夕暮れ
月とは夜空に浮くもの。
色彩は黄色金色白色その他諸々、形は満月半月三日月その他諸々。時期によっては黒く染まり、溶けて消える事さえある。
様々な色彩と顔を持ち、遥か遠くから私たちを見守る、慈愛と孤独、安寧と狂気の象徴、月。
それを小さくしたようなソレ、丸い部屋の中央に鎮座する神秘的な月、ヤタノカガミ。
僅かな燐光をかもすそれが、電光に晒されてなお揺るぎなく存在する何かを愛でるように、煽るように明滅したような気配。多分錯覚でしょうけど。
「…………深刻、だな」
「何が?」
『何がです?』
らしくもなく、月城は心底から顔を歪ませ余裕の無い吐息を吐き出しました。
ゆえにAIの九十九さんという謎の声と、台詞がかぶってしまいます。細かい異常は最早気にしない方向性で。
「このままでは、痴情のもつれで中央の英雄が拉致監禁か猟奇殺害されかねん」
それはまた大事ですね。本気で。
月城の、いつにも増して剣呑な言葉から、さっき懐から見て感じたあの真っ直ぐなに真っ直ぐすぎて震えが止まらなかった蒼い眼光を思い返し。ああ成る程と納得。
何をしても不思議ではない迫力でした。
壁の一角に浮かび上がった窓口のような何かも、肯定するように上下します。気にしませんよ。
「困ったものだな。異能力者の"要"というのは、己を含めて誰が見てもそれだと解る法則をシカトして」
「そうなの?」
『そうです』
「そうなんだよ。端から見ても、アルカの欲目を取り払っても、奴はアルカの為だけに異能へと至ったのは間違いない」
"至る"というのが具体的にどういうことなのか、産まれた時からそうである私にはわかりません。九十九さんという謎な声の主がどこにいるのかと同じくらいわかりません。
でも、何の能力も持ち合わせていない人が、超越的な力を手に入れる契機なのです。
並大抵のことであるはずがありません。
なら、誰か特定個人を守るため、そうなったのであるのなら。よっぽど大切で掛け替えのない人なのだと、そう思います。
「或いは、それがそもそもの思い違いであったかだ」
「思い違い、って?」
「……そういえば、祭りがあるんだったな」
話題を跳ばさないでください。
非難がましい視線を見もしないのに悟ったのか、月城は溜め息を吐きます。
「何故に俺様が人の痴情でアレコレ考えねばならんのか。やっとられんわ」
『マスター……』
随分と薄情な台詞ですが、結局放っておけなさそうな声音でした。平坦なのにどこか沈痛な九十九さんの声も、それを助長させます。
「……花火という催しがあるのは、一つしかないな」
『仰る通り』
なんで直ぐに思い至るのかとツッコミたかったのですが、だって月城だしという経験が常識的な意見をすり潰します。
「あの様子だと、あいつらもなんやかんやで来るだろうしな、丁度良い。俺様も出向くとしよう」
「へ? 祭りに、ですか?」
お祭りと月城。なんだか不可思議な組み合わせです。想像するのが難しいところ。
「ああ。無論、貴様もだぞ」
不可思議な部屋のつるてかな壁にぼんやりと向けられていたおめめが、ようやく私に向けられました。
相変わらず、どんな宝石より綺麗ですと高らかに断言できる愛です。間違えました、瞳です。
「それは大歓迎にも程がありますけど」
「溢れるような笑顔で微妙に澄ました風を装ってもな」
「私、お小遣いがありません」
『あの、貴方貴族ですよね。色々な意味で』
既に今月のお小遣いは底を突き抜けています。更に遺憾ながらお兄さんを怒らせている以上、当面のお小遣いは全くアテにできません。土下座して謝ってもいつものことなので、いつものように頭を踏みにじられておしまい。八方塞がりです。
お祭りの醍醐味くらいは知っています。食べ歩き。
普通の貴族としては、祭りに出向くなどあるまじきことらしいのですが、お父さんに事ある毎そういった現場に連れて行かれては兄共々放置されていたので、大体は把握しています。
しかし私のような文無しでは、お団子の串あたりをくわえて催しものを眺めるくらいしかありません。
「安心しろ。小遣いくらいは貸してやる。トイチで」
『……マスター?』
「いいんですか月城?!」
期待と戸惑いで頬が緩む中、月城は月城で存外に優しく微笑んでいました。その手元がカタカタと動き、九十九さんに関係していると思わしい窓口が消えたのが意味不明ですが気になりませんでした。
月城の微笑み。それだけで問答無用の幸せが到来する脳内。思考がまとまりません。
「ああ。下僕の私腹を肥やしてやるのも、たまには有りだ。だが、ちゃんと全額返せよ?」
「ーはいっ! ありがとう月城!」
もつべきは寛大な主……もとい、優しい友達です。
貴女の友愛に応え、必ずや返金してみせます。
――ところで、トイチってなんなんでしょう?
キャリーさんとの打ち合わせや情報交換等を終え、舞ちゃんの幼なじみ二人とのまた会おうねイベントも済まし、若干涙ぐんでいつまでも腕を振っていた舞ちゃんを引き連れ。
着た道を遡り、タマちゃんが降り立ち易い地点に向かう道中。
「いい子たちだったね、二人とも」
はい。嬉しそうな、かわいらしい返事が、私の背中越しに聞こえました。
草や枝、たまに立ちふさがる蛇など、鉈を振るう頻度は行きよりは減ってるけれど、長期行動には向かない私には、やはりなかなかの重労働。
でも可愛い子ちゃんの安全のためにと奮闘し、ちょこちょこと続く舞ちゃんに時折振り向きつつ、多少なりと努めた笑顔を継続させる。
時間は黄昏、夕暮れ時。和気あいあいと話し込み、舞ちゃん作のおいしいご飯まで一緒して、少しばかり遅れてしまった安い代償。とはいえ、夜の森は危険。私は兎も角、舞ちゃんが。
背の高い木々が密集しているなか、零れる灯りは仄かな茜色。
多少急ぐ必要がある。
「二人とも、」
「はい?」
唐突に何かを口にしようとする舞ちゃん。一際大きな毒蜘蛛を叩き落としつつ、耳を傾ける。
「色々変わってたけど、多分、変わってませんでした」
それは額面通りに取れば矛盾でしかない言葉。
でも、私はまちがえないよ。舞ちゃん。
「宗介ちゃんも昂ちゃんも。舞ちゃんのことが好きみたいだからね」
努めずとも緩む頬を抑えられず、ちらと視点をずらす。
茜色に照らされているわけでもないのに、頬を朱に染め俯き、うっすらとはにかむ舞ちゃんを視。
一つのありふれた単語が、頭の中を支配した。
「……つ、司さんって、平気で恥ずかしいこと言うよね」
「うふふー、よくそう言われるけど、別に平気ってわけじゃないんだ。すすんで口にしてるのー」
「すすんっ、余計タチ悪いよそれ?!」
だって、恥ずかしがったり照れたりの反応が、とーっても可愛いんだもの。
あえて口には出さず視線に込めると、ツッコミの姿勢はそのままに、何故か身震いする舞ちゃん。
風邪かな?
病気はいけない。
苦し気に寝込んでいたり、涙を流したりする可愛い子ちゃんの姿は、それはそれで可愛いのだろうけど、前提として可愛い子ちゃんが苦しむのはいただけない。断固として。
やっぱり、うれしかったり楽しかったり幸せだったりで、自然に出る笑顔が可愛い。一番可愛い。
「風邪はいけないよー、大丈夫?」
「……いや、なんていうか」
何故か引きつった表情で、舞ちゃんが何かを言い難そうにしていた、その時。
――大気が、小さく揺れた。
錬金術師としての"眼"が、視界に映る世界の変容――いや、前兆を見通す。
呼応するように、鳥達が悲鳴じみた声を挙げながら一斉に飛び立ち、虫の声がかき消える。
舞ちゃんが小さく動揺したように視界を巡らせ――世界が、揺れた。
「えっ、きゃ、ひぃゃぁああー!?」
揺れる揺れる揺れる、暁に照らされた木々が、無数の樹葉が大地が、軋みながら地響き唸り――地震が続く。
舞ちゃんはへたり込みながら私にすがり、遠くで老朽化かなにかかで木が倒壊する音が聞こえて、余計に震える。
やや歩き難い程度の地震は十秒ほど続き、やがて止んだ。
「……大丈夫、舞ちゃん?」
舞ちゃんは、地響きが止んでも私の太ももあたりにしがみついたまま、えぐえぐと可愛らしく泣いて、脅えていた。
正直少し意外ではあった。可愛く華奢な外見によらず、意外な程に肝が座っている舞ちゃんが、このくらいの地震でこうなるなんて。
地震なんて、そう珍しいものでもないのに。
「……うー、地震はきらいだーっ」
うめきながらよろめきながら、私の手を借りて立ち上がる舞ちゃん。何か、地震に関して嫌な思い出でもあるのだろうか。
「今のは、震度三位かな。木も倒れたみたいだし、ひょっとしたらどこかで遺跡が顔を出しているかも」
「遺跡?」
興味を引く単語だったのか、ちょっとした狙い通り、舞ちゃんはくりくりした瞳に好奇心を滲ませた。相変わらず泣き止むのが早い。可愛いなあ。
「そう、遺跡っていうのは大体、地形が変動する事で地中や岩盤等から姿を表すから」
「遺跡。なんかさっき合った人も言ってた」
縁があるなあ、と腕を振る舞ちゃん。
……んん?
"さっき"?
「さっきって?」
こんな辺鄙な所で、"さっき"人に、第三者に遭った? 私とキャリーさんが密談している時か?
舞ちゃんたちには聞かせ難い内容だったから、念の為防音対策して話してたから……失敗した。これじゃ私でも気づき難い。一応"人払い"は張ってたのに。
「へ? え、あれ?」
思考を外面に出してはいない。しかし舞ちゃんは狼狽している。
まるで、自分で何を言ったか分からないように。
「あれ、なんで? 人と遭ったこと、今まで?」
忘れていた?
いや、これは、違う。
直感と経験に従い、舞ちゃんに胸の内ポケットの中身を見せてと、指示する。お願いではない上目線が効いたのか目を丸めていたけど、直ぐにエプロンを捲りボタンを――舞ちゃん。せめて後ろを向くくらいしようね。
しかし事態は急を要するため、注意は後で。
内ポケットの位置は把握していても取り難いのか、しばしもぞもぞ。
やがて、ちっちゃな手のひらに乗せられ提出されたのは、薄紫色のお守り。
「これがどうし……あれ?」
不思議そうに首を傾げていた舞ちゃんが、異変に気付いた。
この、月城家メイド服を着用している以上、このお守りの存在は知っているだろう。前もって見て、どんなのかを確認していたはず。しかし、
「糸が切れちゃってる」
一目でそれと分かる場所に有った、細く綺麗な長い黒糸。
それは、厳密に云えば糸ではない。
それは、精神攻撃を防ぐ作用を持つ、燐音様の髪の毛だ。
それが、ズタズタに引き千切れていた。さっきまで、無傷のエプロンドレスに有ったお守りがそうなった理由。一つしかない。
舞ちゃんは、精神攻撃を受けた。
恐らく、部分的に記憶を忘れさせるという概要の。
「誰?」
「え?」
笑顔は消している。
いくらなんでも尋常でないとわかる場面で継続させていると、逆に怖がらせてしまう。それはダメ。
だから、真顔で真っ直ぐに、有無を言わさず訊いた。
「舞ちゃんは、誰と遭ったの?」
「……かっ、片腕がないシスターみたいな格好した女の人と、片眼鏡かけて白衣着た男の人」
卒倒するかと思った。
少なくとも、余りの心当たりに息が詰まった。
なにがなにやらわかってないだろう舞ちゃんが不安そうに私を見上げているのに気づき、何とか立て直す。
「ひょっとして、女の人は顔を隠していて、男の人は燐音さまをくん付けしていたり?」
「してました……って、知り合い?!」
言い難い事だけど、元・同僚だね。
舞ちゃんの視線から逃れるように視点を上げ、今はもう揺れが収まった森の隙間から覗く暁の具合を眺める。
夜は近い。