硝子片は踏み躙られ、裸足で踊る役者たち
――ある、麗らかな晴天が一望できる朝。
他の人はいざ知らず、あたしにとってはなんとも云えない緊張漂う一日の始め。
支度を終えていたあたしは、寝込んでいる冥の寝顔を見届けた後、泉水家の屋敷中央階段前にて。
「なあ、ホンマに止めとき。悪い事言いひんから、な?」
とある有名貴族の家に出稼ぎ――の面接に出発する直前のことだった。
この話を聞いた時から難癖付けてた悪友が、最後の警告とばかりの変な笑顔であたしを引き止めてきたんだ。
「ほれ、稼ぐんにしても、他に色々あるやんけ。例えば料理とか、得意やし好きやろ?」
その口調は、いい加減で適当な悪友にしては、いつになく下手なような真摯なような。
それに首を傾げつつ、努めて笑顔で口を開く。
だってそれじゃ、もう足りないもん。
「大丈夫だよ、うん。うまくやる」
「そお言うて、前のバイト先で店長の鼻面ぶん殴って蹴り入れて歯ぁへし折って、クビになってたやないか」
笑顔が引きつったのは、消したい過去を抉られた身として、やむおえない事だと思う。
「い、何時の話してるのさ!? それにアレは、店長がその……」
頬というか顔全体が熱くなって、俯いた。
あれはね、店長が悪いんだよ。なんか変な事いって、押し倒してきてさ……正当防衛じゃん。
それに結構前の事じゃないか。
「まあ女襲う奴にゃ人権なんぞ無いからえぇんやが、また同じテツ踏まん思うか? 例えば、雇い主がまた変態な幼児趣味しとるとか」
「……どぉせあたしは特殊な趣味の男にしかモテませんよーっだ」
何、また遠回しに馬鹿にしてるなばかメッちゃんめ。
へん、幼児体型の童顔だってさ、人気ある所はあるんだぞ。多分。
「茶化しとんちゃうで。相手は貴族なんや。殴る蹴るなんぞしようモンなら……」
……確かに、そういう事態になった時。有名な貴族相手に、メッちゃんが挙げた以前と同じ対応すれば……下手すれば、泉水家離散?
想像して、首を振る。
ダメだ、そんなの。それだけは避けないと……
……あれ?
そう思えば、心配してくれてるのかな。メッちゃん。
…………えへへ、なんか嬉しいな。
「なんや、笑い事やないねんで。そないなったら、どぉすんねん」
「大丈夫だって。雇い主は女の人って聞くし、お義父さんの紹介だし」
「女の人ぉ?」
そう、女の人。何歳かは知らないけど、立派で賢い人だってお義父さん言ってたし、そんな事にはならないって。
しかしメッちゃんは鼻で笑い。
「解らんでぇ。女っちゅうのは、同性ならと引き込み易ぅする罠かしれへんし、女やってそぉいう趣味の奴は居るし」
疑り深いメッちゃんに溜め息を吐き、口を結ぶ。
「メッちゃん。お義父さんからのオススメなんだよ。そんな憶測ばっかで、見ず知らずの人の悪口言ってちゃ駄目」
「……そりゃあ御大は、腐っとらん少数派の貴族やけどなぁ」
バツが悪そうに、美人さんが台無しなまでに唇尖らせるメッちゃんに、さらに続ける。
「それに、大きな稼ぎ所が無いと。もう、冥がね……」
いっつもいっつもせき込んでたのに、最近じゃ……
「そりゃそうやけど……っあ゛」
……なんで目を見開くのさ。頬を引きつらせて。
「……あんな、あたしな、貴族は好かんねん」
「……そりゃ、好きって方が珍しいでしょ」
貴族と貴族以下の関係は、基本、搾取する側される側だ。
財産だったり、食べ物だったり、家族だったり、自分だったり……大体なものでもそうでないものでも、関係無しに取っていって、許される貴族。
そうやって横暴に大切なものを取る側を好くのって、普通無理だよ。
お義父さんみたいな例外はいるけど、貴族って大体そうだもん。
「そうやのーて……いやとかく、なんかされかけたら、余計な事考えんでさっさと逃げるんやで?」
「……メッちゃん」
「あんた逃げ足早いんやから、急いであたしんトコ駆け込みや。したらいざって時もきっと、全員で逃げられるて、な」
そう言って、あたしの肩を軽く叩くメッちゃん。
――思えば、メッちゃんだけはずっと、あたしが貴族の家に出稼ぎに行く事、最初から最後まで反対してたね。
ひょっとしたら、ずっと、ずっとそうやって、あたしの事を心配してくれてたのかな……?
そう思ったら、なんか……熱いものがこみ上げてきた。
「…………ぅう、メッちゃんんー……」
また俯き、潤んだ目をこすり、鼻水をすする。泣いてなんかないやい。感激してなんかないやい。これはなんか、アレだよ。生理現象っていうか……
「……ぷぷっ」
…………ぷぷ?
メッちゃん、何かな今の吹き出すような、
「っ、ぶははははっ!? なんや舞、童顔がぐずると完っ璧お子様やな! ジャリやでジャリ、ひゃっひゃっひゃっ!」
あたしを指差し腹を抱え、涙を流しながら、心底から愉快なものに笑い転げるように、ばかわらい。
――ああ、何だろう。
ささやかな胸の中の暖かさが、別の類の熱さに切り替わっていく、覚えのある感覚は。
「いやいや大体、アンタみたいな幼児体型のお子様顔、好むモンもそうそう居らへんよな、うん。ちっとは安心しーな、あたしが心配し過ぎやったわ」
ぽんぽんと気軽に、堪えがたいナニかに揺れるあたしの肩を笑いながら叩く、悪友。
「やー、夜通し慣れん料理訓練なんぞ強制されとったから、頭沸いてたんかなー。それとも美味い飯食えひんようなるからか、遠回しな妨害に気ぃ回し過ぎてたわ。うんうん」
………………。
そうだ。
コイツは悪友だ。性悪の根元なのに何故か友達みたいに錯覚できるしょっぱい関係。
略して悪友だ。
言わなくて良い事を言い合う、そんな仲だ。
「……あり、どしたん舞? 拳握り締めて」
「――メッちゃんの、ばかあああああああああっ!!!」
だからあたしが、某変態店長の奥歯をへし折った拳を顔面に叩き込んだのも、当然の事なんだ。話の前後が繋がろうとなかろうと、知った事では、ない!
――そんな感じに怒り狂っていたから、解らなかった。
鼻血流しながら倒れていく悪友の、小憎たらしい、曖昧な笑顔を。
その、裏側を。
あたしは、知らなかったんだ。
――月城家に出掛ける前、メッちゃんをぶん殴ったのと同じ家。同じ、場所。
なのに、まるで違う。
大きな怪物の死体が転がって、血塗れ。
昨日知り合って、仲良かった司さん殴られて、血を流してぴくりともしない。
昨日まですっと求めていた小さな女の子は、その司さんと一緒で、動かない。
そんであたしの脚は動かないし、昨日までふざけあってた悪友は……
――目が合って、先ず訪れたのは、深い深い沈黙。
お互いに、居てはいけない所に居たのを発見し合うような、そんな空気の延長線みたいな感じ。
先日までは、想像する事すらできなかった、小憎たらしいけど打ち解けてた筈の悪友との、とげとげしい空気。
「…………なんや、居ったんか舞」
感覚的に長い、おかしな沈黙の後、取り繕うような発言は、いつものおかしなしゃべり方。でも……
「……あー、なんや、何で泣いとんねん手前。似合わへんで、そんなん」
霞んでよく見えない視界の先で、メッちゃんが冗談めかして、どこか芝居じみた曖昧さで笑った気がした。
…………泣いてる?
借り物の、かわいいエプロンドレスの長袖で拭うと、確かに濡れていた。ああ、だから視界が霞んでたんだ。今更ながら他人ごとみたくそう思った。
「泣き虫め」
「……泣き虫じゃ、ないもん」
「鼻水垂らしてへたり込んどる奴の言うことちゃうで」
「……っ、」
いつものメッちゃんみたいな……だけど、決定的に何かが違う。
言葉じゃ説明できない、何かが。
「……なんで、司さんを殴ったの……? どうして……」
「……、アンタ……いや、そか。そういう事か」
一人、納得したように何度か首を上下させ、諦めたような溜め息を吐くメッちゃん。
「ま、とかくどっか行っとき。アンタにゃ、関係ない」
関係ない……はは、なんか、初めて出会った時みたいな言い方だね。
「……質問の答えを訊いてないよ」
「舞、」
ひどく大人びた表情で、コワいくらい真剣な声音で、メッちゃんがあたしの名を呼ぶ。
「――なんで、どうして……子供みたあにそう問うて、誰でも馬鹿正直に知りたい事を教えてくれる思うんやないで」
「……っ、そんなの、解ってるよ」
――この世界は、虚偽と欺瞞と暴力、理不尽で成り立っている。
嘘が嘘を喚び、偽りに偽りを重ね、誰もが誰もを欺き、優しさや幼さは暴力や欲望に蹂躙され、汚され、壊される。そしてその汚れは伝染し、壊れた破片は誰かを傷つける。
まだ多少なりと幸福でいたければ、生き残りたければ、賢くなれ。
他者を信じきるな。
全て、疑え。
――あたしに読み書きを教えてくれた、孤児院の先生の言葉。ちょっと、というかかなり極端な考えだけど、完全に否定する事はできない、厭な言葉。
その言葉を思い出して、何度も助かった事がある。
だけど、
「でも、友達相手にそんな、そういう風に疑うコト、したくない」
上擦った、情けない声。甘い事かも知れない。でも、本心だった。
「――……ふっ、はは、友達。トモダチかあ」
「……メッちゃん?」
「なあ、舞」
自嘲。
そんな感じの、似合わない笑みを浮かべながら。メッちゃんは笑いを堪えるような、ナニかをせき止めるような、ぐちゃぐちゃな表情で口を開く。
「――アンタ、無抵抗で無力な子供をなぶって殺そうって奴を、そう呼べるんか?」
――吐かれた言葉を反芻し、理解するのに、僅かな時間がかかった。
「……なんで、」
「――どうして――ならな、答えられへんよ」
自嘲を貼り付けたまま、首を横に振るうメッちゃん。
「さ、早よどっか行き。できれば、関係ないアンタにゃ見られたない」
「……関係、あるよ」
頭の中は、わけわかんない事ばっかで、とっくにパンクしてる。
考えての発言じゃない、口が勝手に動く。
脊椎反射か。
ただの、失いたくないという本能か。
「……リッちゃんは、」
――何を言おうとしているんだ。
関係なんて、もう……あの子と、
――月城 燐音は……
冷たいあたしが囁く。
もう、無関係。
無関係なものと関わって、小憎たらしいけれど大切な悪友を無くしていいのか。
もう月城 燐音は、あたしの知るリッちゃんとは、違うと。
あんなの、あんな……
――でも、唇が、体の芯が、心が、震える。
震えて、止まらない。
それはダメだと、明確な理由も解らないのにそう訴える。
あたしの、本音……
「――リッちゃんは、あたしの……大切な、もう一人の妹……だから」
口から紡ぎ出た意図してない言葉に、メッちゃんの顔から、抜けるように表情が消えた。
「なら、どないするつもりや」
――鳥肌が立って、身が震える。
気圧されずにいられないくらい威圧的で、刃物切っ先みたいに鋭く尖って、夜闇の淵みたいに底冷えする眼光。怒りや憎しみを超越した、強い強い怨念を宿した、震えずにいられない暗い眼。
「あたしの邪魔するんか」
――メッちゃん、そんな眼、できたんだね……
恐怖……怖いという思いはあった。だけどせめて立ち上がろうとして……
「あたしは――っく」
――脚……脚が、まだ動かない……
立てない、なら、これじゃ……
「……はっ」
立ち上がれもしないあたしを嘲笑うように、鼻を鳴らすメッちゃん。
「動かれへんのか……なら、別に構えへんな」
メッちゃんがきびすを返す。視点を変える。
あたしから、リッちゃんの方に。
「今から、此処までやってきた目的を果たす。月城 燐音を――殺す」
赤で塗りたくられたような刀身を、厭にゆっくり翻し。
あたしにでなく、自分自身に宣言するような囁き。
――絶叫が、口をつきかけた。
「――させるか!」
瞬間、少女の怒号が聴こえた。
続けて、やけに乾いた音と、
「――ふっ!」
メッちゃんが手に持っていた黒い棒を振るい、何かを弾いたような鈍く鋭い音が響く。
「なっ、弾いた?!」
「寸でで叫んだりするからだ!」
「いやいやいや!? んな樹さんじゃ在るまいし!」
聞き覚えのある声に、自由のきく上半身をひねり、振り向く。
あたしが来た通路の入り口あたり。そこに、一組の男女が並び立っていた。
黒い短髪に、破けて血も付いてるボロボロなシャツ着た二十前くらいの、少し顔色が悪い男のひと。
セミロングの髪におでこを出した、少し汚れたメイド服の女のひと。
両方共、見知った顔。
半ば茫然と、黒い銃を構えた二人の名前を呼ぶ。呼び声とは程遠い、囁きに近い声。
「……しーちゃん、……雨衣さん」
聞こえないくらい小さな囁くあたしの背後から、攻撃的な嘆息が聞こえた。
「は、ホンマに邪魔する奴らが来てもうたか――貴族の、月城の狗共め」
その悪友の声に込められていたのは、明確なまでの悪感情。忌避にすら近い、嫌悪。
それに、雨衣さんは目を鋭く尖らせ、シーちゃんは口元を真っ直ぐ引き締めた。
警戒、敵対に応戦の意思表示……
「……舞、こっちに来な。そこにいちゃ危ない」
固い声で、シーちゃんが手招きした。それに何か応えようとした、直後。
「イッチョマエの口聞いてんちゃうぞ、三下ァ!!」
怒鳴り声が聞こえて、あたしのすぐ横、誰かが通り過ぎていった感じがして。黒い影が、凄い速さで二人に突っ込んでいって、
「――なっ――?!」
シーちゃんが、銃を構えたまま悲鳴をあげて、
「――くっ!?」
雨衣さんが、そのシーちゃんを庇うように前に出て、黒い影の後ろ姿とぶつかったように見えて、鈍く軋むような音。
瞬間。
――さっきも聞いたような音がして、雨衣さんが、さっきの司さんみたいに、凄い勢いで殆ど真横に宙を飛んだ。
「雨衣?!」
「喧しい」
絶叫するシーちゃんを、鬱陶しそうに通路の奥に蹴り飛ばす――メッちゃん。
ややあって、人が床に叩きつけられ転がる音がして、メッちゃんが、何かを忌々し気に呟いた気がした。
――それだけ。
たったそれだけで、戦闘らしきものは終わった。
拳銃持ってる大男を、怪我してるのに素手の一撃で倒した雨衣さん。銃を持っていたシーちゃん。
そんな二人を、まばたきしたら見逃しそうな時間で倒した。
――あたしらの民族はな、棒きれで銃弾とか弾き返したり、果物ナイフで鉄を刻めるんでー――
以前、いつもの冗句として受け止めた台詞。
……はは、本当にそんな、そこまで強かったんだね……メッちゃん。
「――っ、頑丈やな。お仲間は一発でノビたゆうに」
「……自分より、強い者とのやりとりには……慣れているのでな」
……雨衣、さん。
中央スペースの端の壁に叩きつけられ、倒れていた雨衣さんが、ゆっくりと立ち上がった。
「……浅黒い肌に、その戦闘能力。ベーオウォルフと見受ける」
「だったらなんや」
「御哉 恵理だな」
冷たい言葉に、メッちゃんの返答は無い。
「何故、いや……最初からか。泉水 舞の証言から、妙だとは思っていた」
「……ああ?」
「惚けるな、襲撃犯の一員め」
………………え?
……しゅうげきはん? メッちゃん、が?
――何のこと?
「……何の事や?」
あたしの心境を表したような言葉。
だけど、その声音は、なに。
なんで、誤魔化すような、言い方、なの……メッちゃん……?
「純朴で純粋な少女は、さぞ騙し易かっただろう」
取り合った様子のない、雨衣さんの、冷たい言葉。刃物みたいに、痛い言葉。
「燐音様の命目当てに、よくもそこまで――」
「――黙れや小僧。知った風な口を、聞くな」
遮るような、言わせたくないといった色を含む、声。
「――、ほんと、なの……?」
――気付けば、
「ねぇ、」
声が出ていた。
「教えてよ」
悪友が……振り向く。
何とも云えない表情。細い目はさらに細められ、困っているような怒っているような嘆いているような、ぐちゃぐちゃ混ざった表情。
――でも、そのどれも間違っているのかも知れない。
あたしに、メッちゃんの事は、よく解らない。
よくわかってたつもりで、まるで解ってなかった。
だから、聞かなきゃ。
聞かなきゃいけない。
「メッちゃんは、」
自分でも不思議なくらい、平常と変わらない声と、いっそ鎮まった心境で、聞く。
「――あたしを、裏切ったの?」
メッちゃんの顔が、歪んだ気がした。