開幕は硝子の崩れる音
――ぃイィヤアアアアアアアア!!?
耳をつんざくような、聞き覚えのある不愉快な絶叫が、古びた木造建築に響いた。
それを皮切りにしたような直後、階段が小さく軋む、踏みしめられる微弱な音が続く。
普段ならば気にも留めない、或いは気づきもしない小さな音は、戦闘態勢にあった私に警戒と注意を与えるのに十分な不確定要素だった。
それは、どういう原理か武器を持てば全身体能力が向上する戦闘民族、ベーオウォルフの女にとっても例外では無かったらしく。結果として両者間に、得物を構えたまま睨み合いの延長線上のような、圧力と警戒に富んだ濃い沈黙が流れた。
――そして間もなく。
足音の主、月城 燐音様がこの場に姿を表すと同時に、均衡は崩れさった。
驚き、名を呼ぶ私の耳に、
「――ッつ、きしろ……燐、音」
密やかでいて、淡白で棒読みな声というに、慟哭にも似た感情を感じた。
怨みが、憎悪が過ぎ、溜まりに溜まって汚泥じみた怨念を――如何に焼き滾らせしき詰めれば出せる声か。
息をきらす燐音様を中心とした視界の端に、疾走する黒い影を捉える。
――御哉 恵理が、燐音様に向けて警棒を振りかざし突進――そう理解する以前に体は動き、完全な把握を置き去りにした展開は続く。
割り込みに間に合いはした。刀を構え、警棒による尋常を超えた一撃を受け、限り無く"折れない"筈の刀が曲がり変形し、手首から厭に小気味のいい音が脳に響く。そして、耐衝耐弾に優れた侍女服越しに、腕の骨が砕かれる音。
――思慮の外が続く。
何故、樹は来ないのか、それは多分に、何も無い所で転倒するくらいに希な、転送事故のせいだろう。
何故、防いだ受け手の腕がへし折れて、何故、比較するのも莫迦らしいくらい、一撃の威力が上がっているのか。
何故、私は崩れかけているのか。
それは戦場ならば誰にでも有り得る可能性、いつ如何なるも時も横たわる、敗北の可能性。
それ故に、私はたかがベーオウォルフに敗北する。
何故、なぜ――
「――っ静流!!」
燐音様がこの場に居て、
「――退け」
なぜ、ベーオウォルフの残党である貴様が、燐音様をそんな見慣れた目で――憎悪や憤怒に塗りつぶされた、濁った眼で見る。
それで潰そうというのか、汚そうというのか、壊そうというのか……?
私の、
私の主を、
――私の、
燐音様を……ッ――!!
何故、という疑問要素に埋まり、前に進まないという意味で半停止した私の思考を最後に突き動かし振り切ったのは、その譲れない一念だった。
――なんだろうね。
見慣れてきた光景。
新しいお家。
なんなんだろうね。
それが、まるで異質なもので塗りつぶされるってのは。
足元がぐらぐらして、ちょっと吐き気もする。それは多分、眼前のエグい光景とは、関係ない……はず。
「――静流さん、だよね。この斬り口、例のアレかな」
メイド服を来た女の子を助け起こしながら、別段変わった様子も無く、何かを口走りつつ自分がトドメを刺した化物の死体を観察する司さん。その姿を見て、ギャップ、ってやつかな。
前にメッちゃんが語った、ギャップ――普段と変わらない様子で、平然と怖いことをやったりとかいう――それに、少し――あの笑顔が怖いと感じた。
女の子を助けた行動なのに。あたしが、まだお子様だからかな。そういう風に思うのは。
――、まいおねぇちゃん。なんで……
――リッちゃん。
何でか、泣きじゃくるリッちゃんが頭に浮かんだ。
これは、なんだっけ?
「……鈴葉ちゃんが此処にいるということは、まさか来てるのかな」
――そうだ。
なんで、ダレかをごはんに――動物を殺してまで肉を食べるのって。なんでダレかにヒドいことしないと、生きられないのって。
ちっちゃい子供らしい、純粋で優しくって、どうしようもない疑問。
生きる為なら――ううん、そうでなくても人は肉を食べる。
幼い頃に唐突にわいた、なんで人は死んでしまうのかな、死んだらどうなるのかな、といった感じの、考えても埒が空かない、漠然とした根っこの方の不安みたいなもの。
今思えば、それに似ている気がした。
優しい……優しかったリッちゃんも、そう、何かを怖がっていたのかな。
あたしの時のソレは、お母さんに泣きついて、優しく慰められて、でもやっぱり解消されなくて、そんなモヤモヤも日に日に気にしなくなって……そうやって、解消された訳でなく、いつの間にか気にしなくなってた。
そういうの、成長したって事なのか。
そうやって慣れていって、どっか鈍感になって往く事なのかな?
なんか嫌だなと感じるあたしは、まだ子供なのかもしれない。
子供……あたしより子供だった。泣いて、哀しんで、怒って、嘆いてた、あの時のリッちゃん。
あたしは、そんなリッちゃんに何をしてあげられたかな。
……オロオロしてた記憶しかない。
それでも、そんなだったリッちゃんでも、そういう事、気にしなくなっちゃったのかな……だから――
「――舞ちゃん? どうかしたの……?」
「――わわっ!?」
考え事に沈んでいた意識が浮き、明るくなった目の前に、厭になるくらい首を傾げる動作が似合う、可愛い顔の人――司さんが、いた。
「……本当にどうしたの? 顔色も悪いし、どこか具合でも?」
心配そうに、整った眉を寄せる司さんに罪悪感が涌いて、首と手を同時に振るあたし。
「あ、いや大丈夫大丈夫、です」
「そう? なら良いけど……」
眉を伏せたまま、労りと優しさに満ちた微苦笑。というか、顔や体格や仕草だけじゃなく、言動まで女の人らしいなこの男。
「話を戻すけど、わたしはちょっと二階に――っ!?」
息を呑み、何かに気付いたように目を見開いて、明後日の方向に顔を向ける司さん。
「?」
首を傾げながらも、釣られてあたしも目を向ける。
二階に続く、中央の階段。どういうわけか半ば壊れた、木製の階段。
その先から、
「――ッ!!?」
髪の長い女の子が、頭から落ちてくる。
階段から転がり落ちているのでなく、階段の上から飛び降りるみたいに――すごい勢いで、二階から一階に、落下してくる。
「――燐音さまあッ!!」
司さんが叫ぶのをどこか遠くに聞きながら、女の子を助けようと走る司さんの背中と、落下していく女の子。あたしは不思議と何か行動する事も思いつかず、ただぼんやりと観ていた。
ゆっくりゆっくり、目の前の危機的状況が流れて、女の子の顔が、頭頂部が翻り、見えた。
魅入るくらいに綺麗な、夜色の瞳が見えた。
同時に、司さんが叫んだ内容を思い出す。
リンネサマ。
理解できず、何度も何度も――
――リンネサマリンネサマリンネサマリンネサマリンネサマリンネ――リンネ、リンネ、りん…………
りっ、ちゃん。
……りっちゃん…………?
あそこから落ちてきている女の子は、
――喉が干上がり、イヤな汗が吹き出る。
――りっちゃん?
体が硬直して、痙攣して、絶叫しながら泣き出したいような、何も感じてないような、ひどい矛盾。
ただ、激しい衝動があって、それで体が動かなくなって、動かなきゃいけないのに、からだが動いてくれなくて――
「――りっ、ちゃ」
たまらない、唯たまらない思いで、なにかを吐きそうな口から、意味なんて無い掠れた声が出て、ようやく動いた手は、ひどくゆっくり緩慢にしか動かなくて、届かない、落ちてくる、あの子の方に――マニアワナイテヲノバス。
――イマサラ。
(――だめだよ!)
声。
声が、聞こえた。
優しくて懐かしい、安らぐ、声。
? なんだろ。これ、白、しろく……
(ダメ。それ以上、自分を責めないで――)
――――
「――っく、燐音さま! 大丈夫ですか!?」
「……げほっ、ぇほっ」
伸ばした手の先で、司さんに抱き止められたリッちゃんが、苦しそうに咳き込む。
無事かな? 大丈夫かな?
確かめたいんだけどな、へたり込んでちゃ動けない……あれ?
「一体、誰が――」
「……来る、ぞ。油断するな」
切迫した会話をどこか遠くに聞き流しながら、いつの間にか床に女の子座りした脚を動かそうとして…………うごかない。
……なんで、えっ? なんでぇえ?!
半ば混乱して、上半身だけじたばた動かす。非常事態で、乱暴に脚を叩いたりもした。
痛みはあるけど、動かない。
……腰が、抜けてる?
でもなんでさ?
リッちゃんが、えと、…………あれ? とんで、二階から……飛んでえ?!
「……あなた、ですか」
わけわかんなくて混乱して、頭の中が真っ白になった瞬間聞こえた冷たい、怖い声にびくってなって、下に向けてた顔を上げる。
端正というか、女の人みたいな顔の、険しい表情。
その視線は一点で止められていた。
なんとなく、その視線を追ってみて――
「………………え……?」
呼吸を忘れ思考が止まり、それを信じられず、ただ茫然と。
見た事が無いくらい、冷たくて暗くて恐い目を、威圧的でドロドロして、銃を間近で突きつけられるより恐い雰囲気。なのに褐色の肌、スタイルのいい肢体、さばさばした髪に、見慣れた格好した――けれど見慣れない警棒のような長物と、赤いのがこびり付いた長い刃物を手に、張り付けたような無表情のメッちゃんが、そこにいた。
「――油断、するんじゃない! 静流は、ソイツに倒された!」
「なっ!?」
リッちゃんが叫び、司さんが驚き……倒された?
――なに、言って、…………?
「……なら、燐音さまは逃げ」
「――喧しい」
ゆとりや自然さがなくなった声で司さんが何かを言いかけて、割り込み、メッちゃんがぞっとする声音で囁き、二階から、床を蹴り、跳んだ。斜めではなく、真っ直ぐ直進。目で追えるかどうかという速さで、司さんとリッちゃん目掛けて、落下ではなく、突進してきて。
「速い?!」
「退けや」
司さんが叫び・吹き飛んだ。
鈍い、鈍器で人を殴ったイヤな音。暴力が奏でる、不快な音。
司さんが、あたしとは反対の方向の床に転がる。思い切り投げられた人形みたいに、リッちゃんを抱えたまま、何回か床で跳ねて転がって、鈍い音をたてて壁にぶつかる。
――鈍器で、殴った。
司さんを、殴った。
…………メッちゃんが…………?
見慣れた後ろ姿が、けれども見慣れない迫力で、あたしには気付いてないのか気にもしてないように、音もなく歩き始める。倒れて、ピクリとも動かなくなった、司さんの方に……リッちゃんの方に。
駆け寄らなきゃ。駆け寄って、なんかわからないけど何するか解らない。そういう雰囲気、止めなきゃ、メッちゃんを、どうにか……
――脚が動かない。動かない動かない、動かなけりゃ走れない歩けない――立てない。
やっぱりいくら動かそうとしても、脚は動かない。
……どうしてだよ、どうしてあたしは、わかんないわかんないワカンナい、グチャグチャして吐きそうで、視界は霞んで遠くなっていって、脚は動かなくて手は届かなくて、声を出したら何か壊れちゃいそうで、何が壊れるのか、それがコワいのかもわかんなくて――
肝心な時にこんな、あたしは、――
――肝心な、時……?
白濁した思考の隅で、冷静で冷酷な声のあたしが囁き、疑問が頭をかすめた。
ふいに、メッちゃんの後ろ姿が、あの時と――リッちゃんが連れてかれる時と、ダブった気がした。
――ヤケに高く、心臓がハネた気がした。
「………………なに、してるの」
気付いたら、喉が震えて、食いしばってた歯が開き、情けない声が、絞り出すような小さな声が出ていた。
メッちゃんの動きが、止まる。
溜まった唾を呑み、霞んだままの視界を、止まった背中を見ながら、もう一度絞り出すような声をだす。
「――なに、やって……の……メッちゃん」
震えたままの声に、メッちゃんが、ゆっくり――少なくともあたしにはそう感じた――振り向いた。
朧気な視界の中、よく見えないけどなんとなく、目が合った事がわかる。
――何か、遠く、遠くの方から、硝子細工が砕け散る音を聴いたような気がした。