王子様がいつか……
お昼前。空腹感が、集中力をかき消す。
この書類を午前中のうちに仕上げないと、窓際のデスクに席を構える、部長女史の威圧的な無言のオーラが、私の気を焦らせていた。
「お疲れー」
事務所のドアを勢い良く開け、元気な張りのある声が部屋に響いた。
「お疲れ様でーす……」
数人が、小声で大地先輩に挨拶した。営業部の大地先輩。快活で、いつも豪快に笑う。性格も気持ちいいくらい、いい人だって他部署の私でさえ感じるくらいだ。
先輩が部署に戻り、私は時間と空腹と格闘しながら、追い込みかけて書類をなんとか仕上げる事ができた。
「おなかすいたぁー……」
デスクに身を突っ伏して、上半身をそれに預ける。そさくさと、周りの社員たちがランチに出かける足音が聞こえる。
今日は、どこで食べようかなぁ……。そんなコトを考えていた矢先。
「さっちゃん、メシ行かないの?」
私の真後ろから、大地先輩の声が聞こえた。
「!! 行きますっ。お腹空きすぎて、力でなかったんです……」
気の抜けた顔と声で、私は大地先輩の顔を見上げて言った。
「じゃ、しっかり食べないとな。一緒行くか?」
「はい!」
大地先輩は、笑顔で私をランチに誘ってくれた。私にとっては、仕事で大変お世話になり、落ち込んだ時には話を聞いて、背中を押してくれるとても優しい先輩だ。
「今日は、角の定食屋はどうだ?」
「いいですね! そうしましょう」
私は、大地先輩の笑みにつられ、にこにこして答えた。
「……? さっちゃんさ、今日、なんか雰囲気いつもと違うね? 華やか……? いつもよりオシャレな感じ?」
会社を出て、並んで歩く大地先輩が、私の姿を頭から足まで見ている視線が感じられた。大地先輩の言う通り、今日の私は、本当に力入れてる……。服だって、新調して綺麗目のワンピースだし。ネイルサロンで、ジェルネイルしてもらって、髪の毛だって、今日はクルクルに巻いてふわふわにしてる。
「あ……。じつはぁ、今日、友達から合コン誘われて……」
私は、隠しても仕方ないと思い、勘付いた大地先輩に、気恥ずかしくなりながら言った。
「合コンかー。いいなぁ。さっちゃんは、いい子だからすぐ彼氏できたりしてな?」
大地先輩は笑んだまま、私の頭に大きな掌をポンと乗せた。その掌はとても大きく、それでいて温かかったけれど、なぜだか胸の奥までぽかぽかするような感覚だった。
大地先輩とは、飾らず素の自分であれこれ話する事ができるから、とても信頼している。いいお兄さんな存在。
今夜の合コン。
2週間前に、友達の瑞希に声をかけられた。
「沙智、IT関係の社長さんと仲良くなったんだけど、彼のお友達紹介してくれるって。沙智、セレブ男子の彼氏に憧れてたでしょう?」
私は、迷わず一つ返事した。
そう! セレブって、とても憧れてた。漠然と浮かんだ華やかな世界。私には、夢見たいな話し。女の子なら、いつか、王子様が……って、夢見る。そう言う人が、現れるのかな? なんて、ちょっとドキドキして期待していたら、自分自身にも気合が入った。大地先輩に気付かれるくらい……。
オシャレなイタリアンのお店に入ると、ふかふかの紺碧色をしたジュータンが敷き詰められ、クラッシックなのなか? 厳かな雰囲気の音楽が流れていた。ピアノとフルートの音を辿ると、窓際で実際にグランドピアノを弾き、その傍でフルートを吹いている女性達の姿が目に入った。
すごい……生演奏?
私は、ウエイターに案内され、彼らが待つ席に向かった。
「こんばんは。はじめまして。沖田沙智です」
私は、まるで面接会場にでも来たかのように、硬い挨拶をしてしまった。
「こんばんはー。沙智さん、よろしくね。俺、葛城。瑞希ちゃんの友達です。で、彼が朝比奈。俺の学生時代からの友達で、今は、彼のオヤジさんの会社〇〇商事の副社長」
社長さんって、瑞希から聞いていたからちょっと硬い人なのかと思ったけど、メンズモデルみたいなオシャレ。きっと、ブランド物のスーツなんだろうなぁ。質の良さそうな生地。顔も、モデルさんみたいに整った顔立ちしている。香水を付けているのか葛城さんからは、いい香りがする。そうして、紹介された朝比奈さんに視線を移した。
「はじめまして。朝比奈 陽一です。ヨウでいいからね」
穏やかな笑みから漂う、品の良さに面食らいそうになった。着ているスーツだけじゃなく、腕時計も高級品で、本当に二人ともセレブ感が凄い……。
それに、〇〇商事って言えば世界でも商品開発されて爆発的に売れている会社。 私、凄い人と合コンしているのかと、改めてこの場に来た事が、夢のように思えた。
「沙智、ヨウさんの隣ね」
瑞希が席を誘い、私はおずおずとヨウさんの隣に座った。ふかふかのソファーは居心地良く、座って二人や厳かな雰囲気のお店の空間に居るだけで、もう、酔ってしまいそうだった。
シャンパンがグラスに注がれ、グラスの中の小さな気泡が、ゆらゆらと水面に上がってくる。綺麗だなぁと、見とれていると、ヨウさんが私の顔を見て笑んでいた。
「どうしたの?」
耳の奥で、ヨウさんの穏やかな声が響いた。
「あ、綺麗だなぁって」
「そうだね。見ても楽しめる。口にしても、楽しめるから、乾杯しようか」
「はいっ」
私はグラスを手にして、みんなでグラスを軽く重ねた。ガラスの響く細い音色さえも、綺麗に感じた。
出てくる料理は、テレビや雑誌で見るような、今まで食べた事のない上品なものばかり。美味しいけれど、どこか私には余所余所しい感じで、違和感が胸の奥で小さく騒いでいた。
「沙智さん、その腕時計かわいいね? どこのブランドかな?」
私の手首を見て、ヨウさんが訪ねた。皮のベルトの、文字盤の中には寝ている猫が見える。
「いえ……。ブランドじゃないです。雑貨屋さんで見つけて。可愛いなって思って」
私は、小さく笑んで、そっと右手で時計を隠すように覆った。
「雑貨屋さんかぁ。可愛いの売ってるんだね」
ヨウさんは、そう言ってくれたけれど、私の中で騒ぎ出している違和感が、どんどん膨らんできていた。
「お休みの日は、どんな風に過ごしているの?」
ヨウさんは、間を空けないように、色々私に話し掛けてくれていた。
「えっと……。お部屋の掃除とか、お洗濯とか。一人暮らししているので。あとは……DVD見たり、友達とお買い物でかけたりです。ヨウさんは?」
私は、ヨウさんの顔を見上げた。瞳に、私が映っているのが見え、胸がドキリと締め付けられた。ヨウさんは、私をじっと見つめていた。私は、恥ずかしくなってしまい、視線を逸らした。すると、クスッと小さく笑って、話しだした。
「僕は、休みの日でも仕事している事が多いんだ。だから、まとまった休みで、海外にでかけてリフレッシュしてるよ」
「お休みないって、大変ですね……。でも、凄いなぁ。海外って、どちらに行かれるんですか?」
「んー……。あちこちだけど。ドバイとか、ヨーロッパとか……」
思い出しながら、ヨウさんが話す言葉に、どんどん私は面食らい、違和感がはっきりとしてしまった。
――――――世界が違う……。
葛城さんが、ムードメーカーな印象で、皆に上手に話題を振る。何か、とてもゆったりとしたプレゼンをしているみたいな、緊張感あるんだけれど、どこか優雅なそんなひと時だった。
ぼんやりと、私はフルートとピアノを弾く女性達を見つめていた。
「どうしたの?」
ヨウさんが、私を気にかけてくれた。私は、おずおずと彼女達に視線を送りながら、ヨウさんに話した。
「彼女達、ずっと演奏していて疲れないのかなぁ……って。とても、素敵な音楽で聞き入ってしまってました」
すると、ヨウさんが目を細め小さく笑んだ。
「沙智さんは、優しいんだね? 彼女達はBGMなんだよ。そんな風に、気遣う子はじめてだよ」
ヨウさんの言葉に、私は喜んでいいのか、否定して良いのか分からず、困った笑みを浮かべるだけだった。
翌日。
「おはよーっ。さっちゃん、昨日はどうだったんだい? 恋人できたか?」
駅を出て、会社に向かう途中で大地先輩に会い、声をかけられた。
「おはようございます。……いいえ。なんていうか、世界が違すぎて」
話がかみ合わず、昨夜は夢のようなひと時を楽しんだ。ヨウさん自身も、私が釣り合い取れないの察していたのだろう、連絡先も交わすことなくお開きとなった。
私は、くしゃりと苦笑いして大地先輩に言った。大地先輩は、きょとんとした顔をして私を見ていた。
「……そっかぁ。俺は、いつものさっちゃんのほーが、いいと思うよ。昨日のは、別人な気がした」
大地先輩も苦笑で、私に言った。私は、小さく溜息を吐いて、その言葉を胸に止めた。
そうなんだよね……。背伸びしてたし、頑張って肩に力入れてたし……。いつもの、私じゃないや……。
気持ちが緩みそうになって、緩む涙腺をきゅっと締め、私は気を取り直して笑みを作った。
「そーですよねぇ。私も、頑張りすぎちゃった気がします」
大地先輩の顔を見上げ、先輩は静かに小さく笑んでいた。そうして、いつものように、ポンと大きな掌を私の頭に乗せた。
「よしっ! 今日は、残念会するか? 帰り、呑むぞ!」
大地先輩の優しさは、まるで大きな掌から発する熱のように、胸に滲み込んでいた。有り難いなぁ……嬉しいなぁ……。
「はいっ!」
「いつもの、居酒屋な!」
大地先輩の言葉に、私は大きく頷いた。
私の憧れは、夢のような世界じゃなくて、もしかしたら、目の前に居るのかも知れない……。
理想と現実を目の当たりにして、己の身の丈を知る……。
そうして、何が一番自分にとって居心地のいい場所なのか気づく。
今回は、そんなお話になりました。
王子様は、セレブじゃなくたってその人に合った人ならば、王子様なんだろうなぁ……と。:)
ここまでご覧下さいまして、ありがとうございました。m(__)m