母親
帝都の帝城領内、我が月城の領と今は大半が無くなった衛宮の領の、丁度中間辺りに位置する。帝城奥の院。
或いは、我が月城邸も含め、帝都で最も厳重に守護、秘匿されている場所。
それは外敵から院を守るというものでもあるが――それ以上に、院内に"閉じ込められた" 者たちを逃がさないためというのも大きい。
内部は広い。住まう部屋一つとっても、平民の住宅面積に匹敵する。
その上贅沢としか言いようの無い品々に囲まれ、当たり前のように衣食住に不自由など無く、外敵からの襲撃もありえない。外出の気を無くさせる腹が透けた措置。
外部への自由だけが存在しない、豪華な牢獄。
そう。ここは、首輪の――オブラートに包まずいえば、誰かにとっての人質たちをかこう、牢獄だ。
その牢獄の住人が一人、豪華な家具の中で一際古びた丸いテーブルを挟み、首を傾げる。
緑色が強い金糸が揺れた。
穏やかな雰囲気の瞳が細められ、とろけるような笑顔。邪気の欠片も見当たらない、いっそ落ち着かない笑顔。
「燐音ちゃん、おかわりはいかが?」
二十代半ばほどにしか見えない二児の母が、絶妙な味付けの紅茶の入ったポットを揺らす。
ちゃん付け。別に呼び名に頓着するタチじゃないが、あまり慣れない。というかこいつに慣れない。
「燐音ちゃん?」
「……ああ、もう一杯だけ」
というか貴様の紅茶は微妙なんだ。不味くはないが、美味いともいえん。我慢できる範囲で、本当に微妙すぎる舌触りなんだ。
差し出されたそれを飲まずにいれないのは、こいつが放つ独特な空気のせいか。義理もないわけじゃないし。
半ば恒例になっている通過儀礼を済ますべく、注がれた紅茶――曲がりなりにも紅い茶という癖に深い紫色のそれを眺め、持ち込んだ薬筒をいれ、溶かす。
「ところで燐音ちゃん。今日はいったい何をぶち込んでやがるのかな?」
たまに言葉使いがおかしくなるのは、コレの夫の影響か。それとも暇つぶしにと持ち込まれる無数の雑多書物の知識毒か。
最初からこんなんだったのは気にしない方向で。たまにあのへたれを倣うのも悪くない。
「醤油とマヨネーズと納豆だが」
微妙をどうにか動かす調味料は欠かせない。微妙なくらいなら不味い方が味がある。
「また納豆。納豆好きだね」
「アトランダムに三種選んで混ぜたのを持ってきてるだけなんだが」
……流石に口の中がねちゃねちゃする。納豆はやはり特徴的だ。というか飲み物には普通に向かないな。
「不味いなら混ぜなければいいのに」
中途半端な味が嫌いなんだ。
歯に布を着せず言うと、これまた素直に頬がふくらむ。
「むぅ、なんで私の紅茶はいつまでたっても微妙なのかな」
「いや、貴様の旦那が送ってくる茶葉のせいじゃないか?」
煎れ方の手順など知らんが、上等な葉を使ってない事くらいわかる。というか紫色の飲み物が上質ってのは色々間違ってると思う。
「まったくまったく。何時まで経ってもあの野郎はどうしようもない子供だからねー」
「衛宮の当主を子供扱いするのは貴様くらいだろうさ」
膨れっ面は童顔を更に幼くさせ、また見慣れた下僕のそれとよく似ていた。
あいつは母親似だからな。目元なんか特にそっくりだ。
「む、唐突だけど燐音ちゃん。いい事思い付いたわ」
「なんだ」
その下りで碌な事を提案された試しが無いんだが。一応眉をしかめながらも聞いてはやる。
「ママって呼んでくださいな?」
かちゃりと置いた陶器の音が変に響いた。
疑問符ながら、抗い難い空気を醸す笑顔、笑顔、笑顔。
どう対応すればいいかわからなくなる空気。頬が引きつるのを止められる道理もない。
「……なんでそうなる」
「だってだってぇ、優くんか鈴くんと結婚しちゃえばそうなるし。早めちゃっていいじゃない。予行練習よ」
「前提がおかしい。なぜに俺様がそいつらと結婚する事になる」
貴族からすれば俺様の年齢での結婚なり婚約なりは珍しかないが、それは利益とかが絡んだ場合だ。
好き好んで結婚だのというには違うだろうに。
「あ、やっぱり鈴くんの方?」
やっぱりってなんだ。てかその訳知りぶった目止めろ。突くぞ。
「だってあの子ってば、たまに逢いにきて口を開けば半分以上燐音ちゃんの事ばっかりなのよ。若いっていいわあ」
「貴様の夫は今も尚お盛んだがな」
「……またあの馬鹿に何かされたの?」
終始笑顔は崩さず、しかし明らかに空気の質が変わる。当然か。
前科だらけだからな、あのオヤジ。ぞっこんなんだから周りに目移りしなけりゃ良いのにと思いはする。
しかしそれでも悪戯の要領でしちまうのがあの馬鹿当主。悪戯される側としてはたまったもんじゃないが。
「出会い頭に尻を撫でられた」
そして逆上した静流に追いかけ回されていた。
逃げ回るという状況を完全に面白がってたな。最後刺されてたが。大分。
「そう。それなら私は草薙で、あのボンクラを四・五十回くらい刺しとけばいいのね」
率直に死ぬぞ。いくらなんでも。
「大丈夫大丈夫。昔っからあのド畜生は潰しても潰してもめげない生態だから。ちょっと心臓と股間と喉を重点的に刺されたってめげないわぁ」
笑顔だ。これでもかという程満面の笑顔だ。それ単体で意味もなく居なくなりたいくらいの笑顔だ。
というか神器で刺すな。異能による修復もできん。
「ダメよ。鈴くんのかわいいお嫁さんにお手つきしたんだから。とりあえず惨たらしくアレするべきなの。五体の内三つくらいは千切れるべきなの」
穏やかに諭すような口振りながら、内容はうちの暴走メイド長かキレた時の司と大差ないもの。ドメスティックバイオレンスに該当するのだろうかコレ。
若干痛んできた頭を抱え、嘆息をひとつ。
「だから誰がお嫁さんか。というかあのへたれに嫁ぐなど、冗談でないわ」
妙なプレッシャーがなりを潜め、ついでに穏やかさもなりを潜め、面白がって観察するような表情になった。
やはり似た者夫婦の気がある。
「へたれが抜ければ良いの?」
「何を莫迦な。へたれでない鈴葉など鈴葉ではない」
深いなあ……とか言いながら手元のカップを啜り苦笑する衛宮母。
何か、犬猫を愛でるような目が非常に気にくわない。
「それで燐音ちゃん」
「なんだ」
「優くん、どうしたの?」
夕飯は何かと尋ねるような声。だが、その目元は――
「……何故、優理だと?」
思考を覆い、感性で会話する輩に問う。
「なんとなく。優くんの名前出した時、変な感じがしたからね」
経験からくる洞察力でなくより徴証的な、紆余曲折経て得たという侮れない直感力。鈴葉も備え付けてるそれには関心を覚える。
まあ、いずれにせよその案件を伝えにきたのだから構わんが。
「そうだ。一日と三時間五十三分前、衛宮 鈴葉の捜索に出ていた衛宮 優理の消息が途絶えた。鈴葉は無事だが」
「……それで、草薙の繋がりを剥奪しろ、と?」
神器・草薙剣の担い手が悲し気に問う。それくらいしか、俺様が説明しにきた理由がないからだろう。
先に自分から言ったのは……逆に気遣わせてしまったのかもしれない。
担い手は、保持と行使が認められているだけのその他と比べ、多種多様な権限を持つ。
神器保持資格の選定と剥奪もその権限の一つ。
「そうだ。月城の当主として要請する。衛宮 優理の神器保持資格を剥奪しろ」
剥奪の要請。つまりそれは、資格を与えたこいつの息子が、そうせざるおえない輩に――資格が奪われるかも知れない連中に捕らわれたかもしれないという事に他ならない。
最悪は、資格の横取り。前例が無いわけじゃない。
元の担い手以上の適合性が見られた場合、奪還も殆ど不可能になる。草薙の担い手を前線に出す事はできないのだから。
その最悪の結果。優理を落とすような連中の手に、好き放題できる草薙が渡る事になる。
それだけは避けなければならない。
「……解った。月城の当主からの要請なら、従う他無いわ」
糸のように引かれていた唇がたわみ、なにもかもを理解したような儚い笑みが口元に浮かべられ、頷きが返された。
恐れいる。息子の死刑宣告を受けての気丈さは、大したものだと思う。
「理解が早くて助かる」
「うん。ごめんね、燐音ちゃんも辛いよね」
「貴様ほどじゃない」
「そう思うならちょっとこっち来て」
ああと頷き、席を立つ。小さなテーブルを回り、車椅子に座る衛宮母に向き直る。
錬金術錬成失敗による下半身付随。歩く事ももうできない母親は、それとは別の要因で目尻に涙を溜めている。
言がはばかられる中、手が引かれた。忌々しい程に小さく非力な我が身は、呆気なく他者の母親の胸に収まる。
抱き締められる。不愉快とも心地良いとも言えない。
ごちゃごちゃとした不思議な心地は、ただ落ち着かない。
「……優くんは、きっと大丈夫」
「直感か」
「母親の勘だよ」
自分に言い聞かせるような響きは、震える体と一致している。
それを指摘しようとは思わなかった。
髪を絡めとかす指先にされるがまま。お世辞にもふくよかとは言えない胸元からの鼓動に耳を寄せる。
――ひょっとしたら嫌われてないのかもしれない。
そう思わせるリズム。
「……ごめんね、燐音ちゃんばかりに。でも」
「心配するな」
母親の匂い、母親の体温、母親の胸の中。
以前を思い出して、この身が震えていたのかも知れない。少しだけ抱き締める力が強くなった。
「あのボンクラオヤジは私の管轄だけど……鈴くんのこと、お願い」
精神的なケア。言われるまでもない。
そう言いかけた声帯が、何故か震えた。変わりに、簡潔ではあっても"俺様"じゃない方が口を開く。
「……うん」
抱擁されて引き出された。どこか霞がかった頭で思う。
ああ、母親だな。
そう、改めて思った。