兎と月
月城家の、広いというより広大なお屋敷に再び通され、もう大丈夫だよと取り繕っても話を聞かないシーちゃんが、問答無用であれこれ世話をしてくれて。
なんやかんやで、あたしがリッちゃんと対面できたのは、その翌日。激しい雨がすっきりと晴れた、洗濯物がよく乾きそうな雲ひとつない天気の日だった。
おっかないメイド長さんに通されたリッちゃんの部屋、小さめなベッドの上……どういうわけか抱き枕呼ばわりされているスズハちゃんを自分の膝に乗せ、両手で抱きしめながら真面目な顔をしているリッちゃんと対話していた。因みに、物凄い不機嫌そうに案内してくださったメイド長さんは、リッちゃんとの問答の後、退室。
実質、ふたりきりの対話を交わして――一番聞きたい冥の容態はぼかされ――十数分くらいのところ。
「――待て、それを俺様が言ったのか……?」
「え、うん……確か――『ミカナを殺したから、メグリはわたしを殺したいんだ』とかそんな感じで」
違うかな……でもあんな緊迫した場面だったんだから、あんまり忘れてないハズ。
言葉の意味は未だにわからないけど、あの時。
それで何かが触れたように……メッちゃんは、絶叫して……
「……で、どういう意味なの、その、殺した……とか」
不安。
殺したと口にしたリッちゃん。
復讐を口にしておかしくなったメッちゃん。
リッちゃんの言葉の意味はわからない。ミカナというのは、あたしとお義父さんとメッちゃんとでつけた、仮の家名。
なんであたしたちでつけた偽名が、リッちゃんの口から鍵のように出てきたのか、わからないけど……何かある。それくらいは、わかる。殺した、と……復讐。繋がりがわからないほどバカじゃない。
だから、不安を押し殺して訊いた。
「…………」
問われたリッちゃんは、顎の辺りに細い手をあて、可愛い綺麗な顔を険しく染め、考えるような沈黙。
「……解らん」
やがて返ってきたのは、一見して誤魔化しともとれる単語。
解らん。わからないという男口調。
なんでわからないの。言った本人が、なんで……
「本当に解らんのだ。というか、そんな発言をした覚えすら無い」
「なっ?!」
なにそれ?! あたしの聞き違いと言いたいのかっ!?
「あたしはきちんと訊いたよ!」
「分かっている。貴様が嘘を吐く理由は無い」
簡素ながら高そうな椅子から立ち上がり、肩を怒らせるあたしに、リッちゃんは険しい顔のまま肩をすくめ、堂々と続ける。
「それにだ、何か俺様の記憶では、その辺りが靄で覆われたようにあやふやなのだ。何らかの精神攻撃の類か――いや、俺様の精神防壁を考慮しないにしても、そんな気配も無かった。秤連中も居るし――いや無い、か?」
ごめん、なにかそんな、考え事を口にするような説明に意味わからない単語の羅列の組み合わせは本当にわけ解らないよ。煙にまこうとしてる風じゃないのは分かったから、ね、落ち着いて?
――何か、なんとなく。
再会して間もない訳だけど……あたしの見る目までおかしくなってなければ、リッちゃんの様子もおかしい。気がする。
あたしの呼びかけに今気付いたような仕草で首を揺らす険しい表情のリッちゃんを見て、その直感を益々(ますます)強める。
「……あのさ、あたしがいうのもなんなんだけど……大丈夫?」
「……本当に貴様に云われるとはな…………ったく」
ふてくされたように目を細めるリッちゃん。時の流れと環境の産物に、最近とは違う意味で、少し鬱になるあたしだった。
「――ま、まとめるとだ。俺様が貴様の言った風な事を言った覚えは無い」
ここまでは良いか? と視線で訴えるリッちゃんに頷きを返す。
信じられないような話だけど、信じられないことばかり立て続けに起こっているから、その程度の不思議は納得できずともなんとない容認はできる。できてしまう。
「記憶の混乱に関する原因は置いて進める」
いや、置いて良いのかな? 記憶がって、割と尋常じゃなくエラいことなんじゃあ……というツッコミを思い描いている隙間に、リッちゃんのよく耳に通る声音で、話は進む。
「奴は、復讐を口にした。それは何らかの怨み、憎しみが有ろうコトだろうが、怨みを買うような覚えは、在りすぎて判別ができない」
「…………怨、って。今まで何してきたのかなリッちゃんは?」
「そこで、完全記憶能力者たるこの俺様が記憶していないという謎の台詞だ。これがヒントになるやもしれん」
眉をしかめて口にしたツッコミはあまりに自然かつ簡単にスルーされ、頭がこんがらがるようなお話は継続される。
「ところで、奴の偽の家名だが、どうやって名付けられた?」
「え? どゆこと?」
なんで、そんなお話になるの?
首を傾げるも、リッちゃんは気の抜けた捕食者のような眼差しで、つぶらな唇を開く。
「貴様が呼ぶあだ名からしてメグリが奴の本名として、家名のミカナとは――誰が発案した名だ?」
……え?
そりゃ、身内みんなで輪になってさんざ相談してグダグダになって……んで結局、メッちゃんがもぉええわって、んでそのまま……
「――発案したのは、メグリ当人ではないのか?」
――っ!?
言い当てられ、目を見開き、息を呑んで驚く。
そんなあたしの反応に、満足したような悲しいような、不思議な輝きを黒い瞳に宿すリッちゃん。
「ならば…………くっく、ミカナというのは、奴の一族、ベーオウォルフの、それも奴と相当に親しい誰かの名前なのであろうな」
笑い……というより強がりの自嘲に近い表情、だと思う。
「ならば、いやそうでなくとも奴が……[月城]を怨むのは、正当な憎悪と云える……ソレだけに…………歪むかよ……」
「……どういうこと?」
さして強くもないのに、酷くツラいと感性が訴えるため息を吐くリッちゃん。そして、腕に抱くスズハちゃんを心なしかより強く、まるで……縋るように抱き締め、
「……簡単な事だ。奴の古巣、ベーオウォルフの故郷を滅ぼし、根絶したとされるほどの仕打ちをあたえたのは――――東方帝国の、智恵の国守……月城、だぞ」
………………え?
「……奴の、ベーオウォルフの一族を蹂躙した首謀者は……俺様の母親だ、と言っている」
――ははおや、ハハオヤ、ハハオヤって、え、ハハオヤって……母親……リッちゃんの……お母さん、の、こと…………?
お母さん。リッちゃんのお母さん。あたしは知らない、リッちゃんのお母さんで、メッちゃんの――
「そも、ベーオウォルフの一族は、過酷な環境にさらされながらも存続し続けてきた能力者の一族……それが何故、根絶したとされる状態になっていたのか……?」
頭を鈍器で殴られたようなめまいの中。
リッちゃんは、昏い表情で続ける。
「シンプルな解答だな。それ相応の暴力と謀略によって、暴虐され蹂躙され駆逐されただけなのだから」
「……なんで?」
――なんで、メッちゃんが。メッちゃんの一族が、故郷が友達が家族が、そもそもなんでそんな理不尽な目にあわなきゃならなかったの……?
「そんな事は知らん。今は亡き母親の亡霊にでも話を聞くしかな――」
「冗談いうな!!」
――本気で怒鳴った。
未だかつて、リッちゃんにできなかったこと。
怒り、悲しみや痛み、そのはけ口を見つけたような、そんな感情を出した。出してしまった。できたことができなくなって、できなかったことができるようになっていくということ。
我に帰って後悔して謝るより早く、リッちゃんが、不機嫌そうな不愉快そうな、吐き捨てるようなため息を吐いた。
「言いたくもなる……月城の先代の罪咎が、後継者たる俺様にもかかるのだからな。それで怨まれるは殺されかけるは、迷惑極まりない」
「――っッ」
――ナンダソノイイカタハ――
確かに、母親とはいえ、リッちゃんがやったコトじゃないのに、それで怨みの矛先が向けられる気持ちは、最悪といのはわかる。
わかるけど、リッちゃんの言い分も解るけど、気にいらない。何かなんか気にいらない。
「全く、せめて貴様を囮にした成果も有ったとはいえ……割に合わんな」
………………エサ?
「何だ。気付いてなかったのか?」
リッちゃんは小さく肩をすくめ、嘲るような表情。
「そもそも、何故、貴様は今回、ああいう状況におかれていた?
貴様は突発的に行動して、突発的に誘拐されたというのに、即座に救出された……不自然と、思わなかったのか?」
………………どういう、コト?
「警戒心の強い害獣を排除するには、まずはおびき寄せ、巣まで探る必要がある……そこが占拠地だったのは、残念だがな」
………………それって……まさか、
「丁度良い状況と、囮だったからな。利用させてもらったぞ、泉水 舞」
――それって、あたしを、利用、良いように、危険な、コロサレルかもしれないのに、あたしを――冥を、巻き込んで――
「――っッ!」
頭に血が上り、目の前が真っ赤になって、胸から湧いてくる黒い衝動と感情。意識の外で右手を振りきった後、リッちゃんの白い頬と、あたしの平手がぶち当たった音で間を空け、ようやく我に返る。
しかし、胸を染める濃い色は抜けない。白から赤に変色しつつある頬以外、表情の変わらない瞳に見つめられても、感情の波は治まらない。
「…………」
「――――ッ!!」
沈黙。ベッドの上のリッちゃんは黙ってあたしは見上げ。あたしは何かを口にしようとして――結局、何も口にできなかった。
高ぶるだけ高ぶった感情は、あたしに色々な行動を与えて、同時に、あたしから色々なことを奪い去った。罪悪感、苛立ちと悲しみと痛みと、ない交ぜになった感情でぐちゃぐちゃして吐き気がして。
それを、そんなあたしをリッちゃんは、あの日とは変わったはずの変わってしまったはずのリッちゃんは、感情がわからないけれど無表情とは違う、真摯で真っ直ぐにあたしを――そこで唐突に、気付く。気付いてしまう。
その目は、この眼差しは、あの時、あの日、最初の出会いの時と、同じ――っッ!!
――あたしはまた、喪失と最低を重ねてしまったと。気づいた。