全力疾走
「あら? シュンはどうしたの? 慌てて家出かけて行ったけど?」
帰宅した母親が、家の外で猛スピードで自転車を漕ぐ息子を見かけシュンの姉である娘に尋ねた。
「絵手紙教室? ほら、アイツ習ってんじゃん? 今日、その日らしいんだけど、寝過ごしたって」
カルピスの入ったグラスを片手に、娘は玄関先で母親に教えた。
「あの子が習い事続いてるって、ホント珍しいわよねー」
母親はしみじみと言った。
「飽きっぽい性格のくせにね? 誰に似たのかなぁー」
娘はグラスを持ってくるりと方向を変え、階段を上っていった。
母親は、小さく首をかしげ「誰かしら? 父さんよね?」と、小さく呟いていた。
駅前まで自転車で10分。もう、すでに14時を3分過ぎていた。バクバクする心臓に、シュンは焦っていた。
「せっかくの、貴重な時間なんだ。1秒だって無駄にしたくないんだっ!! 頼む、時間とまんねーかなっ!!」
全力で立ち漕ぎしながら、足に力を込める。ようやく駅前の駐輪場に自転車を止め、教室のあるビルに駆け足で行くと、最後に狭い階段を3階まで駆け上った。エレベーターはあるのだが、10階まであるため、なかなかすぐには来ない。それに、こういう急いでいるときに限って、とても遅く感じる。
「3階くらい、楽勝ッ!!」
既に、自転車の時点で息が上がり、肩で息を切らしながら乱れる呼吸で息をして階段を駆け上がった。
「こんにちはーっ!! 遅くなって、すみませーんっ!!」
勢い良くドアを開けると、静かな空間にいた絵手紙教室の全員がシュンを見た。
「お。若者が来た来た」
「3日坊主にならなかったわねぇー」
参加している殆どが、シニアと呼ばれる年代のくくりで、シュンにしてみれば、お祖父さんお祖母さんと言った人達ばかりが集まっていた。
「シュンくん、こんにちは。今日は、あのテーブルにある7つの物から選んで絵手紙、描いて見ましょうね」
シュンの前に現れた講師の山中ほのかが、にこりと笑みを見せて静かな口調で言った。
「ほのか先生……こんにちはぁ。遅れて、すみませんでしたっ!!」
深く頭を下げ謝るシュンに、ほのかは小さく笑った。
「いいのよ。急いでこられて怪我でもしたら大変。遅くなっても大丈夫だから。さ、席かけてね」
「はい……」
シュンはほのかの顔を見て、ふにゃりと崩れた笑みを見せた。
『いいなぁー……。今日も、きれいだなぁー……』
落ち着いた呼吸だったが、ほのかを見てシュンの胸の鼓動は、耳の奥までドクドクと大きくそして早く鳴り響いていた。
黒く長い髪に、陶器のような色白い肌。花の名前はあまり知らないが、シュンは、ほのかには花がとても似合いそうだと、イメージしていた。
高校生の自分よりはるかに年は上で、シュンの想定では30代後半くらいだと思っている。細い身体で、大人しい喋り方が耳に心地よく、穏やかで優しい性格だった。
絵手紙教室を習い始めて、これで4回目。きっかけは、学校のボランティア先で行った老人ホームに来ていた、絵手紙教室だった。施設のお年寄りと一緒に、シュンはその絵手紙教室に参加した。その講師で来ていたほのかに、シュンは淡い恋心を抱いた。
『え? 絵手紙教室? どうしたの? 来年受験なんだから、あまりそう言うのもどうかと思うけど……。父さんに、聞いて御覧なさい?』
母親は驚いたが、父親はしたい事をすればいいと、快く背中を押してくれた。
理由を深く追求されなかったのが、救いだった。不順な動機だけど、シュンは毎月2回あるこの教室が、待ち遠しくて楽しみだった。
葉書3枚に作品を仕上げ終ると、雑談兼ねたお茶の時間があり、みんなでお菓子を食べながらおしゃべりする時間が、参加者の高齢者はとても楽しみにしている様子だった。
「へー。シュン君は、写真部なの?」
「はい。デジカメよりフィルム派で。こう、手でフィルムを撒く感覚とか、自分で絞りとか露出決めて撮って出来たあの現像を見る瞬間が、たまらなく好きです」
参加していたお年寄りは、孫くらいの年代のシュンと話をするのが楽しそうだった。話題の中心が、大抵シュンになってしまい、シュンはあれこれと質問攻めだった。
教室の帰り際、お名残惜しそうな背中でシュンはドアに手をかけた。
「シュン君」
背中越しに、ほのかが呼び止める声が聞こえた。その声に、シュンは胸がドキリとし、身体が跳びはねそうな思いだった。振り返ると、ほのかが目の前に立っていて、何か言いたげな様子だった。
「さっき、写真部って言ってたから……。もし、興味があればなんだけどね」
そう言って、ほのかは手にしていた紙切れを差し出した。
「何ですか?」
「うちの主人、写真やってて。今度、個展出すの。良かったら、どうかなと思って」
差し出された個展のチケットを受け取り、シュンは視線を落とした。
“山中かなた 写真展”
「…………」
ほのかは、浮かない表情をしたシュンの顔を覗き込んだ。
「うわっ!」
「どうしたの?」
心配そうに見るほのかを見て、シュンは目が泳いだ。顔の熱が一気に上がり頭がポーっとしだした。
「なっ。なんでもないですっ! 先生の旦那さん、写真家さんだったんですねっ!? ぼ、僕、山中さんの写真集見たことあります。女の人がシャボン玉飛ばしてる写真、代表作ですよね? あれ、僕好きです」
「そうだったの? ふふ。ありがとう。主人が聞いたら、喜ぶわ」
穏やかな笑みを見せ、ほのかは言った。
「チケット、ありがとうございます」
「いいえ。良かったらだから。気が向いたら見てみて」
ほのかの笑みで見送られ、教室を出たシュンは重い足取りで階段を降りた。そうして途中で立ち止まると、手にしていたチケットを見つめた。
思い込んだ大きな溜息を吐き、くしゃっとチケットを握り締め拳に力を込めた。身体中の血液が、沸騰しかけわけの分からない怒りがこみ上げて来た。それを冷やすかのように、拳の力を緩め、掌を広げた。ギュッと強く握りしめたせいで、掌に爪が食い込んだ赤い痕が浮かんでいた。それを見つめながら、身体の血の気がスーッと引くような感覚を、感じた。
そうして、くしゃくしゃになったチケットを丁寧に、掌の上で広げると鞄にしまった。
外に出ると、シュンの胸の中が、スースーと秋風が吹き付けるような、虚しさが漂っていた。
駅前に止めていた自転車に乗ると、家とは反対方向の八景の海に向かってシュンは、勢い良く自転車を漕ぎはじめた。
今日、絵手紙教室に来る時よりも速いスピードで、全力疾走して坂道を駆け抜けた。
ほのかへの淡い恋の終わりが胸いっぱいに広がり、切なさで胸が締め付けられた。
曇らせた顔を風が吹きつける。風が目に滲みこみ涙目になっても、シュンは構わず自転車を漕ぎつづけた。
今回のお話は、作者の書籍化された処女作を少し絡めてます。
どこかで、ご存知の方がいたらいいなぁ……と、いう思いを込めて。
爽やかな、高校生の淡い想いにしてみました。
自転車を全力で駆け抜ける爽快感や体力……それらに混ぜて淡い想いが消えていくのかなぁ……どうかなぁ。
ここまでご覧下さって、ありがとうございました。m(__)m