異常
目測にしておよそ十八から二十歩を詰める一歩目。
異形と化した右腕は質量に反して軽い。
正確に云えば平常よりは重い上に異物感が酷いが、そこらの銃火器よりは軽く、取り扱い易い。
故に身は軽く、炎息を迎撃しながらもさして歩を緩めず突進できた。
炎熱を糧に、異形の五爪が更なる力を得、肉迫した炎蜥蜴の外皮を裂く。ライフルが通用しなかった硬度を容易く断つ。
飛沫いた高温の魔血が爪を染め、袖を溶かし首筋をじゅうと灼く。
「はっ」
魔獣の怨声と吐いた苦痛の息が重なり、アドレナリンの高まりでとっさに振るわれた右の爪が、振り上げられていた前足を抉る。
絶叫と共に、先とは比べものにならない鮮血が足場を溶かす。
間一髪の退避が間に合わねば、右腕を除いた全身が焼かれていたろう熱量。
厄介……焔蜥蜴の炎よりも熱い体液。
返り血を素肌で大量に浴びれば、命に関わる。避け難さで見れば、直線的な炎息よりも危険な特性。
じゅうじゅうと首筋の皮を溶かした体液を右腕で拭い消火しつつ思考する。
前脚を深々と裂き、多少なりと機動力は添いだ。
怨みがましい視線の主は、いかな規格外れといえど衛宮のような再生力は無いらしく、少なくない血を噴出させている。
無駄と悟ったか、手足の間合いの外でも砲撃はこない。しかし冷静では無いだろう。足を一つ失って逃げな…………いや、そうか。
飛ばしてくるのは殺意に染まりきったケダモノの目――或いは、口元がつり上がる俺と大差ないかもしれない死線のぶつけ合いは、数秒で終わる。
初動は此方。
足場を踏み抜く勢いで蹴りつけ、間合いを急速に詰める。迎撃は無い。
近接に入ると同時、千切れかけた前足が振り回され、体液が盛大にぶち撒かれる。
意表をつかれ、回避は間に合わない。
蜥蜴面に叩きつける筈だった引きちぎった上着と右腕で防ぎ――焔蜥蜴に集中していた視界が塞がる。
猛烈な寒気がした。
捻っていた身をさらに捻り、右腕を前に出す。視界が変わる。
上着の先から、膨大な熱量が――炎息が放たれたのだ。右腕を前に出すのが一瞬でも遅れれば消し炭になっていたタイミング。
……なんだ、この戦術は?
体中の毛穴に氷を刺されたような違和感が火照った動きを止め、突撃しか考えてなかった頭に、周りを見回す視界を与えた。
そして瞬間に沸騰する。
焔蜥蜴は尻尾を見せていた。
背中を見せて逃げていた。逃げようとしていた。
テメェの遊び場であるマグマの煮だつ方向とは逆の――気絶したままの同僚が転がる、洞穴の出口に!
「――ふっッざ、けんなああああああ!!」
逃げていく臆病者の尾を両手で掴む! 両手の片方の耐熱グローブが灼けただれるが構わず、
「うおおおおお、オオォオオオォオっ!!」
巨大を反対側に――マグマが煮だつ火口に向けて投げ飛ばす!
狙いも何もあったもんじゃなく、蜥蜴頭が岩にぶつかり勢いが殺がれ、それでも更に右腕の怪力が――人間に倍する質量を投げ飛ばした。
――マグマは、焔蜥蜴にとっての生態に欠かせぬ水場。
故に、適量を守らねば害毒に転ずる。
特に熱耐性が桁違いの外皮と魔性の能力ならば、マグマを泳ぐこともできるという。
しかし――前足を切り裂かれ、そこかしこに損害がある状態ならば?
傷口からマグマが流れ込めば、いくらなんでも生きてはいられまい。その証拠に、奴は安全地帯である筈のマグマではなく、外へ逃げようとした。
後一押しという位置で踏ん張ってはいるが、遠隔から足場を崩すなり突き飛ばすなりでマグマに叩き込めば、ほぼ間違いなく殺せる。
だがしかし――ヌルい。
コイツは、この畜生は、俺の同僚を、シェリー=アズラエルを殺そうとした。
無力化したシェリーを踏み潰して逃げようとした。
正しい判断だ。認めよう。殺してやる。
この手で、この力で、
「――熱量凝縮!」
音声入力、言霊を紡ぎ、異形と化した右腕の掌に熱を灯す。
炎精杖が吸収、蓄積した炎熱を満遍なく回さず、一極集中。
欠陥の多い、両刃の切り札と銘打たれた機能。熱量凝縮。収縮。
されど過熱の余り、処理機能を超えた右腕の指関節が軋み、じわじわと溶解を始める。
しかしどういう原理かは説明があっても理解できないが、太陽にも等しい凝縮熱量は接触部位以外を灼かない。
カンテラに入るだろう小さな熱の塊、手のひらの太陽。
戦慄くように焔蜥蜴が呻く。許容量を、常識を超えた炎熱を見て後退ろうとして、
「ーけケ、」
声――それは正しく声に聞こえた。
「ケケけゥケけけけケケけきゃきゃきャきゃキゃキゃきゃキャ――!!」
今世の際の狂気にも似た、不快で耳障りな音声。
ギザギザの歯を鳴らし、蜥蜴面を歪ませて、哄笑をあげる。異常。
吐き出されるのは、人が出すソレに似ていて――だからどうしたと切り捨てる。
炎精杖の鈎爪形態は、個人差はあれど十分は保たない仕様になっている。
超過すればおよそ数日の冷却期間が必要。機は、今しかない。
間合いは既に詰め始め、瞬く間に射程圏。
害する熱気が眼前に迫ろうと、耳障りな哄笑は続き――ぞぶりと、熱と異物感が脇腹を貫いた。
揺れる視界、中絶された突進、突撃は、成らず。
――外皮の一端が錐状に尖り、脇腹をカウンターで……っ!
力が抜けて、意識が薄れていく。なんだこれは。
眼前で、岩のような顎がゆっくりと開かれ、
「――汚ぇ顎開いてんじゃねぇよ!」
鮮烈な気配は唐突に、ドスの効いた罵声を口にしたのだろうエプロンドレス姿の同僚――ユアが、焔蜥蜴の上顎を踏みつけた。
唐突な出現に鈍い反応を返す間などあるわけもなく、踏みつけられ閉じられていく口に、何かが投げ込まれる。流暢な動作だ。
見覚えがある青白い物体は、閉じられた口の中で作動したようだ。風音がして、歯の隙間から白い霧が吹き出た。
目を見開き身を痙攣させる焔蜥蜴を尻目に、蜥蜴面を踏みつけ――僅かに光を反射させる糸みたいなモノを手放し、小柄な同僚が機敏に飛び退く。
「今だ雨衣! やっちまえ!」
「――応っ」
明後日に飛びかけた意識が浮上し、声に誘導される形で右腕を意識する。
内臓が傷ついたか、口内に鉄分が逆流し、吹き出る。更にどういうわけか錐状に尖った外皮は縮み、蓋が消えた傷口からも血が吹き出る。
霞む視界、揺らぐ体、しかし足は前に倒れ込むように進み、
――終わりだ。
そう口に出来たかは疑問だったが、小さな太陽が忌々しい蜥蜴面を蹂躙していくのを確認して――意識を闇に落とした。
焔蜥蜴の巣穴は、出入り口が複数ある。それは、枝分かれした逃げ道が沢山あるということ。
焔蜥蜴は、意外な程臆病な性質を持ちます。
だからこその外敵対策――お腹を空かせた竜種か、それなりに価値があるパーツを狙った人間への。
身を守る為の措置、逃走経路の多様化。
それに生かされる形。
崩落が始まって、一か八か死臭が充満する奥に飛び込み――辛うじて崩落が届かない地下通路に逃げ込めた。
その後の更なる崩落でユアちゃんとも分断されたけど、声は交わせる程度の隙間があり、私の方と同じくユアちゃんの方にも逃走経路が続いていたらしいから、脱出を急ぐことに。
塞がった道をどうにかするには、私の錬金術技能も、時間も足りなかったから。
「……うぅ」
気配もしない暗闇の中、手放してしまったカンテラが悔やまれます。手探りで進むしかないの。
背負った荷物が心なしか重量を増したように重くのし掛かります。いやただでさえ普通に重たいんだけどね。全部背負ったまんまだし。
食い散らかされた魔物の一部に躓いて一回転けた時は、意識を手放しかけました。
もう目は慣れたけど、暗いのは嫌い。一人も嫌。寂しいもん。熱いのは我慢できるけど。
子供のようにぐずった所で、現状がどうにかなる訳もなく。
……他の子たちは、大丈夫かな? 怪我したりとか、竜に遭遇したりとかしてないかな?
かっかっかっ、普段はなるべく殺している足音を響かせ、歩を進めます。
ううぅ……普段は可愛い子ちゃんの世話とか気を回したりとかで気にしないんだけど……寒いなあ、狭くて暗い所で独りは、寒いなあぁ。
ダメだなあとか思いつつも昔々の事を思い出しかけて、振り払いながらも細長い洞穴を足早に進み続けること十分と数十秒、ようやく、ようやく外に出られました。
歓声をかみ殺しつつ、気配を伺いながら洞穴から顔を出します。
んー、遠く……というか耳を澄ますまでもなく、聞こえますねー。
――愛らしくも胸が締め付けられる舞ちゃんの悲鳴と、荒々しく殺気立った竜の息吹。
全ての雑念をぷつりと終い、洞穴から最速で飛び出しました。
「――ふっ、ふふふふふりきれないいいいいいい!?」
エコーエコー、頭にくわんくわんと響く自分の悲鳴。
そして何かの八つ当たりみたいに進行先に衝き立つ、ふっとい火柱!
余波と余熱とつぶてが身を打ちバランスを崩そうとする。見上げればそこにあるだろう、羽ばたくデカ羽蜥蜴様が追撃を続ける。
直線に逃げたら普通に狙い撃たれる。それで死にかけた。裾が消し炭になった。
余波でも身動きが制限され、岩場とかの遮蔽物も無意味な馬鹿パワー。
そして何より振り切れない。いや、速さそのものなら全速力で振り切れる。かけっこなら勝てる。
だけど相手にはオーバーキルで射程長すぎな息吹に、馬以上の速さで飛行可能な翼持ち、殺す気も満々。狩られるか逃げられるかの真剣勝負。
シンプルだけど複雑に不規則な逃げ方が要求されるハードミッション。ワンミスで即死だ。肉体的にも精神的にも負担が半端ない、スーパーリアル鬼ごっこだ。
「――――」
とりあえずという感じで放たれた火柱を加速して避ける。暴風じみた余波が背中を揺する。
というか何なんだろ、何なんだろ何なんだろ、何だって殺る気満々で追っかけてくるんだか。
あんなもん受けたら普通に骨も残らない。イコール、食べれないという事。
食べる為じゃないなら……何だって追っかけてくるんだろ?
魔物が人を襲うのは、習性かテリトリーに近付いた防衛か、食のため。とメッちゃんが言ってた。
現状、そのどれもを満たしてない、と思う。
直角に近くでこぼこな急斜を高速で駈け登りつつ、埒のあがらないことも考える。
なら何なんだ、いったい。
低空を飛んでいた赤い竜を、斜面を駈けながら見下ろしてみる。
「……あるぇー?!」
なんか歯を剥き出し怒ってるような感じの目で睨まれ、首を傾げた。
その間にも、生存本能に支配された我が愛脚は、殆ど直角に舵を切る。
斜面を登る速度はそのままに、踏みしめた岩場が槌で撃たれたような音と――一瞬遅れてごう、と火柱が斜面を抉る。
んにゃろう……っ、逃がさないつもりならこっちだって!
重力に従う方向に舵を切り、高速上昇を始めた竜とはみるみる、ていう間すら無く。
岩場とはまた違うゴツゴツの塊とすれ違い――おでこで一度脚を付け、そのまま一際大きな頭の角を一本ひっつかみ、しがみつく。
……このまま見過ごしてくれたりなんか――
「――――(何をしやがるかこの小娘ェェェェ!)」
「ほにゃああーっ?!」
つんざく咆哮と、頭の中で木霊した罵声に悲鳴をあげてしまった。
――てかなに?! いまの、なに!?
「――グるるる(屈辱だ……屈辱だぞ! 今すぐ我から離れよっ、小娘ェ!)」
移ろう殺風景にこなれた風圧、案外というか柔な空気抵抗。
言うまでもなく、一人と一匹しかいないこの場。
なら、肉体からはみ出た冥チックな不思議声で喋っているのは……曲芸的な高速飛行を決めたり首をふったりしてあたしを振り落とそうとする本人。いや本竜!?
「(……っチ、水気が強すぎる! たかが存在レベルで能力をキャンセルするとは何なんだ貴様、本当に人間か!?)」
「ななっなー、何なんだはこっちの台詞だよ! いいきぃなり襲ってきて!」
風圧が酷くて変な風に声が出る! てか両腕でもこれじゃ……ままよー!!
「(ええい黙れ人間が! 腹の居所が悪い所にちょろちょろしおって! 大人しく消し炭になっておけばいいものを!)」
「ーっ腹の居所おっ?! そぉんなぁもんで……いや魔物ならそんなもんんんなぁのッ!? こぉおのケダモノおー!!」
振り落とそうする竜と、全身でしがみつくあたしの攻防が続く中、大口開いて放たれる、一際大きな咆哮!
「ルグオオオオオォオ……?(貴様、いうにことかいてケダモノだと!? どこまでも愚弄し……って、あれ?)」
ぴたり。
そんな擬音が付きそうなくらい唐突に、竜の羽ばたきと高速回転宙返りが止まる。
えっ、ええ何? 何なのコレ?!
「(…………あれ、貴様、我の言葉わかるのか? というか我は人語を喋っているのか?)」
「はぇ? いや、さっきから話ししてるじゃん」
思いのほか純朴な疑問を口(?)にしたきり、沈黙が流れた。
雲と噴煙が真横に流れる高空は思いの外暖かく、それ以上に生暖かい空気。
どうしたんだろうと首を傾げる、直後。
「――っグルォォオオオオオ!!(うだあああああああ! やっぱさっき喰った異業種のせいか!? 糞、糞糞糞、いらんぞこんなんんん!!)」
「ひっ、ひゃあああああああ!?」
唐突に身震いしながら身を捻り始めるデカブツ。心構えも何もない所でやられたもんだから腕が滑りかけた。死にかけた。
「いいいきなし何すんのこのお馬鹿ーっ!?」
「(あ、ごめ……いや違う! というか何だ、何故我に怯えん!? そこらの人間は目が合っただけでふぬけるというに!)」
「えー、いや確かに怖いっちゃ怖いけど、ぶっちゃけメイド長と比べたらなー」
迫力負けというか、こっちはやけに愛嬌があるというか。謝りかけたし。
話が通じる分のギャップかな……あれ、逆?
「(くっ……! 少しばかり逃げ足に長ける程度でどこまでも愚弄するか、人間め!)」
「いや愚弄って、そんなつもりはないんだよ竜くん」
「(竜くっ!? 貴様大概に――……む)」
憤慨していた様子から、どこか遠くを見定めるように頭を固定させた竜くん。
何だろうか。なんか男の人っぽく低い声なんだけど、実は女の人だったりするの?
とあるメイド服がデフォルトな先輩のせいで性別を疑い易くなった今日この頃。
「(……不快な波動が消えた。何者かに抹消されたか)」
「不快? 抹消?」
「(我等が領域を侵していた、邪悪な異分子の苗床だ。焔蜥蜴に寄生していた様だが、今し方その波動が潰えた)」
イブンシ……うーん、ひょっとして話題にのぼってた、異様に強い魔物の事かな? 焔蜥蜴だし……ってえ、なに、倒されたの?
「じゃあシーちゃんたちがやったのかな」
おおぅ、あたしが竜ちゃんとすーぱーりある鬼ごっこしてる間に事を片付けられましたか。
後でお礼しないと。
……大丈夫、だよね?
鎌首をもたげた生死への不安を押し込め、人語を話す不思議竜の言葉に耳を傾ける。
「(他の人間が? 莫迦な。同族を食い散らすような狂った焔蜥蜴を相手に、異業種でもない人間が勝てる道理が、)」
む、みんなはあたしなんかよりずっとずっと強いんだぞ。
というかさっきから未知な単語ばかり口にして。
「イギョウシュって?」
「(貴様ら人間が異能力者などと呼ぶ外道共だ! ああくそっ、思い出したらハラワタがああ……っ!)」
……なんかかわいいなあ、この竜ちゃん。
お話が通じると解った途端、お喋りでなんだかんだ言いつつ説明してくれる……うん、良いこだ。どっかのウンコたれ悪友なんかとはくらべものにならない良いこだ。
ここが上空で両手両足が塞がってなきゃあ、あたま撫でてあげる所だよ。
しかしなんかお腹痛そうに身をよじってるけど、大丈夫なのかな?
「どしたの、ぽんぽん痛いの? 何か変なものでも食べた?」
「ぐぅるるるる(喧しい! 地血の上に浮いてた異業種をうっかり飲んでしまっただけだ!)」
うわうっかりって言ったよこの不思議ドラゴン。
……って異業種? 異能力者の事、だよね? あれ、人?
「……ーうぁわわわわーっ!? たたタた大変だよ早くお口かお尻から吐かなきゃ?!」
「(貴様、何を言ってるか分かっているか?)」
「そんな事いってる場合じゃないよ! 早く、」
「うん。とりあえず、吐かせればいいんだね?」
有り得ない筈の声を聞いて振り向けば――同じ上空、翠色が太陽光に当たって煌びやかに輝く飛竜タマちゃんの上――ドラゴンの強面のような鉄の塊を手にした、
「つかっ――」
安心できる、頼もしくて優しい存在である――のに、言いようのない怖気で口が固まる。
ひどくよごれたメイド服をたなびかせ、のほほんとしたいつもの微笑みの――面を被ったナニかをたたえる、司さんがそこに居た。