夢現、夢
――一人の少女が居た。
その少女は、友人と容姿が似ていて、同じような特性、能力を保っていた。
その少女は、敵だった。
明確に友人を狙っていて、挙げ句俺様に楯突いた。
俺様のものに手を出そうとした。
感情が無かったその少女は、たったてた一人で死に怯え、泣いた。
一人だった。
だから、手を差し伸べた。
俺様にとって、利用価値がありそうで、
まだ、救われるべきと判断したから。
「……裏切り者め」
「…………何故?」
俺様の挨拶変わりの一言に、随分と変わった我が従僕は、無表情のまま哀愁を感じさせるという器用な真似で返してきた。
「なんだ、その身長は? スマートなままそこだけ伸びやがって。全国のダイエットに勤しむ肥満体質の豚畜生共に土下座しろ。今すぐ」
裏切り者がミリ単位で首を傾げた。
「……嫉妬?」
「喧しい! そして頭撫でんな、高い高いもやめい! 糞、手ぇ届かん! 貴様最初は俺様とそう変わらんデカさだったろうが! 何食ってそんなに成りやがった!」
「……規定された食事を一日三食。ご飯には牛乳が美味」
「牛の乳風情でスタイルが良くなってたまるか!」
牛乳が健康と身長をもたらす。
そんなものは只のまやかしなのだ。でなければ一年三六五日、ほぼ毎日食事の度に件の白濁を飲み続け、ほぼ変化の無かった俺様はどうなるというのだ?!
「そして白米には納豆にプリンをのせ醤油とをぶちまける。これは譲れんな」
あの癖にまみれた混沌とした味は白米には欠かせん。
「…………さすが」
戦慄したように後退する様子を見て、満足気に笑ってやった。
「それはともかく、久しぶりだな。ナゥスラ」
「……うん」
俺様より幾分か高いところでうっすらと淡い笑みを浮かべるナゥスラ。顔はアルカと同じでも、奴の偽悪的な笑みとはまるで違う、素直で魅力的な笑顔。
一年と半年の療養生活で、スタイル共々随分と情緒豊かに育ったものだ。
……まあ担当していた奴がアレだから幾ばくか不安があったが、この様子だと杞憂であったようだ。
さて、所変わって我が屋敷のテラス。暖かな日が当たり、蒼窮を一望できる緑に囲まれた場所に、それ程凝ったデザインではないが、シンプルで機能的なテーブルが一つ置かれてある。
そのテーブルを挟み、俺様とナゥスラは対面に座っていた。
「しかし、髪切ったのは前から知っていたが」
「……変?」
アルカの奴は、以前長い銀髪を肩辺りまで切った時、微妙な感じだとマグナに言われたとか。それに比べると、いや比べずとも。
「いや、しっくりきてる。あるいは、俺様より似合っているかも知れん」
無表情で、恥じらいからか顔を伏せるナゥスラ。
「――燐音さま〜、ナゥスラちゃーん、お茶ですよー♪」
「ん、ご苦労」
「………どうも」
「いえいえ〜ごゆっくりぃ♪」
給仕に来た司は、手製の紅茶と甘味を二人分、テーブルに置いて、やたら機嫌良さそうにニヤ付きながら、スキップしかねない勢いで去っていった。
とりあえず、悪くない香りの紅茶を啜ってると、ナゥスラがやおら顔を上げた。
「……貴女も、」
「ん?」
「髪、切った……?」
何故か区切って吐かれた言葉に、ああ確かに。と応える。諸々の事情で俺様の、膝まであった長い髪は、肩より上まで短く切り揃えられている。
「ああ、短い方が手入れの手間が省けて、これはこれで良い」
「……似合ってる」
「当然だ」
白磁の肌を朱に染めながら微笑みを浮かべるナゥスラに、胸を張って応えた。
それから静流に持ってこさせた、鈴葉から譲り受けた将棋盤の登場だ。
将棋自体を知らないナゥスラに、ルールと駒の動き、役割を説明してやった。
「……王手」
「……くくっ」
初局ハンデとして飛車と角、金を抜いた一局目。彼我戦力の差を的確に突かれ、袋小路とまではいかないものの、王将が追い詰められてしまった。
やはり、こいつは手応えがある。これに銀を抜いた状態で敗北した鈴葉とは、比べものにならんな。
だが、この展開は想定の内だ。
予定通り、交換した歩を盾に置き、ナゥスラの番。
「……貴女は、この将棋が、よく知ったチェスより好きだと言った」
壁が出来た事で積みが成らなく為った経路をあっさり諦めたナゥスラは、別の経路を拓かんと歩を前進させた。
「何故?」
それは、ささやかな疑問を問い掛けているのだろう。好きな理由。まあ、気にいっただけだが。
「大した理由ではない。手駒が多い所とか、シンプルなデザインとか、こう、」
再び、奪い取っていた歩を、今度は敵陣直中に送り込む。
ナゥスラがうっすらと顔をしかめた。
「取った駒が使える所とか、な」
「………降参」
「ふはは、もう読み切ったか。そう、積みだ」
優秀だな。初局でこれを読みきれるとは。
鈴葉ならば、積んでいようと気付かず進め、終局だと云うにうち続けるからな。ついつい余分になぶってしまうのだ。
それから何局かうったが、いや、この手の勝負で俺様に土を付けたのはお前が初めてだ。飛車、角落ちとは謂えな。
「……ひどく、気分屋、だった」
「……ん?」
対局の途中。やや俺様不利な展開の中、ナゥスラが唐突に口を開いた。
「……私を覚醒させたマスター」
パチン。駒を動かす音がやけに大きく反響した気がする。
「私に対して無関心ではあった。けれど貴女が思っている程、酷い人物ではない」
「お前、そいつに何されたか忘れた訳では無いだろう?」
「……私も、貴女の……骨を折った」
深刻な顔して何を言っているのやら。
「気に病むな、とは言ってやらん。いずれその事に対して、愉快な報復を用意してやる」
やや硬直状態の対局を進めながらの対話。
自分の駒を進めた方が口を開くという暗黙の形式で進む。
「……あの人が、あそこに、理解の塔に来ていたのは、私も知らなかった事。貴女と対面したら、ケース・デルタで対応するようにと、後は大雑把な指示を与えられて、私は木原八雲の下に預けられた」
「…………わざわざ言う必要は無い」
奴の下に居たということなど、どう聞いても不愉快な思いしか感じないだろう。
なのにナゥスラは迷った様子もなく、まばたき一つの間を挟み、歩を前進させと金に成らせる。
「……人格を度外視すれば、木原八雲は本当に優れた錬金術師。人体を弄くり、脳まで解剖した上で完全に復元するのだから」
「……お前が言いたいなら止めやしないが、そうか。やはりその部分も、変わっていないか」
「……木原八雲は、事ある毎に貴女のことを話していた。私に話しかけていた訳ではなく、譫言のように…………貴女も、あんな仕打ちを受けた?」
「…………さあな」
――俺様の場合、わざわざ痛覚と意識を残されて身体検査……臓器に、脳を弄くられた。
何をしていたかまでは解らんが、純粋な医療行為でない事は確かだ。術後は毎回記憶を一時消されたが……麻酔を抜いて、苦痛と恐怖に泣き叫ぶ童女に、解剖紛いの所業を施していた。
酷く真剣に、愉悦に狂った笑みを浮かべながら……そんなものが、医療行為で在ってたまるか。
淡白な返事だったが伝わったらしく。ナゥスラは、そう……とだけ短く小さく呟き、
「……無関心からは、なにも生まれない。私は木原八雲の……狂気に、恐怖を覚えた。痛みを知った」
毎度唐突な奴だ。
しかし、感情を目の当たりにすれば、何らかの変化は起きる、か。
「それが、感情。貴様の自我の苗床に為った訳だな」
「そう、だと思う。でも、怖かった。ただ、恐かった。だから、」
「落ち着け」
将棋盤に伸ばされた、震えるだけの小さな手を、掴む。俺様より若干大きいのが気にくわんが。
「……より優秀な同一体、アルマキス=イル=アウレカ……、彼女と同化すれば、より高次に至れば、あの恐怖から逃れられると、私の本質が解答した」
「……感情の芽生えが、刷り込みに近い同化衝動の引き金に為っているのか」
「解らない、けどその解答は誤りだった、と思う」
「……何故そう思った」
「貴女」
ナゥスラは微笑みながら、真摯な眼を俺様に向け、即答した。
「貴女と最初に対話して、言語に介すのが至難な感情を覚えた。マスターに仕込まれた衝動制御端末が焼き切れる程の、強い衝動」
「それが嫉妬だ。人ならば誰もが内包する七つの大罪の一つだ。自分の保たないものを保つ者へ向ける、正常な感情の一つだ」
激情による冷静さの欠落。それがあったからこそ、ああまですんなり勝てたのだ。
「そして死の、居なくなる恐怖、積んだ知識や知性がなくなる恐怖も、そこからのどこか暖かい叱責も、温もりも、貴女がくれたもの」
ナゥスラは、病的なまでに白い手を、自分の胸の辺りにやる。
「致命傷を受けて、死に瀕して。痛みなんて直ぐに麻痺した。視界が閉じて耳鳴りがして、段々と体が冷たく為っていく中、貴女の声だけは聴こえていた。貴女の温もりが、すごく心地良かった」
……なんだ、その微笑みは。まるで、
「私を助けてくれて、私に自我をくれて、
――優しい、夢をくれて」
止めろナゥスラ。
気付いているにしろ、それでは、まるで、
「ありがとう、」
なんとも言えない、今わの際に浮かべる笑みではないか……
「だいすき」
――ぱらぱらと、私とメイド長が降下に使用した穴からか、細かい破片が落下する音が耳に入る。
……、何だったんだ、奴は。
春香。そう名乗った少年か少女か分からない奴は、血みどろの肉塊片手に、消失したり足場に沈んでいったり……
奴が沈んだ足場を調べて見ても、他と全く同じ、硬質な手応えが返ってくるだけ。
何らかの錬金術アイテムを使ったか、異能の力の持ち主だったか……後者だろう。でなければ、模造オリハルコンの内壁と天井が、こうまでぐちゃぐちゃになるような惨状の説明がつかない。
「……燐音、さま」
私が状況把握に苦心していた所。
気付けば、横たわる我らが主を、メイド長が抱き締めていた。あの人は、主の事となると見境を無くす悪癖を保っているからな。
兎も角、私もメイド長にならい、主の元に駆け寄る。
近寄るにつれ、大した距離でも無いのに呼吸が荒くなり、冷や汗が吹き出て、心臓がはやる。
なるべく、見ないようにしていたから……主の周りに、赤い水たまりができていたのを。
「――お、そ……いん……だ、よ」
カラカラに掠れきった声が、あの主の発した声である事を理解するのに、数秒の空白ができた。
「申し訳、ありません……っ!」
空白は私だけに訪れていたらしく。
メイド長は、悔いるように恥じるように悔恨の言葉を零した。
なんとなく居たたまれなくなって、私は何か掛けるべき言葉を探る。
「……お怪我は?」
出てきたのは、口下手な自分らしい簡潔な言葉くらいだった。
「…………う、い……も……いるの、か? 心配、は……不要、だ……流れて、いる……血、……にっ、俺様の、ものぁ……なぃ」
「喋らないでくださいませ。とても、外傷が無いだけに見えません……」
確かに出血するような傷は見当たらないが、折れて尖った骨が内臓を傷付けているのか、そんな風に呼吸がおかしい。余りに酷い主人の有り様。普段のはっきりした口調とは懸け離れた語りに堪えかねたのか、メイド長は歯を食いしばるような声で留めた。
その直後。
地震もかくやという激しい揺れがおこり、天井から埃が撒い、混乱交じえた場の中、上からの轟音が鼓膜を打つ。
天井の一部が、上の階の足場が、崩れる筈のない模造オリハルコンが決壊した音だった。兼ねての懸念通り、いや私は知らされてない計画の懸念だったのらしいのだが、連中が逃走する際の破棄設備が起動したようだ。
上の階との境界、一筋だけの爪痕のような大穴から、同僚が何かを叫んだがよく聞こえなかった。代わりに、何故か主の小さな声はよく聞こえた。
「……ふたり……連れて、はゃく……だっし、ゅつ……を」
メイド長共々了解を示し、メイド長はそのまま主を抱え、慎重かつ迅速に動き出す。
先を見れば、上の同僚がロープを垂らした所だった。
私は……血を流し、倒れる二人の人間を視た。
片方はよく知っている。
女装した衛宮の小僧。
豪快に腹部辺りから出血していて、何故か左手が切断されているが、後者はえらく綺麗な切り口。伝え聞く衛宮の回復力ならば、切断面を正しくくっつけてやれば直ぐに治るだろう。前者も、錬金術師の助力があれば同様だ。落ちていた左手を回収してやり、本体も背負う。こいつを助けるのは不愉快だが、主の為だ。
さて、衛宮の小僧はこれで兎角、問題なのはもう片方だ。
目をやる。
何故か上で見た少女と似た顔立ちの小さな少女は、血まみれで、原因は一目で判る胸部から腰の辺りまで大きく裂かれ貫かれた、明らかな致命傷。重要な内臓はいくらか潰れはみ出て、出血も既に致死量。どのような攻撃を受けたのか、今すぐ何人もの医療専門錬金術師が処置したとしてもまず助からないだろう、酷い有り様だ。
「――雨衣ちゃん急いで! 足場が無くなる!!」
普段はのんびりした気質の同僚が声を張り上げた。崩落した瓦礫が、少女の直ぐ近くに落下してきた。細かい破片が身を打ち、風圧がいつになっても慣れないエプロンドレスを揺らす。
……少女を連れては上に登れない。リスクが高すぎる。
そもそもがもう手遅れ……
「――何をしているのです雨衣! 燐音さまの命令を忘れましたか!? 早くなさい!」
メイド長が怒号をあげた……主の、命令。
"二人"を……不可能ですよ、主。
貴女は、出来ない事は命じない。なのに、二人。衛宮の小僧は兎も角、少女の方は、助からない。
無理すべきでない場面であることは、私にも判る。
ということは、背中に背負う衛宮を固定しながら、結論を出す。
貴女は、私に……個人的な我が儘を命じたのですね?
ならば私に、命を賭けてまで従う理由は在りません。
役にたたない突撃銃を破棄した直後。
少女の真上から、幼い命を圧し潰す、崩落が発生した。
「――雨衣ちゃん!!」
煩い叫ぶな。聞こえている。
ちっ、
やはり慣れん葛藤をするものではないな、これでは、
「無茶しすぎです! 右手がグチャグチャじゃないですか!?」
「……ふも゛ふぅ」
――肩まで潰れちゃいない。そも突っ込まねば少女は潰れ即死だった。右腕損壊は痛いしイタいが、損傷が酷過ぎた事がかえって痛覚が麻痺し、痛みによる弊害は少ない。なんとか片手両脚でロープは登れるし、歯を食いしばれば少女も運べる。
苦行に変わり無いが、思った以上に少女が軽量であることは不幸中の幸いであった。
……我が主。貴女個人の我が儘を聞く理由が、私にはない。
たけど、私は――貴女の我が儘が、願いが聞きたい。貴女の望みを、本当に目指すものも、まとめて聞かせて欲しい。
こんな私の意志なんて、理由とは呼べない。我が儘を聞きたいという、私個人の我が儘が、貴女の戦力を減らす理由になって良い訳がない。
だけど、その私個人の意志、我が儘は……曲げたくありませんから……
右腕を犠牲にしようと、自分の命を賭けてでも、高すぎるリスクで、すぐに亡くなるだろう命を長らえさせ、おまけに衛宮の小僧も連れて、手駒の私自身も生き延びて見せます。
胸中で念じ、みをよじり脚で固定し左手を伸ばす。しっかり掴み、引き、また脚で固定。左手を伸ばす、繰り返し。十メートルを悠に超える高さ、到達地点はまだ遠い。
「、見てられないーー重いいぃ! ねーちょっと手伝ってそこの白くて可愛いって居ないー?! マグナ君もお犬さんも居ないー?!」
地上一階で固定されたロープを、今同僚が引っ張り上げようとしている。しかしそこは非力と自他共に認める同僚のこと。上がらないし揺れるだけだし、率直に言って邪魔だ。それを伝えようにも口で少女をくわえている為、物理的に不可能だ。幸い、邪魔になってると判断しただろう同僚は直ぐに止めてくれた。流石賢明だ。
……メイド長ならば引っ張り上げるのも不可能ではないだろうが、生憎と主を安全な所、ロープが垂らされた地上一階まで連れていっているようだ。
間違った判断ではない。崩落しているのは、地下の地盤なのだから、満身創痍の主が落ちたら大変だ。
「……ふも゛っ」
材質が材質だから崩落に時間が掛かっているのだろうが、時間は余り無い。変に聞こえる息を吐き、同僚の見守る中、再び登り始める。
一分経ったか経たないか、これくらいで疲れるような鍛えをした訳では無いが――
「――ッんン!!」
支えにしてた左手が汗で滑り、脚で止めるまで一秒前後、少しばかり落ちてしまった。同僚の悲鳴が聴こえた。
しかも、摩擦で掌が擦り切れたらしく、地味に痛むのは根性で問題無いとしても滑り易く成ったのは確かだ……糞っ。
それから痛みで精神と体力を蝕まれつつ、握力の低下と悪戦苦闘しながら、滑り落ちそうに成りながらも、なんとか折り返し地点まで通過し、気を引き締め直した時――
「……えっ、今――駄目だ! 雨衣ちゃん危ないっ!!」
切羽詰まった同僚の絶叫に上を見ると――
「――ッッ!!」
真上の瓦礫が、崩落する寸前、いや、もう落ちて――来る!
「っん゛ん゛!」
此処で死んでたまるかあっッ!!
痛む左手に克を入れ、脚と腰に力をやり、ロープを揺らす。それに気付いた同僚も、ロープに手を掛けた!
「衝突する寸前にわたしの方に引っ張るからそれに合わせる、良いね!!」
「ふも゛!」
声の出せない私に適切なサポートを提案する同僚。一も二もなく肯定を返す。
やはり、いざという時にだけ冷静な判断を下せるこの同僚は頼りになる。いざという時だけ。
金属がこすれる音と共に、模造オリハルコンの塊が重力に従い、私めがけて落下を始めた!
私は、身を最大によじりロープのベクトルを動かし、崩落してくる瓦礫の方に揺らす!
その直後、
「――今だよ!!」
「っんん゛!!!」
さらに身をよじり、衝突するか否かの瞬間、法則と同僚の引っ張る力と合わせ、先に向かうベクトルとは逆の――瓦礫から遠ざかる方向に、大きく揺れ動く!
横の動きに、少女の体が重力に従わんと歯に更なる負荷が架かるが、それに負けじと歯を強く強く噛み締める。
――此処で少女を離したら何にも為らんだろう!
落下する模造オリハルコンの塊に背を向ける形で交錯し、紙一重の回避に成功――
「――あ゛ー!?」
同僚の絶叫の刹那。
――ゴッ!!
という物凄く鈍い嫌な音が、背後から、てか背中から聞こえた。同時、左手に異常な負荷が掛かり、腰の辺りから布の擦れるおぞけの立つ音……
回したくない頭が勝手に回り状況推測。
結果は、避けた筈の瓦礫が、背中に固定していた衛宮の小僧に命中。
本人は死にはしないだろうが、その衝撃で衛宮の小僧を固定していた布が外れ、左手にも耐え難い負荷が……っ!!
「――ンん゛ん゛ん゛ーーッ?!!!」
「雨衣ちゃんっ! 鈴葉ちゃん!!」
ち、っぎれる……!
っやばい、衛宮が、落ちる!
相変わらず潰れてる右手は無理、ならば左手しか無かった。
ずり落ち始めた衛宮に手を伸ばし、擦り切れた鈍痛が続くも、汗が浸入したか右腕の激痛でどうでもよくなり、力を入れ、なんとか衛宮の脚を掴む。
掴んだものの、上半身を支えるものが無くなり……脚で踏ん張るしか無かった。
結果。
「ーーんん゛ーん゛ーー!!」
「う、雨衣ちゃぁぁんッ!?」
脚のみでロープに掴まり、上半身は重力に従い、下半身より下に来る。その上、少女を口に糞餓鬼を左手に掴んでいる為、計三人分の体重を拷問紛いの体勢で支えなければならない状態…………
そんな体勢が長続きする筈もなく――
数秒と保たず、まず顎の力が抜け、おちた。
空中で繋ぎ留めていた、小さな少女の体が、
「――ぁ、」
ゆっくりと、けれど絶望的な早さで落下を始めた。
あの傷で、この高さから落下すれば確実な死が待っている。
留める手は、伸ばせる手は、既に無い。
それは、地獄に垂らされた一筋の蜘蛛糸が断ち切られた時の、糸を垂らした蜘蛛の気持なのかも知れない。
落下していく少女の顔は、心なし安らかな顔をしている気がした。
幾ら心が絶叫しても、どれだけ必死になろうとも、潰れた右腕は、それでも反応しない。
――かつて、自らに必要な知識を保有する為、手当たり次第に書物を漁った時。とある書物には、傍に居たいと願う唯一の存在に対して使った言葉とあった。
"だいすき"
「――ここは、存在したかもしれない分岐の先。貴女との精神共鳴により、数多在る可能性の一つをシミュレートしているにすぎない」
精神感応に同調、そして侵入。
それが、彼女の能力……色々と制限は在るのだろうけど、"領域"の力。
けれど、人々が定義する異能力者とは派生で異なる。
異能力者らが世界を侵す力ならば、彼女のそれは精神を侵す力。
何故彼女がそんな異常を秘めているのかは、解らない。
けど。
その異常が、彼女の意志によって私という個人を救った。それは確かだから。そして、
「最後の力で、死に逝く私に、貴女との一時を、幸せな夢を、見せてくれた」
本でしか、空想の物語でしか観る事のできなかった、感情を保っているというメリット。
言葉に出来ない、満たされている感覚。
――これが、幸福ということだろうか?
一緒に居たい人と、だいすきな人と、一緒に過ごすということ。
私は、とても幸せ。だと思う。
「だから……もう思い残すことは無い」
――ずっと孤独だった。
言うことを、命令を聞くだけの人形だった。
だから感情など芽生えなかった。
芽生えた感情で、夢の中。黙考する。新しい事を知る度、知識を蓄える度に私は高揚を感じていたと知る。それは、知る事が好きだったという事。
私は既知を真に理解していなかったと理解し。既知の本質の一端を理解するまでに至った。
知る事が好きな私に、知る機会を手向けにくれた……最期に私は、感情を保つ人になれた。と思う。
黙考を止める。
既に精神の繋がりは絶え、眼前にあの人はいない。
それは、酷く心かき乱される事。だけど、それはあの人がまだ生きているという事。
悲しみ喜び安らぎ不安……
矛盾した心境。
思い出すのは、人は未完成。故に多くの矛盾を孕む、という言葉。
――ああ、わたしは……だめ、意識がうすれていく………
もう、本当に時間がないよう……ならばさいごは、あのひとのえがおを思いうかべながら…………
なぜだろ……う、あのひとの、えがお、が、おもいうかばない………
なんで、わらってくれない……
ああ、もう、いし、き……だ、め
「……さよ、なら」