だべり話 五
程よく沸いたお湯から湯気が立ち上ると、もやがかった白いそれはどこかを境に空へと変わる。
露天風呂。
言わばお空を天井とした、野ざらしなお風呂……って雨とか雪とかどうなるんでしょうね。掃除とか大変そうです。
そのような素人考えなど意にも介さないとばかりに整頓された露天のお風呂、汚れの一つも見当たらないというにちょっとしたお家ほどに広く、小屋みたいなサウナまで完備した贅沢仕様。
これとは別の通常及び従者用の室内風呂まであるのですから、全くもって規模が私のお家などとは違います。
月城家らしい機能優先。あかさらまな装飾とかはないけれど、石を伝い湯に流れる湯の音とか、ワビサビとやらをほんのり感じるくらいにさり気ない造りがちらほらと。
いや、お兄さんの受け売りですけど。
人が十人単位で入れるでしょう、石で造られた湯船の中。ワビサビな周りに向けていた視線を今度はと上にして、暗い夜に浮くまん丸いお月様を拝みました。
黄色にも白にも見える、いくつもの顔があって、夜を照らすお月様。今日も今日とて変わりはあっても異変なく、そのお顔を覗かせてくれています。
「……良い湯だなぁ」
「そうですねぇ」
広い湯船の中、同じく透明な湯の入った桶の中に浸り、ぷかぷかと湯船を漂う兎さんに同意し、なんとなく良い湯を掬ってみる。
掬い月。手のひらで揺れる透明な湯に、たゆたうお月さまが映ります。
「……知ってるかい、鈴葉。昔はね、衛宮家にも有ったんだよ」
「え? あ、露天風呂がですか?」
初耳ですよ。
うちに今あるお風呂は、二人入るに窮屈な湯船がぽつんとある室内風呂が一つだけ。
まあ、それが過去形という事は……
「そう。立地的にか建設者の趣味か、ここより少し大きかったと思うよ」
それは思い出の美化や、今の姿が小さすぎるのと何らかの相対関係があるやもしれませんね。
などというぽっと感想がバレたら裸で空中遊泳する羽目になるおそれがあるので口にはしません。
「まあ、今は更地になってる所なんだけどね」
概ね予想通りの結末というか、筋書きが限られるセピア色の成れの果てをしみじみと語るお兄さんの顔は、兎さんフェイスとは思えないくらい人間じみていました。
「……ああ、懐かしいなあ。って言ってもむなしいだけか、はは……はあ」
「ええっと……」
今より豊かだった昔を思い出していたらしきお兄さん。何やら絶望を感じさせる空気で俯き、どんよりとワビだかサビだかを濁らせます。
「……はあ、全く……どうなるのか、実際」
「?」
「私は戻れると思うかい、鈴葉は」
それは……と言葉に詰まります。
詰まりながら思いつくのは気休めくらいにしかならない言葉ばかり。それを口にすべきかそうでないか、結局は中途半端に開いた口は、中途半端なまま。
「如何せん、前例の無い問題だからね。打算混じりでも、月城ちゃんがどうにかしようとしてくれてるのは解る。でもなぁ」
「不安……ですか」
まあ、人間から兎さんになったのです。
姿形が真っ向から変わり、出来る事ができなくなって、調理もしてない人参が好物になり、数少ない使用人の方々からは愛でられ、お父さんからは指差して笑われる。
その上、元の姿に戻れるかは全くの未知数。少なくとも自分の手におえる事柄じゃあない。
その心労はいかほどのものなのでしょう。
兎さんになった経験の無い私には、想像するしかありません。
「……愚痴だな、我ながら情けない」
「そっ、そんな事ないですよ」
溜め息と吐かれた自嘲が湯の面を揺らす。
対して、とっさに口を吐いたのは反論の言葉。向けるてくる視線に、何と言うべきか一瞬で混乱し、わけもわからず続けます。
「ほら、兎さんに情けないもなにもないですし! むしろ兎の身で我慢できる自体が誇らしい事ですきっと。少なくとも私にはとてもできません!」
「……喧嘩売ってんのか、テメェ」
ひぃっ!? お父さんの前以外じゃめったに崩されない穏やか紳士口調に地割れがごとき亀裂が?! なぜゆえ?!
「ちっ、ちが、ちがいますちがうんですそんなつもりじゃなくて、」
「……はあ、その悪癖を何とか……いや、無理か」
私の釈明になってない何かに眼光を緩め、というより弛緩させ、何やら呆れた風に小さな肩を人間みたく落としたお兄さん。
あれ、怒ってない?
「流石に、人様の露天風呂を更地に変えるのはまずいだろ」
九死に一生のようでした。
しれっと、大人の余裕っぽいものを纏わせながら、その実大事なところがズレた発言に、少なくからぬお父さんを感じました。
これも言ったらまずいでしょうから間違っても口にはしません。
しかし何でしょう。最近のお兄さんは地雷が多すぎるような気がします。
「なあ、鈴葉」
「はい?」
「実際、月城ちゃんとはどうなんだい?」
どうって言われましても。
いや、というか話題転換にしても急な……
ふやけたように間延びしたお兄さんの声。その返事に窮していると、ばしゃばしゃと前足二本で器用に顔を洗い、濡れて体積が縮んだ体でマイペースに一息するお兄さん。
「月城ちゃんをあれこれする度胸なんてないにしても、鈴葉は月城ちゃんが好きなんだろう?」
「え……ぅ、それは、その」
「でも、日記帳の八割を月城ちゃん関連で占めるのはどうかと思うんだ」
…………はい?
え、は、んん? 何故お兄さんガソレヲ?
「あと、月城ちゃんと自分の名前合わせてすみっこに書くとか止めた方が良いと思うよ。流石にちょっと少女趣味すぎて、お兄さん正直引きました」
一時停止していた頭が、急激なストップあんどゴーを決めて、ちょっとした吐き気をもよおします。
私の部屋に引きこもる日記の内容を知っている。何故の解答は、そう多くはないでしょう。
ほどよい湯加減による火照りとは全く違う熱が込み上げ、嘔吐の代わりに口から出るのはそのあおり。
「――ーッっ!?! 肉体でなく精神的に?! というか私の日記をなぜ!?」
「……知らない方がいい」
え、何その返し? なんで露骨に視線をそらしながら仰いますか? すごく不安なんだけど。
普通に盗み見たとかじゃないんですか?
ええー?
「ちょっとお兄さんお兄さん、なに、どういうこと?」
「考えるな、知ろうとしちゃいけない……揺らさな、持ち上げるな!」
「あ」
お兄さんと湯が満たんに入った桶を持ち上げて揺さぶった私は、きっと混乱していたのでしょう。
不意な足場の揺れでバランスを崩し、真っ逆さまに湯船へと落ちていくうさぎさん。
かくて解答の代わりに得られたのは、怒れる濡れうさぎさんからの拳骨だけでした。
「……」
白い。
真新しい白衣に、綺麗な白髪に雪の肌と、全体的に白い、とある悪夢な妖精とよく似た特徴というかそのままな姿をした、見るからに体が弱そうな彼女。
燐音様が言うに、ゆかりというらしい。
「……」
三歩ほどの距離をはさみ、車椅子からこちらを見上げる視線に、好評悪評噂問わずに数多轟く悪夢の妖精の片鱗は感じられない。
強いていうなら子供のような無垢さと、人形のような空っぽな印象を受ける。
しかして彼女は「ゆかり」というらしい。中央の悪夢とは関わりの無い、月城の客で当主の友人。
事実がどうあろうと、主人に仕えるメイドとしてはそういう風に認識し、振る舞うべきだろう。
主が鴉を白いと言えば白い。要はそういうこと。
「…………」
「…………」
そんな彼女を任され、無言で見合う事しばし。
沈黙、静寂、黙々。ただお互いに微動だにせず、お互いを見つめあう。名状し難く、ただ時計の針が動く音だけが、燐音様の去った室内に淡々と響く。
わたしは思う。たぶん人形のように綺麗な彼女とてこう思っているだろう。
心はきっと一つ――なんぞこれ? と。
冷静に、理性的に現実的に考えるなら挨拶とかすべき。見つめ合うだけとか意味がわからない。
でも、先に挨拶とかしたら負けだ。
自分でも意味のわからない理由が口を閉ざし、理性的な行動を阻害する。
不毛な沈黙は続く。
もう何分経ったか解らない。でも自分から動くわけには――
「……っ」
「……?」
揺らぎにも満たない揺らぎ。そんな矛盾した、言葉にできない微妙な振動だっただろう、けれど停止した空間の中でのそれは、闇夜の蛍くらいの判別しやすさであっただろう。
指摘こそ無いが、吸い込まれそうな空色の目に嘲笑が混じったような気がした。
気がしただけでわたしの被害妄想なのかも知れないし実際そうなのかもしれないけれど今そんなのはこのさいどうでもよく。
かゆい。首筋がかゆい。
動けない中で、体のどこかしこを意識するともうしようがない。なんかもう気になってしようがない。わからない? わたしは実感している。
段々と酷くなるむずがゆさ、紛らわしに動かしかけた腕を意地で制し、我慢かゆい我慢かゆいけどがまん。
「…………」
「…………」
葛藤の中でも、湖を泳ぐ鳥の表面のように静寂は続く。
爪をたててストレスの原因(痒み)を排除したい。男女共通の生理的反応を妨げるのは意地か空気か。
何か無いか、この苦境を打開する術は、何か――いや、ある。あった。
最近発芽した我がかっこいい能力。
力をかして、にょろにょー。
「……」
「……、?!?」
あーそこそこ。
腕から生やしたにょろにょーを首筋まで伸ばし、先端を痒みに押し付けこすりこすり。ぶじゅるぶじゅる。
「…………なにそれ」
「……ふっ」
車椅子を使って限界まで後退し、まともに目を見開くゆかりに笑みを返し、メイドらしく作法にのっとり一礼。
吊り長い目を丸くし、強張った表情の中に未知への好奇心を宿した瞳を改めて見返し、一石で二鳥を落としたにょろにょーを体内に収容、悠々と挨拶をする。
「……あいむ・うぃなー」
間違えた。
「……あっ」
意味不明な勝負の末を宣言された彼女は怒るでも呆れるでもなく、愉快な反応を返す。
好奇心が、自分でした失態に気付いたように動揺で塗りつぶされると、次いで転がる賽のように表情が変わった。
雪のような肌が膨れる様、言うならばまんまな餅肌だろうか。破裂はしないだろうけど。
「……遅ればせながらはじめまして、葉山 あずきと申します」
今更が過ぎる挨拶だが、相手も対面を進めるべきと判断したか、渋々という感じを薄い表情に刻むとぽつりと名を名乗り、応じる。
「……さっきのは?」
「にょろにょー」
「にょろにょー?」
「そうです。にょろにょー」
再び片手からにょろにょーを出し、蠢かせ見せびらかしてみる。
人によっては引かれたり、叫ばれたり逃げられたり好奇心をてきたり恍惚とした目を向けたりと様々な反応があったが、彼女は好奇心旺盛なタイプらしい。
正直女性として羨ましいほっそりとしていながら綺麗な手を伸ばし、恐る恐るとにょろにょーの感触を確かめている。
肝が座っている。流石は燐音様から友と呼ばれるだけはあるか。
「ぐにょぐにょ、にょろにょろ……だからにょろにょー?」
「にょろにょーは、にょろにょー以外の何ものでもない」
「……そうなにょ」
にょ?
妙な媚びを売った語尾が地かと首を傾げたが、噛んだだけらしい。
白い肌が赤に染まり、うーとうつむいた姿からそれは見てとれた。
外観以上に、幼い。
だから達観しているあの人とも合うのだろうか。
野次馬じみた感想を勝手に抱いた。