第一話 アインザッツ
別に何の変哲もない夕方だったと思う。ちょうど俺は四限の講義を終えて、友人を待っていたのだ。サークル棟はなかなかに静かで、それで、その中に同輩の姿を見つけた。きれいな茶髪をさらさらとなびかせて、ともすれば片目を隠してしまいそうなほどに伸びた前髪が特徴的なそんな少女。名前は狐宮ベス。
「あ、猫ちゃんおっはー」
「おはよう、ベス姉さん」
「おはよー?」
もうお昼だよー?と笑いながら彼女は首をかしげる。ベス姉さんは俺、猫若リアのことを猫ちゃんと呼ぶ変な人だ。猫ちゃん、のイントネーションには少しだけ関西訛りが入っている。幼いころ関西で暮らしていた名残りらしい。
「なにしてんのベス姉さん、こんなとこでさ」
「んー?なんかサークルの子がねー、コックリさんするんだって」
「……コックリさん?」
物騒な響きだ。しかし、それにしてもこの年にもなってなぜコックリさん。そう思いながらベス姉さんのことを見れば、彼女は楽しそうに首をかしげていた。ううん、これはもしかして。
「猫ちゃんも一緒にやらない?」
「えー…」
彼女に誘われたら断り切れない。いや、大学でぼっちになりそうだったのを救ってくれたのは彼女なわけでして。そんな方の誘いを断るわけにはいかないなあ、と。まあ、少し興味があるのも事実なんだけど。
俺はオカルト系の話が非常に好きだ。故に、この話にひかれていたのも事実である。実際、そんな体験したことないから眉唾だと頭の片隅で思っていたのも、事実なんだけどさ。
サークル棟地下一階。ベス姉さんの入っているサークルの部室。そこには、異様な雰囲気が漂っていた。甘い、鼻を突く香のにおい。何を焚いているのだろうか。酷く甘くて、頭がくらくらするにおいだった。
「ベス、姉さん」
「ああ、やってるやってる」
彼女の手にそっとすがる。そんな弱弱しい俺を見ても、彼女はふふっと楽しげに笑うだけだった。むわっとするほどの暖房の効いた室内には、何人かの男女が座って、何か白い紙に鳥居の書かれたそれの上に十円玉を乗せて、そしてそれを真剣に見つめている。
「あれ?ベスちゃんなにその子」
「あ、さっき拾ったのー」
まるで捨て猫みたいに俺のことを言う。それにしてもこの部屋は暑いし、酷い甘いにおいのせいで思考が奪われていく。頭の奥に焼けた鉄の棒でも突っ込まれてるのかのごとく鈍重に、頭が働かなくなっていって。
「じゃ、始めようか。その子もやるの?」
「え、いや俺は……見てるだけでいいです」
まだ参加するのは怖い。そう思いながら、部屋のパイプ椅子に座る。だいぶ斜めになったパイプ椅子に全体重を預けて、ぐったりと彼らを見つめる。真ん中にいる少女が笑いながら言い出した。
「始めるよ」
こっくりさんこっくりさん。おなじみの出だしの呪文が唱えられる。俺はぼんやりとしながらその声を聴いていた。酷く眠くなる声音で延々と繰り返される質問と、きゃあ、という悲鳴の音。そんなものが延々と、俺の脳髄に語り掛ける。ああ、眠くて仕方ない。
視界に移る景色は歪んでひずんで、脳みそが溶けて、そして。
「あれ?猫ちゃん、眠いの?」
そんな、ベス姉さんの声がする。俺はそれにゆるゆると首を振った。振るだけ振って、そして。俺は眠りの世界に落ちていった。
どこか遠くで、コックリさんをする同輩たちの声を聴きながら。