からない光の中見知らぬ人影を見かけた。こんな変な空間が当たり前と思えるぐらい、その人物にくぎ付けになっていたのだ。しかし駈け出そうにも振り上げた右足は天と地が逆転したかのように空回りし、彼女は背中から落ちていった。人影はこちらに気づいた様子もなく、幾度となく白色にぶつかりながら彼女は人影を見つめていた。遠くになるにつれ何とも言えないもどかしさと、息苦しさがつのる。衣類のたてる音は彼女の叫びのようだった。やがて影が点になり、白が黒になるころ彼女の視界にはなんてことない地下道と自身の足がうつっていた。これは彼女が初めて接触した時の内容で、今後度々遭遇するのである。それは目頭が熱く、背骨がピリピリする不思議な体験であった。
そして予定どおり再び集団は歩き出した。ダンが率いる百人にも満たない集団だ。この地区には下に旧道が指紋のように複雑に不規則に広がっている。通れば地盤が崩れるといわれてる場所もあるのだが、噂はあてにならない。何故なら旧道を壊して今の地区ができたと世間では言われているからだ。本当は空箱を二つ重ねたような場所でコンクリートの建物を押し詰めているのにだ。時折軋む音がするが、彼らにとってそれはもうどうでもいい分類になっていたのだ。
周りの状況なんて気にも留めないマツは確かめるように瞬きを繰り返していた。目蓋の裏にも映像は残っていない。一瞬夢なのかもと考えたがそれは違った。記憶にないものであふれていたからだ。想像の範囲を超えた光景を彼女は夢と認めなかった。確かにそれは夢でなかったのだ。そして数時間前の彼女と雰囲気が変わったことに彼女も集団も感じ取っていた。疲れとは別の感情、集団の持っていた感情とは別の方向に彼女は行こうとしている。恋や愛などの人を狂わす情ではない深い何かだ。
「ねえ、大丈夫?」
生ぬるい温度と共に両手が包み込まれ、先程の少女達が彼女の両手を握りしめ歩いていた。手を繋ぎながら薄暗い道を歩く。先頭の薄明かりを頼りにで視界がぼやける。
「大丈夫よ」
「でも、なんか違うよ」
「何が違うのかな」
「何かが」
「私も分からないかな」
右にいる少女は考えるそぶりを見せるが、あきらめたようだ。左の子はただ黙々と歩いている。
「わたし、ネネと呼ばれているの。お姉さんは?」少女は内緒話のように言った。
「私は、マツって呼ばれている」
少女ネネは彼女の名前を数回口にして何も言わなくなった。ぎゅっと握られた手がこそばゆい。ふにゅふにゅとした小さな手だ。
「わたしはナナよ、マツ」
「ネネにナナだね。よろしく」
「マツは何故ここにいるの?ずっと気になっていた。いつも遠いところを考えているみたいでね、さっき見られたとき私のずっと遠いところ見られていると思ったの」
「ネネは聞きたがりだね。単純に私は塔が気になるんだよ。知らないことを知れるってすごくワクワクしないかな」
「ダメなんだよ。マツは悪い子だ。興味本位が一番危なくてたちが悪いってダンが言っていた
「そっか、私は悪い子なんだね。いいこな二人はきっとちゃんとした理由でここにいるのかな」
人の移動する音が響き、彼女達の会話は雑音になって漂う。思い当たることがあるのか二人はそれ以降会話を切り出すことはなかった。何の意味もない会話だったが、マツは自身の立場を考えさせられた。それは、小さな子でも気になるほど感情が表に出ていたということだ。程よい緊張感が心地よくなるほど耳を澄ました。会話は聞こえない。集団行動から外れた行動をとれば目立ち疎外される恐れがある。それは避けたい出来事だ。じりじりと焼けるような視線が体を滑る感覚も味わいたくない。少女達はダンと同じもとからここにいたメンバーなのだろう。途中参加のマツのような連中は息をひそめて隅にいる。恐ろしいことに目を付けられているのは確かだ。少女達との関係がきっかけかもしれないが、このまま身を流すのが吉かもしれない。彼女は最悪の場合を考え歩く。世の中全て想定内で動くことなんてないが、たくさんの可能性を考えていたそんな彼女でも、今すぐ天を仰ぎたくなったのは視界が素晴らしく鮮やかな色にジャックされはじけ飛んだためだ。後頭部を殴りつけられたような視界による衝撃は他人に手を引かれていたことにより、二次被害を防ぐことができた。
「二人とも、ダンが持っているライトは何色に見える?」彼女は動揺を悟られないように、柔らかく言葉を口にした。
「青白い」
「白いよ」
そうありがとう。心臓の動きが大きくなっていく。じっとりとした汗が隙間風に吹かれ、体温の差を明白にさせる。加速していく足並みは、飛び散る絵の具のような世界へ向かってるように見えた。けっして青白いだけでは説明つかないそれは、先程彼女が見たのにひどく似ている。猫のような生き物が光を背にニヒルに笑い、液体になり崩れ流れ喉元にとどまっていた言葉は、熱い吐息になって溶け込む。マツの見ている光景は異常であり、進むにつれ現実に浸透していった。
「マツ大丈夫?ダンがこっちを気にしているよ」
「少し温度差にやられただけよ。中央部にかけて暖かいのね」
一定のテンポで青色が注ぎ込む。次第にそれが人の形になり此方に手を伸ばし頭に、頬に胸の上に触れ影はわずかに笑う。それは彼女の鼓動のように波打つ。マツはそれを気に留めないよう必死だった。影はきっと青年なのだろう。背格好とノイズのような声で判断できた。まるで彼女だけが見ることができるのを、知っているかのようにじゃれついてくる。抱き着いてみたり、少女のての上から重なるように手を繋ぐそぶりを見せた。喋りかけているようだが、聞き取れなかった。
彼女の視界はその後も戻ることなかった。青色の青年が動き回るのを遠目で確認し、青年の正体について考えていたので次の休憩に入っていたことに気づかないでいた。少女達から不思議そうに見られ、いそいそと腰を下ろす。二人がもたれかかってきたのでほのかに暑い。
「どうやら、お世話になっていたみたいだな」低い声がし前を向けば、ダンがいた。
「いいえ、こちらの方が助けていただきました」
疑うような眼差しと違い声色は優しい。彼は胡坐をかき少女たちの頭をがしがしと撫でると、ゆっくり休めよと笑った。
「あんたと話すのは初めてだな。途中からの合流はお勧めしてきなかったが、やはり何人かはいるものんだ。で何が理由で来た?情報の流出は何より痛いからな。どこの伝手でこのことを聞いた」
「私の住んでいた場所はここから離れたガラクタ場で噂を耳にして、急いで鮭の滝登りまぎれて上流まで運んでもらって途中合流したわ。理由は知れることを知らないままでいるのは生きた心地がしなかったからよ」
「興味本位で来る大馬鹿者がいるとはな」ダンは鼻で笑った。
「先程この子たちにも言われたわ」マツは少女たちを横目で見る。視界をよぎる青色は無視した。 「裏切らないならいいさ」ダンは彼女の目蓋に手で触れた。
「裏切らないわ。私嘘つかないから」
「この口が言うか」
目蓋を触れていた指が、下唇に移りひねる。つまみあげるように動かす手は、冗談のよう言う言葉と違い鋭い爪が口内を刺した。にじみ出た血は口を伝う。
「あの、痛いのだけど」
ダンは笑いながら口から手を離し自身の指を見た。そして彼女の血がにじんでいる指を鼻に近づけ匂いを嗅ぐと、それを舐め上げた。
「なめときゃ治るだろ」
あれから再び歩き出した。もう休むことなく目的地まで歩き走るのだ。マツとネネとナナの三人と不思議な青い青年と共に。気づくのが遅いかもしれないが団体の人数が減っていることに気づいた。脱落したのか、途中で分かれ道でもあったのかそれとも、いや考えるのはやぼかもしれない。それより進むにつれ青年がいきいきしていった。ずれたピントが合うように姿がとどまり、絵の具をひっくり返したような世界は形を作り出した。緑の大半は植物になり、天井は水色一色になった。彼女の知らない生き物や風景画彼女の視野に入ろうとうごめいている。彼女は仮説を立てた。この視界は塔による夢の妨害電波の影響であり、どこかの誰かが見るはずだったものが私の視界に流れ込んできているのではないかと。
「 」
青年の声が、声として聞けそうでもどかしい。彼は彼女に道を教えているように前を歩く。時折振り返り首を傾ける。
「ありがとう」マツは無意識に言葉にしていた。少女たちは自分たちのことかと思ったのか、手を強く握って見せた。青年はわざとらしく背伸びをしていた。情とは厄介なもので知らぬうちにこの三人を好きになっていたようだ。彼女はほんのり温かい思いを胸に未知な世界へと足を進めてく。
「マツ、貴女の近く好きよ。もっと一緒にいたかったな」とネネが言った。つられてかナナも「わたしも」と呟いた。
「私もそう思っていた。でも不思議と悲しくはないの」
「悲しいバイバイと違うからかな」
「そうかもしれないわね」
「本当はわたし達夢が見たいからここに来たの。お金がないから遊ぶおもちゃもなくてねいつも二人で想像していたの、ああだったらいいのになって。夢の中ならなんだってできちゃうのでしょ。権利と、取り返すとかどうだっていいの。この話聞いたとき二人で一緒に一番早く夢を見ようって約束したの。それにはやっぱり一番近くに行かないといけない気がしたの」ネネは顔をしかめながら言った。
「立派な理由だよ」マツは言った。「私はここに来る前から今まで、理由がころころ変わったわ。嘘がほんとになったりもした。でも見失うよりはいいんじゃないかな」
「そうなのかな」
「そんなもんじゃないかな。私はその方が好き」
「なら、わたしも」少し吹っ切れたようだ。「また会える気がする。だからここでバイバイだね」
「バイバイ」
「マツはどうしてメインコンピューターにいかないの」ナナが悲しそうに言った。「一緒に行こうよ」
「ダンも言っていたよ。ばらばらになった方が成功するのでしょ。私は夢のためじゃなくてこの塔を知りたかったからだよ。それが私の理由だから、もしもほとぼりが冷めて出会えたら、ひそひそ話じゃなくてたくさんお話しようね」
ダンの低い声が響く。塔の地下から上へ目指すのだ。マツはどこまで上がれるだろうかと、考える。これは一世一代の賭けなのかもしれない。最後に三人で抱き合った。上から青い青年がのしかかってきたが彼にも思うことがあったのかもしれない。最後のバイバイはどこか晴れ晴れとして、また会いましょうに似ていた。
「おい、大馬鹿者」ダンがマツの耳元で言った。「死ぬんじゃねえぞ。あいつらが泣くからな」
「そちらこそ」
最後に何故か彼女の髪の毛をもみくちゃにして彼は先を走りだした。少女達も後を追いかけていく。青年はぼさぼさになった髪の毛をなおそうとしてくれているが、すりぬけて意味がなかった。マツは気を引き締め、前を向いた。誰もが前を向いて走り出し彼女の横を通り過ぎていく。みな自分との戦いだった。
「そこの青い青年。私のこと道案内してくれる?」
青年は大きく首を振り走り出した。気持ちの問題なのかもしれないが、彼女の右手は青年とつないでいた。触れてないはずなのに触れているような距離。二人とも前を見て走っているのだが、手は離れずお互いがお互いの歩調に合わしていた。暗い旧道から一転して塔の地下は薄明かりであるが電気がともっており、先手を行った団体が開けたのであろう扉がひしゃけていた。上へと続く階段とエレベーターらしき設備。彼女らは迷うことなく階段を上りだす。鉄同士の擦れる音、音が光になり彼女を見上げる。地下を抜け数十階上り詰め、塔の内装は白く清潔なものになっていく。ほかの部屋など見向きもせずひたすら上る。
「青年、貴方の姿がはっきり見えてきたの。そんな顔をしていたのね」マツは走る鼓動を抑え話す。「きっといいとこの出なのね、私そんな上等な服見たことないわ。時折流れる情景もあなたの夢なのかしら」
すると少年は、彼女の方に振り向き両手で彼女の手を引くそぶりを見せた。まるで先を急がせるようで、少し早足になる。流れていた色が突然意志をもっているかのように統一感のあるものに変わっていった。彼女が踏みしめていた階段は草木が這い出し、壁はなくなり果てしなく同じ情景が続く。天井は濁りのない綺麗な空が広がっていた。
「どうなっているの。貴方が動かしているの?」マツは戸惑いつつ言った。二人は階段ではなく草原を走り抜けているようだった。彼女にとって写真や活字でしか知らない色や景色が目に飛び込んでくる。
「___から。_で____よ」青年は言う。
「ごめんなさい。よく聞き取れないわ
土を踏む感触がやけに現実味を帯びている。彼女自身土を見たことはなかったがこれがそうだと思った。視覚や聴覚だけでもなく感覚にも影響が出てきているようだ。鉄臭さ、とは違う匂い。コンクリートが濡れた、乾ききった匂いとも違う。ぎゅっと握った手はほのかに温かく互いの温度を交感していた。彼も彼女も無意識に手を繋いでいたのだ。それは当然のことで、いちいち言葉にすることはなかった。確かにこの時言えることは、二人はただ走り抜ける事を考えていたということ。ただ純粋に前だけを向くことは清々しいことだった。忘れていた何かがそこにあったのだ。
「私この感覚知っている。前に、どこかで」マツ思わず声にした。硬直していた頬は上がり、うっすら赤い。
「_も__。__楽しい」
「私もそう思うわ」
空が夕焼け色に変わる。太陽の光で草木は黄金色に輝いていく。鳥が飛びあがり、空と地が溶け合っていた。そして足は止まることなく、ある境目に浸かった。冷たさがくるぶしを包んだかと思った瞬間膝まできていた。少しピリピリと刺激され彼女は目を丸くしする。知らぬうちに大きな水たまりの中にいたのだ。水面は揺れ動き、水しぶきが上がる。塩っ辛い匂いは目まで染みた。
「こ__海。空を映す大きな鏡だよ」青年は嬉しそうに言う。
「すごい凄いよ」マツは歓喜を上げた。「おとぎ話だと思っていた。本当にあったんだ。空も私達もみんな映っている」
「___。行こう」
あっという間に肩まで水がきた。沈むより潜っていくような、体が浸水していく。気泡がぷくぷくと口から洩れ、髪が踊る。耳元を撫でる水が優しい。彼女が思っていたより、この体は軽い。青年となら空も飛べる気がした。飲み込むもの全て満たすものになる。青色は青年に似ていて、抱きしめられているような気分になった。それは嬉しくて、少し恥ずかしいそんな気分。そしてとても長い時間、もしかしてすぐだったのかもしれないが、果て無い海を彼女は渡りきろうとしていた。魚の群れが足の股を潜り抜け、サンゴの道を慎重に進み、イソギンチャクを覗きながら。全てが生きていた。全身で生きていることを証明していた。彼女も思考の渦に身を任せ、生を謳歌していた。水面から顔を出す瞬間、あらゆるものが彼女にのしかかってきた。あんなに重いと思っていたものが、すんなりと馴染むのが不思議で思わず笑っていた。彼も鼻歌を歌いだす。途切れ途切れのそれは、オットセイの声のようでもっと笑った。
ある時は強い突風に体は宙に投げ出され、くるくると回った。頬を寄せ合い笑いあったりもした。一番驚いたのは鹿の突進だ。鹿の強烈な動きに身をひねった。あんな体験は二度とごめんだと彼女は言う。本当の出来事ではないのに、バーチャルに近しい出来事に二人は心を躍らせ記憶になる。
「何で私にはあなたが見えたのかな」夜がきて切ない声で言った。
「分からない」
「あなたの名前は?」
「イツキ_。きみは_」
「イツキ今更だけどありがとう。私はマツ」互いの表情はわからぬまま話す。「イツキと歩いたり、走ったりできて嬉しい。それだけのことでこんなにドキドキするの。この光景は貴方の記憶なの?」
「そうだよ。俺の記憶_」イツキは大きく息を吸った。「海も空も、草原も全部_の記憶。マツと体験したこと__俺が体験したこと」
「海を歩いたのも、花吹雪も鳥もこの落ちてきそうな星空も?」
「鹿に突進されたこともね」恥ずかしそうにイツキは言う。
「今のイツキもイツキの記憶なの?」聞きたくないことを聞いてしまった。彼女は思った。何故とは言わないけど、不思議な出来事は不思議なままが一番美しいからだ。答えの分かったマジックは色あせて見える。名前お付けちゃいけないものもこの世にたくさんあるはずだ。感情の制御がうまくいかない。思ったまま感じたままの素直な、子どもっぽい彼女が顔をのぞかせる。
「俺は、俺だけど。確かに本物じゃないかもしれないね」ほら難しいことなんてよそうよ。イツキは言う。
「なら、本物と言えるイツキと私は会えるの?」
「会えるよ。太陽が沈んだら月が顔を出すぐらい、あたり前に会えるよ」
彼女は片方の手で彼の手を覆った。約束よ。口に出さなかったが行動で伝えた。彼もそれに応えるかのように強く彼女を引き走る。二人は疲れを知らなかった。本来の塔ならどのぐらい上り詰めたのだろうか。住んでいた都市は見下ろせるだろうか。もしかして豆粒かもしれない。あの外見と違う美しいこの世界は彼女にとって街角のガラスケースのようだった。こんな素敵なものを塔は隠しているのだ。それが彼女と彼だけの物であることにちょっとした優越感を感じた。
「マツはこの塔のことどのぐらい知っている?」
「限りなくすべてに近い記録がある場所。ネットの交差する場所。夢を盗む場所」マツは嫌そうに言った。夢の単語が舌にべっとりくっついた感じがする。
「そっか、そうなのか」深みのある言い方だった。「_にはさ夢を盗む機能なんてないんだ。そんなすごい機能はこんなちっぽけな塔にはないんだよ」
「じゃあ、何の機能があるの。皆が止めたくなる機能があるの?」
「夢を配信する機能があるかな」感傷に浸ったように言った。「夢を受信できる人を探すために_はあるのだよ」
「全く違うね。でも皆は取り返そうと壊そうとしてるいのよ。なら皆の夢はどこに行ってしまったの?このままでいいのイツキ?」マツは言った。
「どこかで_がこじれたのだろうね。でもこんなことになる気がしていた。_だってそうじゃないかな。この都市はとても古い。昔の人間が作り上げたものだから、今にあってないなら無くなるのも、正しいのかもしれないだろ。それにこの機能だって、もう意味のないのに使われているんだ。まだ夢を見ることの出来る人間を見つけて安全な場所に送るのが俺の役目だった。世の中には夢を持つ奴と持たないやつがいたんだよ。そりゃ遠い昔さおとぎ話さ」
「イツキも無くなるの?」マツは訊ねた。
「俺は_から取り残されたままだしな、そうかもしれないな」
冷たい風が二人の背中を押した。これは彼の感情なのだろうか。足先が冷たくなる。
彼のことを知れて、塔を知れて彼女は喜びに満ちていた。しかし次第に疑問がなだれ込み、不安が漂う。未知への恐怖だ。輝かしく見えていた前が世界の底のように思えてしかたがなかった。
「でもさ、悪くないかもな」彼は笑って言う。「終わりはちゃんと存在していたことがわかったし、誰にも知られず生きているのは生きている心地がしなかった。それに、昔の人間はやっぱり昔の人間なんだ。だって夢を見るか無いかで決めるのは正解じゃなかったんだ。現に、マツという例外がいる。夢を見なくなった都市からこんな後に、マツが現れたんだ。夢を受信できるのだから、夢を見る才能があるんだよ」
「私は夢が見えるの?」たどたどしく問いかけた。
「俺が言っているのだから本当だよ。_が知ったら驚くだろうな」
彼女は気が付いた。うすうす感じていたが見ぬふりをしていただけだった。彼は彼の場所まで連れていってくれているのだ。そこには終わりの匂いがする。今観ている風景にも終わりが訪れるのだ。夢は何でもできるといっていた。でもそんな夢でも終わりがあるのだろう。彼女たちは夢を見ること、その先を目指していたのに彼は夢が覚めるのを待ち望んでいたのだ。彼女の目から涙が零れ落ちる。気づかれないよう上を向きながら走った。風が水を彼から隠すように流してくれる。それでも止まらなかった。
「夢のような時間だったよ」マツの本心だった。
「そうだな、これは夢だったのかもな。でもマツに会えてよかった」
「もう会えないみたいだよ」マツは言ったが、彼は何も言わない。「塔の天辺まで行くの?」
「この道じゃ塔の天辺までは行けないんだ。でもうんと高いとこだよ。そうしてもう目の前さ」
「目の前ってどのぐらい?」
「あと数歩ってとこ」
「あのさ、私以外の団体って」ためらいながらも言い切った。「何処にいるかな」
「大半は下の層を走っているよ。数名のエレベーターを使ったみたいだ。」
「私達の行き先はどこなの?」
「君たちが言うメインコンピューターだよ」
夜空の星がパラパラと落ち足元で重なりある。夜が融けて白い空間になり、ずっと握っていた手はほどかれ、彼女は一人で立っていた。涙は干上がった。ここは無菌室のような場所だ。彼女は自身が場違いであることを悟った。彼女はメインコンピューターが何なのかわからかったが彼が言ったのだからここがそうなのだろう。再び歩き出すが、彼女の足音以外何も聞こえない。少し進むと、かなり古いだろうパソコンの前に青年が椅子に座っていった。規則正しい肩の揺れに深い睡眠をとっていることがわかる。
「イツキ」
声は白い空間に吸い込まれ消えた。数回口にすれば現実味が帯び、誰にも拾われぬ亡霊のような声は大きくなる。彼女は走り出した。壊れそうな自身を震わせて。
その時甲高い音が白を突き抜いた。
緩やかに崩れ落ちるイツキはぼんやりと薄目でマツをみていた。二人はそこで初めて目を合わせたのだ。
「夢は返していただくぜ。メインコンピューターさんよ」
火薬のにおい、ダンの声に鉄臭さ。全ての情報が彼女のなかで整理されるまで数秒の時が使われた。パソコンの液晶は砕かれ、彼へと降り注ぐ。彼を中心に広がる水たまりは、二人で見た夕焼け空よりも赤く、涙が出そうだった。あんな綺麗な色を持った人を知らない。いつの間にか破片で切れて見えていた青い血と、部品を見比べマツは思った。今目を閉じれば彼が言う終わりを、私も見ることができるのだろうか。ぶれながらも青い影が見える。影は軽やかな足取りでこちらに駆け出すと、マツに手を差し伸べてきた。彼女はその手を取りたかった。まだ走りたかったのだ。
世界は彼女を振り回している。突如始まり終わるのだ。だから悩み考える。それは生きていることと同義であった。だから彼女は今生きている。