白濁の歪み
――見慣れ始めた木製の床、四角い廊下、古びてはいるけど、なんとなく落ちつく感じのする二階の正面通路。
けれど今は、何故か落ちつかない。
早く、早く駆けて抜け出したい。嫌な空気。澱んだ臭いがする。意味も無い、得体の知れないものから目を背け逃げだしたいような衝動。
路地の裏や道筋の死角で放置された死体を見つけた時のような、そんな感覚がする。
でも錯覚だ。多分、あたしは今、不安定になっている。それからくる不安……だと思う。さっき通る時も感じた気持ちだったけど…………
そんなもので、まだ痛む脚に負担を掛けようとも、簡易のタンカで運ばれる冥に負担を掛けようとも思わない。だけど、冥と話せて安心したからかな……なんかこう、アレだな。あの日みたいな――
「おい、舞」
「……ん?」
短い呼びかけに、リッちゃんと目を合わせ、殆ど真下に首傾ける。
「手を出せ」
首を傾げながらも、拒む理由もないままに従うあたし。元々、あたしはリッちゃんのお願いを――あの頃とは大分言い方や性格や人格が違うけど――断れた事がない。
誘導されるように差し出した手が……ほっそりした白い手に、掴まれた。柔らかい、小さな女の子の感触。
………………あれ?
「……リッちゃん?」
「――人は、他者の体温を感じることで、安心をも感じるという」
…………リッちゃん……?
目をしばたかせるあたしに、それ以上何も語らず、ふいっさらっと艶やかなほつれ一つない理想的な黒髪を揺らし、表情を隠すように顔を正面に向けて先に歩きだすリッちゃん。
――顔に出していたつもりはなかったけど……お見通し? で、慰めてくれてる、のかな?
でもそれで……照れてる、のかな。
……あはは。あたしもなんか恥ずかしいけど……あはは、なんだろ、スキップとかしたい気分。手を通して、心の奥まで温かくなるような、幸せな錯覚。
所で、斜め後ろから聞こえる歯ぎしりみたいな音と、氷を首筋に押し当てられたみたいな寒気はなんだろう。
「まず誘拐されていたのだから、分かっているとは思うが、」
そんな玄関への道すがら、あたしの心境を知ってか知らずかリッちゃんは、人差し指をたてつつ、凛とした声をあたしに向け、そう唐突に前置いた。
「貴様は狙われていたのだ。今回、貴様を誘拐したのは、組織のタカ派――だな、錬金術師」
「ええ」
所々、白衣を赤く汚したおじさんが、短く苦し気に返事を返した。さっきまで血まみれで床に倒れていたのに、錬金術師って凄いなあ。即席のタンカもどきで司さんと一緒に冥を運んでくれてるんだから。
「貴様を特別扱い――まあ奴らから見たら、只の平民上がりを一晩泊めたのだから、特別扱いに該当すると認識しろ」
えーと、うん。
「俺様は、色々と恨まれているからな。故に突ける糸口を探っていた屑に、特別扱いされた貴様が目をつけられたのだろう」
…………ぽくぽくぽく。
リッちゃんの台詞の内容を足りない頭で考え反芻し、平行して木魚を叩くような音が脳内で木霊する。三歩程の時間それが続き、三歩目と同時に鐘を打ったような甲高い音。理解を示す安物の電球が、脳裏に浮かんで明滅した。
「リッちゃんを狙う奴らの八つ当たり?!」
「……貴様、頭の回りが良いのか悪いのか分からん奴だな」
……あるぇー?
なんか微妙な眼差しだよ皆さん。
だってだって、間違ってないでしょ?
リッちゃんを狙うやつらが、まず関係のありそうな、一人で出ていったあたしを誘拐して…………んでそっから雨衣さんとシーちゃんが――あれ?
なんで二人は、あたしと殆ど一緒に捕まったんだろ。それに……なんで?
不可解に首を傾げつつ、階段前まで来た所――思考がストップする。
「――良かろう、表に出ろ糞野郎」
「――此処で十分ですよ。周囲に被害を出さないように加減しようと、貴方如き一秒刹那と掛かりません」
「……何をしている貴様ら」
どういう訳か、拳を向けてメンチを切り合うメイドの女の子と雨衣さんの、控えめに云って喧嘩一歩手前な情景があった。
あたしの手を離し、即様ツッコミをいれるリッちゃん。それに僅かな喪失感と淋しさを感じつつも、わーすごーいと余りの反応の素早さに、感嘆の拍手をいれるあたし。
対峙する少年少女が二人が、同時にリッちゃんを見た。
「……お下がりくださいなご主人さま。すぐ済みます」
「何がだ」
「燐音様。男には……敗北すると解っていても、挑まねばならぬ時があるのです」
「名言っぽい事で誤魔化そうとしても只の喧嘩だろうが、雨衣」
「……わ、」
メイドさんのエプロンドレスがよく似合う女の子が、何故かショックを受けたみたくよろめいた。なんで雨衣さんにツッコミが入れられたタイミングで?
「――わたしの方がツッコミが少ないです!?」
「喧しい」
何か、リッちゃんが吐き捨てながら手元を翻すと同時――メイド長の深裂さんが動く。振りかぶるような、豪快でいてすべらかなフォーム。手に持つのはなにか――早すぎて見えなかった。
少なくとも、女の子の顔面にめり込んだ、真っ黒な分厚い突撃銃を認めるまでは。って顔面大丈夫なのアレ?!
「――何をしますか!?」
「うぇ?!」
倒れも怯みもせず、重力に引かれた突撃銃が顔からこぼれるより早く、女の子は、自分の頭から腰先以上は長い突撃銃を片手で引っ掴み、深裂さんかリッちゃんか、どっちかを可愛い目で睨んだ。
「痛いじゃないですか! 鼻血が出たらどうしてくれるんです?!」
「鼻血で済ますの?!」
愛嬌が抜けない剣幕で、普通なら鼻か首の骨が折れててもおかしくない重量級の投擲の犯人を怒鳴りつける女の子。反射的にツッコミを入れるあたし。そして女の子を、何故か不思議そうに、珍獣でも見たような表情で首を傾げる深裂さんと、何故か司さんまで。
「…………誰です?」
「…………誰かな? 鈴葉ちゃんに似てるけど」
口を揃えて、不可解なことを口にした。
「なんかそのリアクションは色々違うでしょう人として!」
「いや、正しい」
「ああ。常日頃の貴様を知る者としては、至極正常な反応だ」
涙目になった女の子の悲痛な訴えは取り合われず。ダメ押しとばかりに雨衣さんが同意を示し、リッちゃんが小さな顔を頷けながら肯定するのを見計らうようなタイミングで、鈍い音。視点を移すと、重大なショックを受けたような表情の女の子が、手に掴んでいた突撃銃を落としたところだった。
「――っ、ご主人さままでええええっ」
聴くだけで憐れみを誘うような悲鳴をあげながら、床に膝と手をつけ、うなだれる女の子。
それにリッちゃんは、なんとも言いようのないため息を一つ吐き。ふらふらと気力の欠けた足取りで女の子に歩み寄り。
「わかったわかった悪かったよ、だからサッサとそこのメグリを担げ。雨衣はシェリーだ」
……み、微塵も誠意がないね……
そして何か、腹を空かせた野良犬に餌をあげた時みたいな、条件反射じみた動きで了解と起き上がる女の子と雨衣さん。ただし、女の子の方は下唇を尖らせて。しかし行動そのものはスムーズなもので、手早く指名された子を、雨衣さんがお姫さまだっこ。女の子が背中にメッちゃんをだっこする。
「あれえ、雨衣ちゃんってば、可愛いだっこの仕方だねぇ」
「ふむ。ウェイトトレーニングに丁度良い……なんだ泉水、その酔っ払いのアレを見るような目は」
…………雨衣さん、酷いよ。女の子を抱いてトレーニングになるだなんて。
「――でりばーどってもんがないよ、雨衣さん」
「…………すまん。全く意味が解らん」
人差し指を上にさし、糾弾するあたしに。雨衣さんは、切れ長い目をさらに胡乱に細めてそう返してきた。意外とガクがないね、雨衣さん。
『……ひょっとして、デリカシーのこと? おねえちゃん』
「……あれ、そだっけ冥?」
即席タンカの上、自分の体から生えてるみたいなかたちで、今まで人見知りしたみたいに黙っていた冥が、あたしの間違いに訂正を入れた。
「あは、あははー。ちょっとした間違いだよね、うん」
『なんか、おっきい袋もった赤いぺんぎんさんをおもいうかべちゃったよ』
冥の台詞に、誤魔化し笑いが苦笑に成り代わる。
あはは、ペンギンさんは空想上の鳥なのに、さらに空想を重ねるなんて冥らしいなあ。よくよく――
「……お前、誰と喋っている?」
「え?」
訝しそうな目で、わけのわからないコトを聞いてきたのは雨衣さん。
「ひょっとして、雨衣ちゃんには見えないの?」
「……何がだ?」
サラサラな薄い金髪を僅かに傾けながら、男の人とは思えないくらい細くて白くて綺麗な指を口元にあて、のほほんとした問い掛けをする司さん。訳がわからないといった感じで質問を質問で返す雨衣さん。
――見えない? 冥が?
「ま、精神体なんですカら。例外を除ク常人ガ見える道理も無いでしょう」
妙な発音、独特の口調で語る白衣の錬金術師おじさんの声に、雨衣さんの表情が不自然に陰った気がした。
――何?
「? なんの話――」
メッちゃんをおぶったメイドさん……鈴葉ちゃん? が、近寄ってきて、ある一点で動きと言葉を止め、まばたきをして一歩退き、視線の先――丁度司さんとおじさんの中間あたり、冥の方を指さし、おののくように一言。
「――ッオバケぇ?!?」
「――オバケじゃないよっ!」
聞き捨てならない言葉に沸騰した頭で、肩を怒らせて怒鳴るあたしに、脅えたように肩を竦める鈴葉ちゃん。
確かに半透明で透けてて同じ顔から生えてるように見えるけど……!
「オバケって言うなあっ!!」
「ま、舞ちゃん落ち着いて? ね?」
司さんが、簡易タンカを持ったままあたしの前に出ていさめてくる。
でも、でも――頭を振る。怒っているのか、悲しんでいるのか。仕方ない、理不尽という単語が頭をよぎっても、感情が暴走したみたいに、静まらない。鎮められない。
不安定だった心が、たった一言、ささいな一言で、決定的に体勢を崩した。
オバケは◯んだ人間をさすもの。だれが、だれが……っ!
「……え?」
視界が霞んで、目前の女の子が表情を変えたのがかろうじて見えた。そしてあたしの頬に熱いものが流れる。
「――お話しの途中、なんですガ」
そんな中で、わざとらしい咳こみの後、独特の口調の、ヒドく場違いなおじさんの声が聞こえて。
「――敵襲です」
――その台詞の意味を、沸騰した頭が理解するより早く。
――霞んでいた視界が、真っ白に染まった。
――敵襲。
その言葉に、リアルタイムで対応できたのは、隠す気のない殺気を感じとり、とっさに燐音様を抱えて一階の通路に飛んだ私自身と、殺気に真っ向から立ちふさがった衛宮 鈴葉(少なくとも外見上は)だけだった。
――閃光。
目を背けているのに瞼を開けているのが困難な程の、白い光。
耳が捉えたのは、破壊音とは似て非なる、圧倒的熱量に灼かれチリさえ遺さず蒸発するような簡素な音と、それに数十分の一拍遅滞して聞こえた、鼓膜が麻痺しそうな程の、限界まで膨張させたゴム風船を針で刺したような、破裂音。
――何だ?
着地し、神経を集中させ、気を張る。さっきまで体中に穴が空いていてコンディションは頗る悪いが、四の五の言い訳している場合では無い。胸に抱いた温もりを感じつつ、視界を中央に回す。
全員――無事か。何らかの遠隔攻撃を、衛宮が防いだらしい。
件の衛宮の辺りを見ると、衛宮の前方辺りが……半径半メートル程の球状に抉り取られたように、扉周りが丸々、完全に消失――いや、消滅している。
「――アぁ?」
声。
訝し気な色の、声変わりしたばかりの少年のような声。この場の誰でもない、既知の誰でもない、知らない声が。
――正面。
消滅した扉の前から、聞こえた。
「――ンだよ」
声は、全く同じ若い声音で続けながら、隠蔽の意思とは逆、誇示するような足音で、屋外から、屋内に侵入する。
中央の全員が、気に食わないが一筋縄ではいかない全員が、あの司や錬金術師さえも含めて、ただ呆然と、その侵入者に視線を集めていた。
「――なぁんンで防がれてンだぁ? おイ」
訝し気な声と同時に、足音が止まった。
通路の角から、進んできた侵入者を覗き見る。
――白いフードを、顔や表情が判別不可能な程度に目深く被る、宗教の信者が着るような、不自然なまでに汚れのない無地の白いローブを羽織った、小柄な体格。別段構えるでなく、装備も見当たらなくば殺気も消えている。外見上は、丸腰。
だが――異様を感じた。
――なんとなく、第六感、本能、直感。
陳腐な言葉にするなら、そんな箇所からの警告。
ただし、それだけで冷や汗が吹き出るほどに、尋常を越えた警鐘。
「――おィ、そコの」
素肌の見える食指で、それ程の距離でもない正面に立つ衛宮 鈴葉を指差しながら、もう片方の手で鬱陶し気にフードを捲り、――張り付いたような兇笑みを浮かべた少年の顔を、晒した。
――白い。
白い肌、白い頬、白い髪、白い、――瞳。
全身がくまなく、狂ったように凝縮したように蹂躙したように白濁した、白。
結して純白ではない、漆黒を白濁で塗りつぶしたような、圧倒的な白。決定的に、何かが根本的に致命的歪みきったシロ。
「――テメェ、」
――少年の声は、知らない。
だが、知っている。
会った事はなく、すれ違った事もなければ一方的面識もない。
だが、知識として識っている。
何も私だけではない。情報量の差こそあれど、裏の住人だけではなく、一般人にさえ知れ渡った、最悪の虐殺者。
――白雪の焔という異名をつけられた後天的異能力者の、遺し仔。
第二世代・先天的異能力者、白濁の焔――雪深 冬夜。
「――同類か?」
その、『人』ではなく、『災害』として認識されている少女的な外見をした白い少年は、だからこそより一層におぞましく見える歪んだ笑みを浮かべ、同類に確認した。
「――っ止めろ撃つな雨衣!!」
「――ッアアアアアアアアアア!!」
声、間近から、私に密着した燐音様が、何時の間にかシェリーを放り出し突撃銃を拾いあげ、雪深 冬夜に向けて雨衣が、同時に絶叫した。
次いでそれを打ち消しぶち破るような、轟音。
――秒間三十六・五発の軍用モデル突撃銃が吐き出す、専用の五・五六ミリ口径の弾頭。それに掛かれば、人体など紙切れと道義。ましてマニュアルではなく、引きっぱなしのセミオート……人間が曝されたならば、只の肉塊ができあがるだろう。上半身が丸ごと吹き飛ぶ事も十分にあり得る程の、蹂躙する為の掃射。
――だが、相手は『災害』だ。
弾頭の到達は、一瞬。
『災害』との位置関係は近く、充分な射程圏。雨衣の腕前でもまず外し様がない距離。
――それが、徒にとなった。
――燐音様が、雨衣の名を呼ぶ。絶叫しながら、崩れ落ちる雨衣。
燐音様の声に、唯一対応していた泉水 舞に飛びつかれ、閃光のような焔に突撃銃ごと機械の偽腕を撃ち抜かれ、雨衣は、タダの少女に庇われ、撃ち抜かれた残骸と無様に崩れ落ちた。
「――あ゛ー、」
司が悲鳴じみた声をあげ、私の腕の中で燐音様がもがく。雨衣と泉水に駆け寄るために、災害の眼前に跳び込もうと非力な身で暴れる燐音様を押さえる。そんな中、鬱陶しそうにぼやいたのは、自分の数センチ手前で、突撃銃から吐き出された全弾頭を不可視のナニカで静止させ、悠々と無傷で佇む――最悪の災害。
「――人間風情が、出しゃばってンじゃねぇよ」
少女じみた繊細な顔が、歪に無惨に凄惨に、歪んだ。