裏側
――荒い息を吐く生々しい音が、湿った速足の音よりもよく聞こえる。
薄く明けた森は浅く霜がかり、昨日だか一昨日だか降っていたという雨を思わせる湿り気を漂わす。
畜生。
誰も居ない――居たとしても構わない。生きた死体の紛いものなど、人形と同義だ――閑静な名も無き森で毒づいた。非効率的。しかし苛立ちは収まらない。畜生。
詰まらない、本当に詰まらない凡ミスだった。
たかが構成配列を間違えただけで、手元が少し狂っただけで、ウィルスは爆発的に増大した。
最悪は続く。施設の老朽化か、チェックミスか、なんでもいい。それは起きた。
気密性は完璧ではなく、ドコかに空いていた隙間から、肥大化を続けるウィルスは外界に出た。
人を物言わぬ人形にする、脳のとある領域だけを破壊し、命令だけを聞き動く人形に仕立て上げるウイルスの漏洩。
科学災害だ。
空気中に広がり、汚染を始めたウィルスを止める術は無い。
感染拡大は既に始まっている。
空気中を漂い呼吸で感染するウィルスの性質からして、近隣の村は全滅だろう。生態系にも問題が出る可能性は高い。
それ自体はどうでもいいが、問題だ。
非合法の実験を表に出してしまった。その責任が……糞、せめて助手の一人くらいは生かしておくべきだった。責任を肩代わりできるものがない。
あの女が騒ぎ出すから……っ!
どん、健康的とはかけ離れているだろう腕を、近くに合った木に叩きつける。
痛覚と馬鹿馬鹿しさから、少しだけ頭が冷える。
……まあいい。資料もサンプルも確保した。
それに、私の実績も合わせれば、最悪は免れるだろう。上から情報統制もされている可能性も高いし。
「博士」
くぐもった背後からの声に、うっかりケースを落としかけた。
振り向き見ると、私と同じような対細菌装備を身につけた、三人。
ただし、私が持つケースの代わりに持つのは、対細菌装備とは正逆の色合いをした、銃火器。
「お迎えにあがりました」
安堵の息を吐く。どうやら、破棄はされないらしい。まあ当然だが。
回収に来たらしい組織の手足の存在に、ガスマスクの内でほくそ笑む。ひ、ひひゃひゃ。
裏の装備、裏の手足、裏の猟犬。
万一ここら一帯のウィルスに犯されてない魔物が出没しようと、私と私の研究成果は保証された。
「資料とサンプルは回収した。証拠も隠滅してきた」
「では、撤収を」
撤収。折角完成は間近だったのに。資料にサンプルは回収したとてやり直し出直し。
虚脱感はある。しかし、まだ終わったわけではない。私は、まだ生きている。途中で野垂れ死んだ畜生とも、協力させていた愚図とも違うのだ。私は、必ず成し遂げて――
「何者?!」
「構わん。撃て」
猟犬部隊の不可解な対話。
雑念に傾けていた意識を浮上させると――ウィルスの蔓延しているこの場で、対細菌装備もしていないのに堂々と立つ、外套とも呼べないボロ布を頭まで纏う、小柄な人影があった。
霜がかった視界、表情は伺えない。謎な存在。何故、ウィルスが蔓延しているこの場所で?
疑問を晴らす間もなく、猟犬たちが躊躇ない牙を剥く。
正規のリストには載っていないタイプの突撃銃による斉射。発砲したのは一人だが、それでも人一人をミンチに変換するのには不自由しないだろう。
だのに――人影が、手に持つ長大な長物を微動させた気がした。二頭の蛇が絡まるという、特徴的な装飾が施された杖だ。
それを認識するまで、数秒。なんら突飛な変化は無い。起こらないという、常軌を逸した異常。
――吐き出されたライフル弾は、どうした。
ミンチが出来上がるはずが、何故――何も起こっていない?
銃声というのも馬鹿馬鹿しい破裂音の余韻が、いつの間にか霜が消え失せた森に反響する。
「やあ、面白い事をやっているじゃないのだ」
霜が――霜と一緒に、霜と同価値のように消え失せた猟犬たちに、とってを残して消えた重みに動揺する間もなく、杖を揺らす人影が、微笑む。目元まで隠したボロ布の下、女性的な唇だけが歪む。
杖。鈍器としては細く、錬金術師が使うにしろ精神統一の一助にしかなりえない物。目の前にあるそれは、二頭の蛇が絡み合う柄を――……双蛇の?
「け、けっ、りゅけいおん……」
翼の折れた双蛇の杖。それを持つ、規格外の、噂。都市伝説じみた、噂噺。
曰わく高名な錬金術師が匙を投げた不治を癒やし、曰わく異能力者によってクレーターと化した山脈を蘇らせる要因、曰わく未開遺跡から銃をもたらした先駆者、曰わく不老にして不死の錬金術師――曰わく、双蛇が絡み合う長杖を持つ、徘徊者。
その杖を持つ小柄な人影。
"魔王"、"天使"、"魔人"。そう言ったレベルの、ヨタバナシ。
そうだと思っていたそれ。
我ながら正常ではない混乱しきった思考で、身を震わせる恐怖を理由付けた。
しかし、震えは止まらない。逃げようとする為の判断ときっかけすら剥奪されたような、未知の恐怖。
「さぁて、」
錬金術師は真理を見通し、構成を弄くる者。
故に錬金術師の眼は、どのような現象が起きようと、その大概を理解し、詳細を把握することができる。
故に、全く理解できないものが、ひどく恐ろしい。
「ちいぃと聞きたい事があるのだよ、もるもっと君?」
一本道のような長い回廊を曲がると、十字路が見える。
余計な装飾を廃した廊下。今の主である燐音様の采配。機能重視。先代もその傾向はあったが、燐音様はより一層その傾向が強い。
「何のつもりだ」
「気まぐれなのだ」
そんな廊下の中、異物を引きずりながら口にした問いに、四肢のある異物はそう答えた。
「殺人はポリシーに反するのではなかったのか」
「だからナニをしても問題ないのを選んでいるのだ。今回は良い素材だったのだ」
人を殺めるのはタブーだが、外道は人間でないと認識している。
感情を隠さず舌打ち。お陰で証拠が災害ごと潰された。
科学災害が起こった地方の領主を抱えた右翼派の大貴族。それが黒幕。しかしその証拠が消えていた。
かねてより潜入させていた草を動かし証拠を押さえる。という選択を下し動かした後の、完全に予想外な横槍。
伏せ札が一つ減った挙げ句、人を物言わぬ肉人形にするというB級禁忌と指定されたウイルスの不法開発関与の証拠は、その横槍のおかげで失われた。
毒蜥蜴の吐いた毒を横槍が浄化し、既に切られた尻尾を八つ裂きにするという結果。本体はまんまと逃してしまった。
「何をした」
草からの報告にあった、地下に潜伏していた錬金術師の変死体を思い返しつつ、問う。
こいつ相手にまともな返事は期待してなかったが、
「淵怨代行」
変態らしいアップテンポな声。
しかし同時に感じた、血流に氷水を混ぜられたような感覚に従い、跳び下がる。
双蛇の杖は、前向けにカーブを描く、小ぶりなククリナイフに取って代わっていた。
「……何だ、"それ"は」
ぞわりとした寒気に肌が泡立ち、廊下が異界に変容したような、震えすら起きかけた圧力。
放っしているのは、いつも通り間抜けたクセに読めない笑みを浮かべる変態錬金術師でなく、只のククリナイフにしか見えない、道具。
「淵怨代行、という。いずこかに存在する誰ぞの能力を抽出した一品、なのだ」
意外なことに、説明らしきものを口にしてきた。
眉をしかめる。
この変態、訳のわからんことは幾らでも口にするが、こと己の技法の都合が悪いのだろう箇所に関してだけは、決して口を滑らせなかった。
「効力としては、淵に沈んだ怨恨を代行するものなのだ」
「……怨恨だと?」
「ようは人に怨まれた数だけの苦痛を与える能力を込めた道具なのだ。その証拠に、コワいんでないかな。狗っころ」
それは、確かに異様な重圧を感じてはいるが……まさかこれが、死者の念だとでも云うのか?
体験したことのない――例えるなら、悪霊とでも対峙しているような――感覚に、喉から潤いが無くなる。持ち主からは特に殺意や害意を感じないのに、目がそらせない。右腕だけが痙攣したように震え続けている
「その性質から、効き目に個人差があるのだ。大まかな計算上、一人殺した初心者ならば精々が発狂するだけで、五人前後から廃人コースといふ感じなのだ」
有り得ない。
どう考えても神器級の、呪いとでも蔑むべき神秘。物理法則を弄くるが錬金術師なれど、法則を超えるの神秘は門外漢なはず。
しかしこいつは規格外で、件のナイフから怨念じみた迫力を感じているのも事実。
「……それで、大量の人体実験を行っていただろう地下錬金術師を、」
「自我が消し飛んじゃっただけですたヨ。後は精神浸食の余波が肉体に幾分かイっただけ。つまらーんのだ」
それで村人を嘔吐させ、病院に担ぎこませたとかいう変死体か。処理くらいきちんとしてほしいものだ。
しかし解せない。別にこの変態がどんな下醜で傍迷惑な人体実験をやろうと、燐音様に負担が架からなければどうでもいい。だが何故証拠まで。
研究所の後始末は件の錬金術師が付けたにせよ、この変態が証拠を潰す理由はない。
「しかし、出会い頭いきなし発砲してきてさー、ぽくちんビックリしちゃったのですよ」
あった。理由じゃなく、筋書きが。
まるで匂わすようなタイミングだったのが気がかりではあるが、こちらを指摘してもどうせ答えはしないだろう。故に、率直に問う。
「まさか貴様、降りかかる火の粉を根こそぎ消したのか」
「だってこわくね? 突撃だかの銃かまえマスクかけ野郎ドモですぜ、ダンナ。とっさに存在抹消とか考えんかねフツー」
確定だ。
わざとらしく身震いする変態の有りように、確信する。
目当ての錬金術師以外、証拠もウイルスも、恐らくは存在しただろう護衛も、綺麗さっぱり全て消しさりやがったのだ。この規格外は。
「村まで救った理由は」
「さああって、そろそろオフロいんといきたいのだ。ワンパターンな問答のーさんきゃーあーアっー」
詳細を考えるだけ時間の無駄な不快ステップを刻み始める変態に取り合わず、思考する。こいつを誘導しようとするだけ無駄だ。
物質の構成分解は錬金術のジャンル。しかし小規模なら兎も角、モノによっては銃技で云う所の、二丁拳銃で左右別々の獲物の急所に命中させることが普通にできるくらいの練度を必要とすると、女装趣味の同僚が言っていた。
村二つを覆って余る範囲の特定要素分解――浄化など、賢者の石を保持する錬金術師でも無理だろう。
それほどの力を使って、ボランティア……に近い行為をやってのけるコイツの真意は、どこにあるのか。あるいは真意など何も無いのか。肝心なコトを、相変わらずこの変態は語らない。
日が沈んだ夜、邸内の電光下で得体の知れないナイフ片手に奇声をあげて踊る物体は、やはり異物にしか見えなかった。
「ぴやーひゃららっらひゃー」
「喧しい」
故に排除した。より具体的に云えば、二階の窓から蹴り飛ばした。
――かっとなってやった。反省は特にしてない。