逃げるということ
「……ほら、雨衣。飲みなっての」
甲斐甲斐しく、木製のスプーンでスープを掬い、利き腕が"無い"雨衣ちゃんに差し出すのは、シェリーちゃん。
「……要らん。スプーンを寄越せ、それくらいできる」
それに頑固お爺さんチックな反応を返すのは、仏頂面……というにも何か暗すぎる気がする、雨衣ちゃん。
「……なにさ、人がせっかく――」
「いいから寄越せ……要らん世話だ」
「……っ! 悪かったな……!」
振り払う雨衣ちゃん。スプーンを投げ渡し、険悪にそっぽを向くシェリーちゃん。
雨衣ちゃんは、シェリーちゃんに取り合わず、利き腕じゃないだけに覚束ない手つきでスープを運び……
…………あぅう、空気が重いよぅ……
お昼時、月城家お抱えの従者食堂で、お食事テーブルの一角を暗く重く染める二人を眺めながら、美味しいはずなのに味を感じない天ぷら蕎麦をすすりつつ、嘆く。
嗚呼、何故、どうして可愛い子ちゃん同士が諍い合わねばならないというの……?
「黙れ」
「司さん五月蝿い」
……声に出てしまっていたようです。
同席している沈んだ二人のほろ暗い瞳で睨まれ……嗚呼、私はどうしたら……
あの日、泉水家での一件以来、消し炭にされた右義腕は未だ修理、というか新調の目処がたたない上、なだめ役であり師匠である樹くんはどういういったわけか行方不明。
そんなこんなで日頃からあまり口数の少ない雨衣ちゃんは、さらにさらに沈んでばかりでした。
暗い空気で近寄り難く、よしんば脇に入ったとしても、仲の良いシェリーちゃんですら、さっきみたくけんもほろろに突っぱねられ、どう処方したものかと首をひねるばかりです。
燐音様ならば、色んな意味でなんとかできるやもしれませんが、何やら雨衣ちゃん以上に尋常ではなく様子がおかしい上、泉水家での戦闘に加え連日の手回しや他貴族への脅迫、物理的精神的処分など。さらには反貴族組織の調整など、逆にこちらが気遣うべき働き詰め。
せめて、寝室に引きずられていった鈴葉ちゃんが何らかのアロマテラピーになってくれていればそんなことを祈る今日この頃。
憂鬱は伝染病の一種だったのでしょうか。錬金術をかじっただけの私にはわかりません。
「「…………」」
無言かつ不機嫌に、淡々と食事を続ける二人を眺め、つられるようなため息をひとつ。
――嗚呼、やっぱり空気が重たいです。
悪い事はしていないのに誤魔化すように、視線をあちこちにやっていた、最中。
……ん?
あれ、今……通路を走って行ったのは…………舞ちゃん?
丁度、同じタイミングで視線をさまよわせていたらしいシェリーちゃんは、辺境風茸パスタを絡めるフォークを中途半端に止め、目を丸めて舞ちゃんと思わしい影が通った通路を見ていました。
「……舞、え? ……泣いて、た?」
――泣いてた?
どうにも私より早く見ていたらしい狼狽えたシェリーちゃんの声と同時に、固定はされてない椅子から立ち上がります。まばらな食堂全方位の視線が集中しますが、構いません。舞ちゃんが、泣いていた……ならば、
「つ、司さん?」
「……ぃ子ちゃんが…………」
私のつぶやきを聞き取れなかったか、声をかけてきたシェリーちゃんが、可愛いらしく首を傾げました。
「――可愛い子ちゃんが、泣いているかもしれないのです!!」
魂の絶叫。
そうならば、可能性があるならば、なんとかしなきゃあいけないのです!
可愛い子ちゃんが泣くなんて、涙を流すなんて……それはそれでなんかちょっとイイ感じがするけど! 断じて、断固としてダメです!! 可愛い子ちゃんが悲しむなんてダメダメです!!
「おい同僚。念の為言っておくが、全て声に出てるぞ」
そんな事はさっきからみんなに視線と体制でドン引きされてる時点で承知の上ですよぅ、雨衣ちゃん。可愛い子ちゃんたちの、なんかそういう、イタイ人を見るような視線はなかなかに堪えますが、今はそれどころではないのですっ!!
食が進まないだけに半分以上は残した天ぷら蕎麦に木彫りの箸を置き、ダッシュで食堂の出入口から舞ちゃんを追おうとして――
「――ちょ、司さん止めなって、まだ!」
「馬鹿っ、早まるな同僚!」
同席していた二人が、先の空気など忘れたように慌てた声で私を止めたのと、殆ど同時。
扉の無い出入口に足を踏み入れた私の眼前に――
「――ドコに往く?」
白い割烹着姿の、そばかすと栗色三つ編みと私以上の低身長がチャームポイントの可愛い子ちゃんが、一瞬前までキッチン方面に居た筈の月城家お抱えの料理長が、可愛い童顔を静流さんのようにして――手に握った、かつて静流さんを沈めたこともあるお玉を、フックとアッパーの中間の体制に構え――
「――へぶらっ!」
私の顔面を、打ち抜きました。
――飛んで転がり跳ねて転がり転がり、対面の壁に激突し、痛すぎで逆にはっきりした意識の外、自然と出る苦悶以外静まり返る食堂の中、食堂の支配者の声が朗々と響きます。
「……ワタシの料理を残すんじゃないよ?」
――かつて、鶏肉を残したメイド長、静流さんを不意打ちながらも仕留めた伝説と確固たるポリシーを持つ料理長の御言葉に、意見を口にする人は、誰もいませんでした。
「……っく、ひっぅ…………ぅくっ」
――止まらない止まらない、涙が嗚咽が情けなさが、溢れ出て止まらない。
リッちゃんから――どれだけ走ったか、どれだけ逃げたか。人気のない、中庭のような場所の影で、あたしはうずくまって泣いていた。
情けなくて惨めで、自分が許せなくて、それ以上にいろんなコトがわからなくなってぐちゃぐちゃして頭痛くてぐるぐるして、痛くて痛くてイヤだった。
泣き叫んで逃げても、いやだからこそ余計に、あたしはあたしが――
「――おやぁ……?」
不思議と耳に残る響き。独特のトーン。そんな誰かの声がして、反射的に顔をあげた。
――中性的な、顔と曖昧な雰囲気。男なのに女の人以上に女らしい司さんとは違って、本当に中性的。華奢でキレイな男の人にも、スレンダーでかわいいな女の人にも見える。悲しみとも優しさとも憐れみとも嘲りともとれる曖昧な微笑みと、透明な眼差しをたたえる。そんな、曖昧な人が、あたしの前に当たり前のように、けれどなんとなく不自然に佇んでいた。
あたしの、知っている人。
「相変わらず、君に泣き顔は似合わないねぇ、マイ」
「…………先生?」
先生。
勉強を教養を生存方法を教えてくれた孤児院の先生とは違う。
あたしに、二つのコトを教えてくれた先生。
「やあやぁ久しぶりだねぇ。それより、数年ぶりの再会だというに、何故に泣いているのかな?」
「…………え、えぅ……なー、なん、で、ここに」
「野暮用でね。いやいや偶然偶然」
独特におどけた喋り方の懐かしさに、鼻の奥がまたツンとなる。そして溢れきた、というかさっきから一向に止まらない涙と鼻水を指摘され、慌てて袖で拭い――ってメイド服借り物だったあ!?
違う意味で慌てふためくあたしに、くっくっ、と口に手をあててどこか艶やかに笑う先生。
「君は、相変わらずそういうのが似合うねぇ」
……む。なにそれ。
ジト目で睨むと、おどけたようなジェスチャー。
「泣いてたり慌てたり怒ったり、喜怒哀楽がはっきりしてコロコロとかわる、相変わらず君は君なようだ」
ちなみに、中性的で性別もわからないのに何度聞いても教えてくれない先生は、同時に年齢も教えてくれない。だから、年下年上どちらとも見れるこの"先生らしい"口調が相応なのかそうでないのか、相変わらず解らない。
「君の持つ、幼稚や短慮といえるそれは得難い長所であり、同時に短所でもある……それが原因、かなカナ?」
原因?
「なんで泣いてたか、って話さ。大方、何か感情的になって失敗して、そんで逃げ出してさらにへこんでって具合だったり――あー、やっぱり正解?」
先生は、中性的に整った容姿とは不釣り合いににまにましたイヤらしい笑顔で、言葉を失ったあたしの目を観察するように視る。
「相変わらずにわかり易いなー。かわいいぞこのやろー」
あたしより僅かに低い身長をかがめて、うずくまるあたしの髪をぐしゃぐしゃと掻き回す先生。
しかしそれでも、そんな懐かしい仕草でも、頭から引いた血の気が、雨風にさらされたように小刻みに震える体が、元通りになる事は、無い。
「――そんなマイちゃんに、先生からのマル秘アドヴァイスでぇす」
キレイな黒い瞳を片方だけ閉じ、人差し指をたて。先生は気軽な様子で、あの時みたいに――
「――逃げて自嘲るな誇るな。進むも逃げるも、結局のところ同じ。脚を動かしているのだから、動いているのだから。そこにどんな差異がある?」
一転して謡うように、真面目とも嘲りともとれない不思議な声で、先生は、続ける。
「誇りの保身のため、進むべき時があるように。命を守るために逃げるべき時がある……人間は、前だけ見て真っ直ぐ進めるようにできてはいないのだから、ね」
「…………に、逃げの哲学」
あれこれと逃げる言い訳というか正当化というか……扱い過ぎなければ、場合によっては間違った手段では無い、と。なんかそれっぽく先生がよく語っていた長ったらしいお話し。
「をっ、流石に覚えてるかー、あははっ」
かんらかんらあっけらかんと、まるで変わってない笑みを浮かべる。あの日、リッちゃんと入れ代わるように出会った、"逃げるというコト"を教えてくれた、先生。
「ま、覚えてるならいいんだ。君は良い脚を持っているからね。時々反芻しなさい、君はどうせちょくちょく忘れるんだから」
「はあ」
まあ確かに、あなたから手ほどきを受けた逃げ足には自信があるけど。あれ、てか今、馬鹿にされたような……いや、物覚えは悪いんだけどさ。
というかなんで今、そんな話、を――と……気付く。
試すような、覗き見るような眼差しに、その中身に、気付く。
――逃げることは、悪いことではない。
先生が教えてくれたこと。
逃げるということは、進むことや立ち向かうということと同じか、或いはそれ以上に、人間として飾らない、素直なこと。
生存本能、精神保全、単純に嫌なことからの逃避、暴力や悪意、傷を痛みを避ける本能、根源的な死の恐怖。
――ヒトは、ありとあらゆるものから逃げている。
視点をかえて見れば逃げ続けているから、いや人間に限った話ではなく、生物全ては、逃げ続けているからこそ生き延びられている。
人間は、特にそれが上手い。それと同じくらいに愚かだけど。
先生は言った。そう言った。
逃げ。
それ自体は、進むコトと同じように、悪いコトではないと。悪いなどと言い出したら、憎しみなんかと一緒で、キリが無いと。だから適当に悩んでいじけて傷ついて、切り上げろ。
問題なのは、逃げた先、逃げだした、今。
――大事なのは――逃げた後、逃げたものに……
「君が、結局のところどうしたいか、だよ。多分ね」
――あたしが、あたしが、泉水 舞が、どうするか、どうしないか、どう、したいか…………――
「案外、いじけてただけで解ってたんじゃないかなっカナ?」
目を閉じると、明滅する、いくつもの顔。怒り顔に笑い顔に悲しい顔に楽しい顔。
「君はアレだ、単純バカでお子様だけれど、それだけに聡いところがあるからね」
「……はい!」
「元気よく肯定した?!」
立ち上がり、両手を上にあげて屈伸。中庭のような緑と白が囲う中、見上げる先は透き通るような青空。
涙は、既に拭う必要は無い。やることが決まった以上、うずくまって泣く必要も暇も無い。
「それでこそ単純単細胞の馬鹿野郎だ」
なんだろう、そこはかとなく罵倒されたような気がする。ま、気のせいだよね。気にしたら負け。
「――あたし、リッちゃんに謝って、ちゃんと話てきます!」
「うん、往っといで。あ、でも私の事は喋っちゃいけないよ」
……? 喋っちゃいけない?
相変わらず秘密主義なコトを。性別も年齢も素性も名前すら教えてくれないし、気さくに接してはくれるけど、自分の事は内緒にしておけというし。
何なんだろうか、一体。
「ほら、往った往った。やるべきことがあるんでしょー?」
おどけた様子で笑い、片手をひらひらさせながらさっさと行けと促す先生。
……うーん、ま、良いけど。悪い人じゃあないし。うん。
「じゃあ、ありがとうございましたっ! 先生!」
「はいよー」
一礼の返事を聞きながら背を向け、再び走り出し――と、ふと思いつき、振り返る。
「また、会えますよね?!」
あたしの声に、先生は少しだけ笑みの質を悪戯っ子風に変える。
「うん、まあ近い内にまた遭えるよ……確実に、ね」
「え?」
最後の部分が聞き取れず、聞き返すと、先生は片手を振り、
「――じゃ、またねー」
――そして、姿を消した。
消えた、としか思えない速さで、視界から消えた。
あたしに、逃げと、逃げ脚の二つを教えてくれた先生。
まるで存在してなかったように、夢か幻のように。数年前、最後に姿を見た時のように……消えた。
でも、先生は言った。また会えると。だから、それはいい。大丈夫。
今は、それより。
前を向く。
そして、あたしはまた、走り始める。
――逃げることと進むことは、ある意味では同じ。
逃げ続けることも、進み続けることも、根っこの部分は、ね。
所詮総ては、ヒトの向かう、踏み出し、ススミ往き、或いは外れていく先のお話。
――マイ、君はその脚で、ドコまで往くのかな?
「――アンタか」
浸っているところに掛かった独特なイントネーションのハスキーな声に、視界を向ける。
立っていたのは、ヒドく対称的な二人。
色黒と色白、長身の少女と華奢な少年。能力者と、異能力者。
うん、マイフレンドの紹介通りの、険悪な雰囲気の少年少女だ。
「てめェが春香ってエの、だな?」
白濁した、存在自体が有害な少年に頷きと、嘲笑を返す。
「ようこそいらっしゃいませ、雪深 冬夜、そしてメグリ。あ、なんか一緒くたに並べるとメグリが人の名前に聞こえないねー」
「……どうでもエェわ。それより、」
昏い表情の少女に、少女の親友であるマイにしたように手を振り、わかってるわかってると相槌を返し――改めて、二人を"視る"。
白い少年は濁った笑いを返し、褐色の少女は表情をより険しく染める。
ああ、微笑ましいなー、っと。
「――さぁ、どんなチカラがお目当て、かな?」