幕間
――只の一撃も入れる事が出来なかった。
男、明らかに年上だろう所作の、小綺麗ながらどこか擦れた感じのある、白髪の男、が。
主から――燐音様から、俺を叩きのめすよう言われたと聞いて、一瞬何を言われたか解らなかった。
素人に毛が生えた程度の動き、洗練とは程遠い、無駄の多い身のこなし。単純な力でも速さでも鋭さでも、何一つとして俺が負けている箇所は無かった。
強さは、確実に俺の方が上。
その上で、お互いに利き腕を封印した模擬戦闘。
なのに――なのに何故、俺は一撃も入れる事なく、意識を手放していた?
『おいおい、』
明滅し、暗転しかけた視界の中。
『それだけかよ』
聞き取れた、吐き捨てるような言葉が、ひどく頭の内側にこびり付いていた。
「――何時までそうやっているつもりです」
――ここは、月城家の一室。
ちょっとした公園ほどの面積をもち、正四角形に限りなく近い床一面が畳張りの、厳粛な雰囲気漂う訓練所。
日々の鍛錬をこなそうと入室した、その端。
慇懃無礼な声と共に、情けも容赦もナノ単位とて存在しえない膝蹴りが、三角座りでうなだれていた雨衣のコメカミあたりを射抜く、という場面に出くわしてしまった。
――って、えええええ!?
「ちょ、何してんでスかメイド長?!」
「視界の隅に亡霊の如き陰気が映るのは、とても気が散ります」
急いで詰め寄るも、表情の無い表情を変えることなく語るメイド長に、一瞬あー確かにちょっとそんな感じだったような。ここ数日、舞があたしの部屋と同室になってから――とうっかり納得しかけた、いやいやいやと踏み止まり。
「だっ、だからって、」
「少し黙ってなさい、シェリー」
一瞥され、云われた通りに沈黙。せざるおえない眼力だった。
ごめん雨衣。無理。
「何時までもそうやっていて、なんですかその様は。そんなにあの男に負けたのがショックですか。それともそれ以前のミスですか」
何も言えなくなったあたしをよそに、数日前の古傷を抉り塩を塗るような物言いをしつつ、なにやら懐をごそごそ探るメイド長。
「そんなにショックだというならば、とりあえず腹でもかっさばいておきなさい」
と、刃渡り五十センチ程の反りの小さい短刀を雨衣の方に放り――ってええええええぇ!?
「ちょ、メイド長何言ってんの?! ってか雨衣ものろのろと無言で短刀に手ぇ伸ばすなあああ!!」
眼前で発生しそうな流血沙汰を流石に看過できず全力でツッコミ、返す刀で半死人のような手つきで伸ばされた雨衣の手をはねのけ、転がりながらメイド長の短刀を取り上げた。
「……ち」
……ちょっとメイド長。今なにか、忌々し気に舌打ちしませんでしたか? 冗談ですよね流石に冗談ですよね? マジでヘコんでる年端もない部下にマジで腹切れとか言ってませんよね?
「いえ、私としてもあの虚弱体質の糞野郎に手も足も出なかった無能の気持ちを察してですね」
「……虚弱、体質?」
目を逸らしつつ、罵詈雑言の方がまだマシな出来損ないの弁明らしき事を語るメイド長。
そこから発覚した――雨衣を叩きのめした相手が燐音さまと同じ虚弱体質であるという――事実に、負の念を強める雨衣。
「めーいーどー長ー!」
何でそんな死人に鞭打つようなことばかりを! 煽ることしかできないんだアナタは!
頭の中沸騰してテンパりながらも、口に出したら物理的に二度と口がきけなくなりそうな台詞は凡人の本能やらで判別できているみたく、胸中だけで強気に断言。あんまり意味はない。
そんなあたしの声なき罵りもどこ吹く風、馬耳念仏。メイド長は、あたしより頭一つ分以上上に位置する鼻を鳴らし。
「負け犬に、下手な慰めは不要。違いますか?」
辛辣な言葉。
丸くなった雨衣の体が、一瞬だけ震えた。
「――何故負けた、」
それは、糾弾するようなそれというよりは……
言葉を発しない雨衣の心境を代弁をするように、
「何故使えない、何故失敗した、何故、何故、何故何故何故何故……」
抑揚の無い台詞を並べる。
それはまさしく、単純な単語の羅列。
今の雨衣の心境を表しているような、自責の羅列。
「過剰な自問、無意味な自責をする暇があるならば、背筋を伸ばしなすべき事をなさい。鬱陶しい」
あ、最後に本音が混じった。珍しく、まっとうに良いこと言ってたのに。
最後の一言が余計だったためか、それとも関係なしに根が深いものだったからか、それでも雨衣は顔すら上げない。
「――いつもいつも、」
――そこまでが、何かの境界線だったみたいに。
「燐音様や樹が諭してくれるとは限らない」
――甘えるな。
刺々しかった空気に、異様な重さが交じる。
まるで硝煙入り混じる戦場のような、吐き気がする肌触りを感じ、身動きができない。呼吸することすらはばかられる。異様な空気。
そのまま、間合いを計るような沈黙が過ぎ。時間だけが流れる。
そしてそのまま、雨衣は結局頭を上げることなく。
静寂は、メイド長自身の諦めたような舌打ちのような溜め息によって破られた。
「……シェリー」
「…………え、あっはい!」
数秒、名前を呼ばれたと気付くことができず、反応が遅れた。
それに不機嫌になるでもなく、いや元々燐音さま関係以外には感情の薄い人だけど、いつもよりどこか冷淡に、冷たい目で雨衣を指す。
「この負け犬をどこえなりと連れて往きなさい。同じ空間に居るだけで不快です」
吐き捨てる言葉に、あたしが何か反論を思いつくすより早く。
「私だけでなく、他の者にも邪魔です。反論は、赦しません」
冷たいけれど理をとらえた言葉に、あたしは口をつきかけた言葉を失った。
「――ふう」
ちょっとした本くらい厚みがある、纏まった資料をシンプルな執務机の上に置き、疲れたように息を吐くのはこの屋敷の主、私の主人、月城 燐音様。
ものの一分ほどで記憶した最新情報を整理するかのように閉じられていた瞼が、情報を仕入れる時間の六十分の一程で開けられる。
夜色の目は、疲労と不機嫌が入り混じっていた。
「……よりにもよって」
重い苦渋を吐きながら、こめかみをつつく。
私がまとめた資料には、行方不明であった黒坂 樹の消息。そしてそれ以外の要捜索者の捜査継続に関しての記述が綴られている。
燐音さまの苦渋は、おそらく皇国近辺で発見されたという黒坂 樹へのものだろうと当たりをつける。間違ってはいないだろう。
停戦中の、長年にわたる敵国の領土、それも首都近辺を彷徨っている、滞在許可どころか通行許可もない帝国の国守貴族配下。率直にいって国際問題になりうる案件だ。
「まあ、奴はそう簡単に捕まるタマでもない、が……」
一人ごちりながら、執務机の上に両肘をつけ、両手で口元を隠し、思案する構え。
仰る通り、捕縛さえされなければ、素性を暴かれる危険性は少ない。
「……密偵を動かすにも限度がある。なら、アルカを頼る他無い、か」
対応策を呟きながら、ここではないどこかに向けられていた、美しい漆黒が――私に向けられた。
どうということはない、睨んでいるのでも凄んでいるのでも泣いているわけでも、何らかの負の感情があるわけでもない、只の視線。ただし親しい者には決して向ける事がないだろう、此方側の目。
それだけで一瞬、肩が震えた。
しがない諜報員でしかない私が、この小さな主と相対することは、極めて稀。
だからか、何でもない事で一々ビクついてしまう。
――否。
延々と痙攣する後ろに組んだ利き手がそう主張する。本当は、圧倒されているだけだ。
生物が本能的に闇を畏れるように。蛇に睨まれた蛙が微動だにできないように。暗殺者がメイド長を前にしたように。
私は――
「では、貴様は反貴族組織"明けの鳥"に潜伏中の諜報員と合流。指示を仰ぎ、害虫駆除の補助と根回しをするように」
燐音様が語る害虫とは、当然ながら字の通り虫ではなく、また一般的な貴族が云うところの反貴族組織の人員でもない。
――ここで言われた害虫とは、権力に胡座をかき、弱者から利益を貪り国の腐敗を促進させる、老害。
つまり要約すれば――利用価値のある反貴族組織と繋がり、貴族の暗殺を補助しろ、ということ。
「了解」
鷹揚な態度で命じられた密命に、自然と背を伝う冷たい汗の感触を無視しつつ、最敬礼を返す。
何も初めての命令ではない。
そう、それは正しく、これが初めての貴族暗殺の任ではない。
以前は奴隷の違法取引をしていた貴族。つい最近でも平民を集団拉致し、悪趣味なコミュニティーを形成していた貴族を。どれも反貴族組織を、内外から利用して。
だから、戸惑いは無い。
――しかし、
「ん。では、往け」
私の心情を察するように視線を資料に落とす主に一礼し、御意を返して退室。
主との間にしかれた境界線のような扉を背に、握っていた掌の汗を拭う。
ツカツカと汚れのない白系統の廊下を鳴らしながら、未だ小刻みに震える利き手を押さえつつ、嘆息。
――私は、あの方が、恐ろしい。
姿ではなく、権力でもなく、知謀でもなく――ただ単純に原始的に、得体のしれない何かを、理由もなく畏れるように。ただただ私は――明確な理由もなく、あの方が、燐音様が、恐ろしい。
――諜報員としてはどうかと思う一念を振り払おうと努めながら、廊下を往く脚を心なし強めた。