だべり話 二
無我夢中だった。
望外の授け物を賜って、意気揚々とそれのならしを終えての万全の体勢で、組み手相手に三回叩きのめされて――四回目の組み手。
相手が相手だから、ある意味師匠よりも手が付けられない。悪辣で気が置けない。気を置かなくとも万全の体勢でも、今日だけで三回叩きのめされた。
一回目は一礼した瞬間に鼻頭を膝で打ち抜かれ、鼻血を噴いて悶絶。
二回目は普通に立ち技、右肘へのカウンターで喉を衝かれ、痛み以前に死ぬかと思った。
三回目は目潰しを食らって体中を満遍無くいたぶられなぶられた。
相変わらず過酷を通り越した訓練なのか陰湿な虐待なのか、師匠以上に真の意味で判別が難しい組み手の中、既に意識は朦朧としていて、それでも負けるかと気を吐き、前進しリーチの外からの拳を受け脚を流し更に踏み込み、拳を伸ばした。
「――見事です」
使い古された胴着で女性的というより機能的なスタイルを包み、鮮やかな黒髪を後ろで束ねた長身の麗人は、静かな賞賛を口にする。
誰にか。
「え?」
少なくとも、性別の違う侍女服などよりも遥かに慣れ親しんだ痛みがあり、倒れ込みたい程の疲労があり、失っていた筈の右の感触があり――その右拳に、異様に硬い、しかし確かな手応えがあり、
「ええ――ぶぐぁ」
意識が飛びかける程の衝撃が、頬からかけた。
とっさに取れた受け身、首のひねりに受け流しは、我ながら奇跡的な噛み合わせの良さで打撃をそらし、脳震盪を免れた。
たたらを踏みながら、朦朧呆然と眼前の――俺の拳が突いていた脇腹辺りを押さえた、胴着姿の侍女長を眺める。
「一撃……もしも刃物を持っていたなら、決まりでした」
僅かに眉根を寄せた、いつもの感情の無い表情で、メイド長は言う。
「お前の勝ちです、雨衣」
勝ち。
負けではない、勝利ということ。勝ちとったという…………俺が、メイド長に? ならなんで最後に一発入れられたんだ俺?
嘆息しながら、腹辺りに仕込んでいたらしい鉄板を取り出すメイド長を呆と眺め、って。
「……何を仕込んでた」
無造作に放り捨てられた黒い黒いそれは、なだらかな平面にわずかな歪みがある事から、くわんくわんと振り子のように白々しく淡々と揺れる。
「鉄板ですが」
今更だが、あれを殴ったらしい右拳が痛い――痛覚すら平常通りに有る義腕に感慨を抱く余裕も無く、上位者の不正に言葉も無く、ただただ意味もない音が喉を鳴らす。
「……ひっ、卑怯だ」
「看破できなかった者が悪いのです。それに、身体的に私を上回るあなたの土俵。これ位の仕込みは当然です」
愚か者、と明らかな失笑すら交えたメイド長が言う。
……うん?
上? 俺が?
「何を驚きますか。お前の基礎的身体能力は、とっくに私より上です」
ありえない。
弾幕の中を無傷で駆け回り、短刀一振りで襲撃者を惨殺し、師匠をして「戦いたくない」と言わせしめ、暗殺者殺しの常習犯が、ある意味師匠以上の化け物が。
身体的にでも、師匠の遥か下な俺以下?
「バカな。今まで貴女に勝てた事は、」
「私からすれば、ようやくこの方式で私風情に勝てたなと言いたい」
無表情ながらも、どこか呆れ果てたように溜め息を吐く。
いや、風情って。貴女が師匠以外に組み手で負けた事、見たことないんだが。
「かような真っ向勝負――互いに無手であり、殺し合いの前提でない試合は、お前やその師匠である樹が是とするもの。私や司などはその逆です」
……確かに、メイド長は無手の立ち技となると、専門家に近い俺よりはレパートリーや練度が少ない気はしていた。
流暢であり、美しいとすら思う体術や体捌き、特に要所の踏み込みや機先を制す手などは見事と賞賛すべきだが、間違い様のない達人である師匠と較べれば、バランスに欠けていると思う。
だが、専門家でない。その言葉で済ますには、余りに俺は負けこしている。
今回だって四回中三敗で……しかしその上で?
「つまり、自分の土俵で勝つのは当たり前、と」
「心身が安定していたなら利き腕が無かろうと、私は兎も角あの男には負ける事など有り得ないくらい、お前はその土俵に適している筈ですが。なら何故負けるのか」
あの男……あのひょろりとした長白髪の、素人としか思えない動きをしていた男か。
右腕が無かった時期、身も蓋もなく一蹴された苦い経験を回想した最中、メイド長は保護グローブで固めた右人差し指を俺に伸ばし。
「雨衣。お前は要領が悪いのです」
指摘された欠点、といってもピンとは来なかった。
「要領?」
「土壇場はそう悪くありませんが、融通が利かない、というよりは意地汚さに欠けます」
「…………意味がよく分からないんだが」
どうやら肉体的ではなく精神的な鍛錬に移行したらしいと感じながら、素直に口にした。
「組み手と実戦は違います」
いや、流石にそれは分かるが。
「一の実戦は百の鍛錬をも凌駕する、という言葉もあるくらいに別物です。何故なら戦場では殺しても構わないでなく――殺す気でかかるのが常ですから」
「戦場なら既に体験している」
そんな事は百も承知。
既に幾度と銃を手に血腥い場に赴いているし、訓練とはまるで違う空気も、油断やワンミスや運の悪さで、ひどく呆気なく死んでしまう事も知っている。体験して知っている。
「本物の戦闘者や暗殺者と、一人で戦った事がありますか?」
しかしそんな事は緩いと、メイド長は冷笑を浮かべた。
それは、胴着を着ている今でもエプロンドレスを着ている常でも微塵の関係なく、戦慄き生物的な寒気を纏う、根本的に居場所が違う、殺しに手慣れ無数の屍の上に立つ、上位者の貌だった。
「純然たる殺意というものは、一度表面化すれば一切の手段を選ばぬ泥臭く血腥く、悪辣で問答無用な暴力。お前みたいに中途半端な正道は、只の餌食です」
それは、試合ではなく戦場でもなく、戦闘の――殺し合いの法則。
それは知識ではなく、より原始的に根本的に慣れて親しみ馴染んだモノの言葉。
だからこそ、額面以上に身にしみるのか。
「確かにお前は真っ先に死ぬ先鋒としては使い所があるでしょう。しかし、死ぬ前提じゃ駄目ですね」
それは矛盾だ、と思ったが。
「生きて生き延びて、使いモノにならなくなっても生きて奉仕なさい。それこそが我らが主の、燐音様のお望みです」
是非もなく、言葉も無くなる。
矛盾に満ちた我らが主。
望みとあらば、何がどうあろうと達せねばならない。達せねばならない。
元よりこの身は燐音様に救われたもの。救われなければ無くなっていたもの。使う事に喜びはあれど躊躇いはない。
その上で、正しいと胸をはれる忠誠があり、そうでありたい意志があり、叶う事のない思慕がある。
故に、燐音様の望みは絶対であった。
「お前は、今回の要になりそうです。精々心がけなさい」
覚悟を再認する俺の耳に、違和感のあるセリフが届いた。
「? ……焔蜥蜴だぞ? 何故そうまで」
同僚曰わく、火精霊の残滓とも云われるらしい焔蜥蜴。
決して油断できる魔物ではないが、群れる生態じゃないらしいし、威力の高い火器で問題なく駆逐できるという。
この鬼畜メイド長が気を配る対象とは思えないのだが。
「彼の変態錬金術師が指名した魔物です。碌なモノであるハズがない」
「変態?」
真顔で吐かれた断言に思い返すのは、つい先日、俺の腕を提供してくれたという、物腰柔らかく美という美を結集したような、燐音様並みに凄まじい美人。
ついぞ名乗られることこそなかったが、この月城家の関係者と比較すれば、かなりまともな人物に見えた。
「目鼻のきかぬ駄犬が。去勢されなさい」
関係者の筆頭に、嘲りに満ちた目で罵倒された。
何故だ。
「――うん、大丈夫。じゃあ、いってくるからね!」
ぶんぶんぶんと、元気のいい子犬の尻尾みたいに振るわれる両手。
着られている感が著しいエプロンドレスを翻し、そこらの少年Bあたりの方がまだ上品に見えるだろう仕草で、子供みたいな顔が私と司さんに振り向く。
私には見えない妹の霊体とやらと面会し、談笑していた舞は、今も笑っている。
蜂蜜色の髪は薄暗い地下で尚、歪な鉱石光を反射させ、太陽光のような輝きを見せた。
その光に相応しい瞳は、初めての旅立ちに希望を見せる旅人の眼か、光明を見つけた虐げられた者の眼か。
「もういいの?」
並みの女性よりも女性的な柔らかさが問い掛ける。
微笑ましいものを見せてもらったせめての返礼のように、心からの祝福のように。
「うん。ありがとう、司さんにシーちゃん」
率直で屈託の無い、汚れも曇りもない笑顔は、やはり私には馴染みがない――なかったもので、意味もなくむずがゆくなり、正視できなくなる。
そっぽを向いた先で、満面で笑顔に笑顔を返す司さんは、やっぱりそこらの女性より女性的だった。
「ふっ、ふん。要が済んだんならさっさと戻るわよ。訓練のノルマもまだ済ましてないんだからね」
「……うええっ」
意地悪く視点を戻してやると、あっさり崩れた笑顔の成れの果て、嫌いなものを食べざるおえない子供の顔だった。
そりゃあ嫌だろうな。月城家の基礎訓練って、反復練習という名の拷問を除けば、ただぼこられるだけだもんなー。
傷跡だけは司さんが跡形もなく消してくれるからまだマシなんだけど、率直にキツすぎる。
「そうだね。基礎能力の向上は、焔蜥蜴との戦いにだって役立つから」
「うー、二人がイジメるよー、ドミー軍曹ー」
司さんまで追従してきたからか、嘘泣きなんぞ交え薄汚いアヒル人形に頬摺りするお子様。
「まっ、舞ちゃんイジメるだなんてそんな!? ああ泣かないでーっ!?」
この世の終わりとばかりに取り乱し、馬鹿でも騙されないだろう嘘泣きに動揺を見せる司さん。いっそこの人が泣きそうな勢いである。
一体、何がこの人をここまで壊すのか。
変態と云われる所以を垣間見た。
取り乱す司さんどうにかおさめ、舞の妹さんが眠る月城家地下深くから、地上に出る道のりを往く。
ひたすらに細長く、入り組んだ地下通路はたまに洞穴のような岩肌で、まるで迷宮のような有り様である。
つーかこんな区画まであったのか月城家。マジでどんだけだ月城家。
「つーかさ、なんなんだそのアヒル」
「アヒルじゃないよ。ドミー軍曹だよ」
だから何で軍曹。水場とかでぷかぷか浮かぶだけの玩具が何で地位を得てんだ。
「むー、軍曹を馬鹿にしちゃいけないんだよシーちゃん。お義父さんが間違えてお鍋で煮ちゃった時も、メッちゃんがうっかり滝壺に落とした時も、表情一つ変えずに生還した歴戦のつわものなんだよ」
「いや、あたしとしてはそのお二方の奇行の方が気になるんだけど」
「そして冥が付けた名前こそ、ドメスティック=鷹椿=トメちゃん軍曹! 略してドミー軍曹なんだよ!」
「……あんたの妹のネーミングセンスが壊れてる事は分かった」
手のひらサイズな黄色い鳥を模すドメスティックなんたら軍曹を両手に掲げ、歩きながら一回転してみせるお子様を見る私の目は、きっと冷たいものだろう。
……しかしこいつ、着の身着のままで月城家に来たってのに、どっからそんな私物を?
夜光石っぽい光に照らされ、薄暗い感じな狭い通路とは相反する空気の中、私は気になった事を率直に問い。
「え、そりゃー、うちの焼け跡をあさったから、だけど」
後悔した。