笑っていられるのも、
――燃える、燃える、燃える。
白が、熱を持たない白い浸食が、焼けているとしか思えない現象で、広がり移り煙を出し、木造の建物を灼いていく。
異常な感覚と非常識な光景の中、耳が捉えたのは、狂ったような笑い、嘲笑い、わらい、ワライ。
――私の、大切なひとをヨゴす、キズツケる……そんな声、そんな音。
私の大切なひとを見る。
――……
涙、涙涙涙……泣いてる、大切な、私の、大切なひとが泣いている。
嗚咽ではない嘲りは続き、大切なひとは泣きやまない。
――私の中の何かが、音もなくひどく静かに盛大に爽快に焼いて、キレた。
衝動のままに立ち上がり、本能のままに突進し、明確なひとつの意志を以て、僅かな抵抗、尋常じゃない寒気、道理を超えた恐怖――それら全てを踏み抜き、
「――お前が、笑うな……!」
――嘲りに、拳を撃ち込んだ。
狂った白としか形容できない嘲りは、白色の眼孔が私に向けられた事で停止する。
開いた距離、離れた間合い。詰めるのは造作もない……でも何故か、造作もない事が、出来なかった。
眠い。ひどく眠い。今すぐ崩れ落ちてしまいそうな、消耗。
握った拳はほどけ、足は棒立ち。頭はくらくら意識は回らない。
もはや一歩たりと、踏み出せない程の消耗。
崩れ落ちるという、確信。しかし、
「――すず、は……?」
――言霊が、私の耳に届く。
嗚咽で、痛みで、悲しみで懇願で困惑で歓喜で、そう……私の一番大切なひとが、私の名前を詠んだ。
それだけで、掌に力が宿り、拳を握る。動かないはずの重い足は、動くと確信できる程に軽さを取り戻す。
眠気など消耗など、瞬時に消し飛んだ。
驚愕と狂喜の面もちで私と、その背後の彼女を視るソイツ。
腕が振るわれ、白が飛び出る。
拳を振るい、白を弾きかき消す。
誰かが叫ぶ。
白が狂笑う。
――私が、叫ぶ。
「――燐音ちゃんを……ワラうなァ!!」
――ん、う……
まどろみの中、身を起こそうとする。
何故だか、寝ぼけというにも違和感がある鈍い体は、起床の無意識に従い、ゆっくりと上体を起こします。
…………へんなゆめ、みたなあ……
回らない寝ぼけ頭で、回想。
確か、随分とありえない夢。
人格がなんか変になったり月城を……抱っこして女の人を殴り倒したり九咲さんと睨み合ったり黒焦げにされたりコワい人をぶん殴っ…………
……まあそれは所詮夢だからいいのだけど、現実は……なんか、グロいのを見て気絶して……それから?
わからない。夢は夢だから違うとして、それから……女装したまま、気絶して……
…………あれ、ここ、どこ……?
そこまで回想して、ようやく気付きました。
辺りの景色に、というか少しだけ狭い、私が今居る部屋に、見覚えが無い事。
簡素な四角い一室は、色素に欠け、埃ひとつ見当たらないけれど、手入れはしっかり行き届いているよう。
どこに繋がってるかわからない扉は二つあり、窓らしきものは見当たらない代わりに、球状の電灯に照らされ、夜なのか昼なのか判別はつきません。
……どこ、ここ?
ぽつねんとベッドの上、沈黙に取り残された私は、目をしばたかせながら、しばし呆然としていました。
とりあえず、まだ夢の中じゃないかとほっぺを抓ってみようか考え始めた頃、全くの無音が、二つの扉のうち、一つが開く音によって、唐突に破られます。
そして、部屋に入っ、て……き、たのは………………
「…………ん?」
見慣れない部屋に、見慣れた顔の想い人が、想像を絶する程にナチュラルな姿で入室してきました。
描写にすると、それだけの事です。でもより詳しく語るなら――華奢すぎる上半身をすっぽり覆うような黒いシャツ。サイズが些か合わないため、丸見えた首筋と鎖骨が。シャツからすらりと伸びる、遮るものなどなにもない、細くて形のいい御脚が。風呂上がりなのか、ほんのり上気した素肌と、僅かに湿った長い黒髪が。思考を止めて魅入る私を見つめる、その、光を反射する夜色の瞳が。
思考が呼吸が空気が凍り……凄まじい音をたてる心臓と、低姿勢かつ無音で突貫してくる黒い影に、なんの対処対応ができないまま、
「――死ィい・ネェェェェッ!!」
――殺意以外の不純物が無い叫びと共に、乱入してきたメイド長サマの、理想的なまでに暴力的な、純度百二十パーセントくらい全力を通り越したドロップキックを、顔面で受けました。
暗転。
「――お、起きたか下僕」
再び目を開けた時、最初に目にしたのは、月城の、取り繕うようなのにやっぱり可愛いくキレイな笑顔だった。
「……つき、しろ?」
しかし何故か、後頭部は柔らかいし顔が逆さまだしいい匂いがするし異様に近………………あいーん?!
「――ヒザマクラッ!?」
「おおっと」
反射的に跳んで起き上がる私。上体を傾け、悠々と顔面衝突を避けてくれた月城は流石。
そんな月城が肩をすくめて、スプリングの効いたベッドの上に立つ私を、咎めるように見上げましゅ。
「気をつけろ馬鹿野郎」
「――ななななななななニナになにぬねのはまやらわー?!?」
「あー、どうどう」
そのままの姿勢で意味不明な絶叫をする私に、お馬さんをなだめる要領で手を伸ばす月城。
それにつられて息が止まり、緊張と動揺とその他諸々で腰を抜かす私。
「――やれやれ」
そんな私に、月城は呆れを隠さぬ嘆息を吐きました。
「なななななななここここけここけ」
「ああ、此処は俺様の部屋だ」
未だ動揺諸々覚めやらぬ私は、意味をなさぬ羅列しか発声できませんでしたが、何故か理解されるのは毎度のこと。
………………って、月城、の……?
「――月城のお部屋ァ?!」
「黙れ」
「死ね」
絶叫する私に、冷めた目で言ったのは月城。冷たいなんてレベルを通り越した声を、私の背後から出したのは――振り向き、後悔。
なんかこう、修羅とか悪鬼とかその辺りの気配を無表情で背負い私を静かにまがまがしく見下ろし見下す、月城家メイド長・深裂 静流様のお姿がありました。
「――ひっ?!」
総毛立ちながら情けない悲鳴をあげ、動かない腰の代わりに腕で這い、ベッドに腰かける月城の背後に逃げたのは、人間というか生物である以上、当然の反応だと思いますまる。
「……おいこら貴様、誰を盾にしている」
ごめんなさい月城。でもなんか沸き出る冷や汗の殺意がピタリと止まった事から、割と間違った対処じゃないと思う。深裂さんが月城に、私に向けるような殺意を向けるなんてありえないし。
と、小さな月城の背後でそれ以上に小さくなりながらガタガタ震えながら言い訳を語る私でした。
「ま、それは良いんだが、貴様。どこまで覚えている」
……どこまで?
脅威が途切れ、多少の余裕ができた私は、理解できなかった月城の言葉に、首を傾げました。
「貴様は、女装中に気絶しただろうどこまでだ」
「……どこまで、って。グロいのを見た後から記憶が無いんだけど」
というかそれより、女装とか普通に口にしないでくださいよ月城。なんか難しそうに唸ってないでさ。
「……ま、貴様はそうだよな。貴様は」
何だろう、平坦な声に何ともない台詞なのに、随分と悪意が隠っている気が。
「とっ、というか何故私が月城の部屋に?」
「ああ、俺様はここで寝るからな」
返答の意味がわからない。
そりゃ、月城の部屋なんだから、そこで寝るのは当然じゃあないの? 私がわからないのは、何故そんな月城の部屋のベッドに寝かされていたのかということで――
「丁度良い抱き枕をベッドに置くのは、当然ではないか」
…………は?
体勢を低くしたままで月城を――その背後をうっかり見ないように気を回しながら――見上げると、悪戯っぽく微笑む月城と目が合いました。
心臓が脈打ち、意味をなさない言葉の羅列が熱っぽい脳を埋め立てます。
「鈴葉」
「ひゃい!?」
あ、よく見ればさっきのサイズが合わないシャツのままですよ月城。鎖骨と首筋がせくしー……などと良からぬ煩悩に汚染されつつあったところ、冷や水かけられたように悲鳴じみた声をあげる。
「丸二日間の抱き枕の役目、ご苦労だ」
「は、え? マルフツカ? てか抱きっ?!」
何それ何それ何なのそれ!?
困惑混乱直中な私に、月城はむしろ穏やかというかニコヤカな表情。
「何。貴様が今まで寝ていた間、貴様は俺様の抱き枕になっていた。それだけのことだ」
ゆっくり。月城の台詞を、ゆっくりゆっくり反芻します。
抱き枕。睡眠時、抱きしめて眠る大型の枕…………………………月城が…………想像。
――ナゼネテイヤガッタワタシの超バカヤロオーッ!!
「最近発見した事なのだがな。貴様の体温は、何故だか随分と落ち着くのだ」
落ち着、は? え、なに落ち、体温がええェ!?!
硬直。思考及び身体的な、身になれた硬直。血が沸騰するような熱による硬直。
「――すみません燐音様」
そういう状態だったから、その空気のような声が、どこから聞こえて、誰が言ったのか……私の体温とは真逆の、ひんやりとした手が私の首筋を掴むまで、理解できませんでした。
「――限界です」
――穏やかな、いつの間にか後ろに回っていた深裂 静流さんの声でした。
しかし、声の主は、首筋を万力で掴む掌を通し、声なき声でマイナスの熱こめて囁きます。
――喋ったら殺す動いたら殺す抗ったら殺す。
そんな感じの、震えるコトすらできない悪意と絶望に、いっそなんらとした感情はありませんでした。焼けるような熱は既に、マイナスに取って代わり、ずるずると万力に引きずられる私。
唯一どうにかできそうな月城は、やれやれと苦笑するばかり。ああ遠ざかっていく……
「後を引き摺るような事はするなよ、静流」
「……なるべく善処します」
――何を?!
補足とばかりに付け足される微妙な注意に微妙な返答。増大する不安と致死レベルの恐怖。それでも声は出せず、身動きも出来ません。死にたくないですし……ってこのまま引き摺られても結局は――
…………タスケテ月城コロサレルッ!!
「ま、なるべく死ぬなよ。下僕」
――生死を賭けた極限渾身のアイ・コンタクトは通らず、特にコレといった感情の浮かばない表情で手を振られ……
扉という遮蔽物で以て、視界を遮断されました。