月の下に
「そういえば、燐音から言伝が一つだけある」
「……なに」
「大馬鹿者が。だ、そうだ」
憎らしい笑みを浮かべたアルマキス=イル=アウレカがそう告げたのは、覚醒から三日経った日の事。
ある程度落ち着き、静かで動きのない療養生活にも慣れはじめてきた頃であるからして、時期を見計らってたのだろうか。
今までの口振りから、単純に焦らしただけの嫌がらせとも考えられるけど。
いや……今なら、ただ意味を考えられるけれど……精神的な落ち着きを待たずにその言伝を聞いていたなら……どうなっていたのだろうか。
「……おおばかもの……」
変わり映えのしない病室で、大した意味もない呟き。
大は、大小のおおきな方。
馬鹿は、愚かな事。者はそのままだれかを指す。
おおきなおろかをしたヒト……私は、愚かだったのだろうか。
だから、私は疎われたのだろうか。だからあの人はこの場に居てくれないのだろうか――だからあの人は、あの時あんなカオをしていたのだろうか。
「あの時。燐音は貴様の意識に呼び掛けを試みたそうだ」
「呼び掛け……?」
「肉から離れつつあった魂への、精神面での釘打ちだよ。肉の損害具合からすれば焼け石に水だとは理解していたろうがな」
精神に作用するチカラ……それは、確認している。でも、なんで?
「燐音も燐音の配下も、最後まで足掻いた。だから、途中で生を諦めたお前に相当憤ったのだろう」
あの人を救出しに来た一人、雨衣という配下の人の片腕と引き換えに、私はあの場で瓦礫に埋まる事無く助けられた。らしい。
あの人の命令――ではなく、強制力の曖昧な、私人の願いという形で。
……なぜ。
なぜあの人は、主としての権限を使わなかったのだろう。
ナゼ雨衣という人は、腕を失う、否、下手をすれば生命を失うリスクを負ってまで、個人の願いを聞いたのだろう。
そもそもなぜあの人は――私を助けよう、なんて考えたのだろう。
「ほうって置けなかったから、とか」
病室の隅、簡素な椅子に腰掛けた少年が呟くように言う。
存外に手馴れた手つきで果実の皮を剥く姿に、割と違和感を覚えないのは何故だろうか。
柔らかい印象を受ける笑みを浮かべた英雄、マグナ=メリアルスが言を続ける。
「ほら。特に理由なんかなくったってさ、なんとなくで、出会ったその人の笑った顔が見たくなる。って、無い……かな?」
首を傾げられても、私にはとっさの解答が思いつかなかった。
甘い意見。背筋に鳥肌が立つ、現実味を感じない甘い言葉。だとは思う。
理由も無しに誰が動くというのか。理屈も利益も打算も無く……本能、とでも?
「んー……そだな、例えば、このりんごを食べればどう思う?」
手際良く等分された果実が、硝子の小皿に乗って揺れる。
気の抜ける笑みを張り付けた英雄は、それを私に差し出していたようだが、横手で私と同じ顔をした少女に掠め取られた。
盗人は手掴みで一切れの半分近くを口にし、しゃくしゃくと咀嚼。
「――ふむ、酸味が強い。今一だ」
「……アルカ」
どことなくすわった目つきをしたアルマキス=イル=アウレカが、果実を容器ごと有無を云わさず私に押し付けてくる。
とっさに受け取ったはいいが、対応は解らず。
何が何やらと首を傾げて見返せば、肌の弱そうな顔は無表情の中に悪意的な何かを滲ませ、ふんと鼻を鳴らした。
「環境で人は育つ、という」
前置きを語り、講釈を垂れるように続ける。
作物を育み、味を熟成させるにも、一つの道程があるという。
その一つの結果が、今口にした酸味が強い果物だと。
すべらかかつ、専門用語にひねくれた自己解釈まで遠まわしに交えた解説は、目を白黒させて理解できてない様子のマグナ=メリアルスを置き去りにして進められる。
「――同様に、前提条件や様々な不確定要素を含めて、成長するものは結局、身を置いた世界や体験する事柄に適応していく」
農薬を撒いて育った野菜と、虫に食まれながら育った野菜が違うように。道筋で決まる。
経験した道筋に依って、人のパーソナルというのが決まる、と?
「それは大きな一因ではあり得ても、全てではない。知性ある生物は知性あるが故に、作物とは違うのだから」
一般的な凡例ならば、全く同じ環境で育った双子などが例にあげられる。
同じ境遇、同じ容姿に同じ親、同じ特徴。
総合して酷く似通ってはいても、全くの同一であった試しは無い。
味覚や好み、文武の優劣に交友関係。
必ず、少なからぬ差異が報告されているという。
肉の器は同一ではないなれど、同じと過程するならば、どこ。何が個と個を分けるのか。
解答は……いくらかは思い付く。
「……同じ要因であるが故の位置補正か、後天的不確定要素や、先天的体質、個体差による向き不向き?」
「わーすごいなナゥスラ、解ったんだ今の数十分における長話」
「大袈裟だなマグナ。私は五百と二秒少々しか喋ってないぞ」
「……ナゥスラっていうな」
とっさに口を吐いた言はよく響き、必然的に、割って入られた両者の視線を集める。
困惑があった。何を口にしたのか、私は。
いや、だって……合理的じゃない。名称が無いと、不便で……なんて……でも。
「……なるほど。うんうん、わかった」
「なら、どう呼べば良いのか」
どことなく、表情からして対照を感じる少年少女。困惑のまま思考を止めた私をじっと見つめる。見つめてくる。
二人してそんなに見ないでほしい。理由は……だって、その……
清潔なシーツで、熱くなってきた顔半分隠す。
羞恥というものだと蓄えた知識が回答するけれど、だったらどうすればいいの?
閉じた瞼の裏で、質の違う穏やかな顔をしたままだろうマグナ=メリアルスが続ける。
「君は人形じゃ嫌だから、番号で呼ばれたくないんだな」
「それが分岐点だよ」
被せるように続けられた言葉。分岐点。
個と個を分かつ……これが、このブザマな何かがそう、なの?
「お前はなんて呼ばれたい」
シーツを顔に押し付けたまま、首を振るう。
わからないわからない。わからない事ばかりで、思考はもう停止している。
「じゃあ、君は誰に――いや……今の君は、誰に会いたい?」
一瞬、思考共々、呼吸が止まる。
不思議と鼓膜の奥まで響くような声に、あいたいという台詞に。
あの人の顔が、いくつもいくつも、熱で火照ったような頭の中に浮かんだ。
「はじめまして。わたしの名前はアルま……っじゃなくて、」
短い髪の、顔つきが某アルマキスさんに酷似した女の子が、知性と妖しさを感じる容姿に似合わない、子供っぽいもたつきを頬の赤らみと見せて、言を訂正。
「わたしの名前は、ゆかり。と、言います」
東方の響きを感じる名前を、幼年じみた覚束ない口調で名乗り、驚くほどにさらさらな髪を揺らして一礼。
車椅子に座ったままで窮屈そうですが、それとは別の恥じらいと思い切りを感じて――という以前に、入室から説明無しにいきなりなこの妙な流れ自体に、困惑を隠せる私ではありません。
なぜ私と――いや、ひょっとしたらメインは横に並んだ九咲さんかも知れませんが、なぜ私が入室したのと同時に――月城と比べても遜色ない美少女様に一礼されてうやうやしく名乗られているのでしょう。
「……ありがとう、ございます。わたしを助けてくれて」
「……そうか、貴女はあの時の、中央の」
……あの、ひょっとしてわたくしってば、ヲ邪魔なのでわ?
どうにもやっぱりメインは、合点がいったらしき九咲さんみたいです。なのになんで私まで……?
居づらさを前面にした視線を、全体的に白い美少女さんの斜め後ろに位置する、にやにやした心身両方黒そうな美少女に送るも、えらく露骨に見て見ぬ振りされます。
「今日から、月城家の、お世話になる事になりました……ので、今後、も……お二人にもお世話になると思いますが……いたらない身ですので、どうぞよろしく、お願いします」
ぎこちないながら精一杯という憎めない感じのお世辞。
その内容に、九咲さんが生返事を返す横で、疑問符が浮かびます。
……二人? え、なんで私まで一度見上げて?
「……どうっ、かな?」
お母さんにできたての何かを誉めて貰いたがってるような、弾んだ口振りで月城に振り向くゆかりさん。
「ま、いいんじゃないか? 礼などは大体、相手に伝わってお互い満足すれば万々歳なんだから」
「はい。燐音」
それは逆説的に、伝わってない私はかやの外という訳ですか。なるほど。
って、あら。呼び捨て?
「何だ。友に名を呼ばせるのが不思議か」
「……そういう位置付け、という訳ですか」
眉を寄せて少し厳しそうな顔をした九咲さんの言葉に、緩めていた頬を少しだけ締めた月城が頷きを返します。
「そうだ。機密レベルは上から二番目と認識するように。鈴葉、無論貴様も口外禁止だからな」
は、はあ……月城がそう言うならばそうしますけど……
まあ、今一よくわからない状況に流されるのは毎度の事ですし。そう自分を納得させておきましょうか、うん。
「それで鈴葉。兎はちゃんと居るのだろうな」
「兎って言うな!」
背中のリュックから、怒鳴りながら跳び出たのは、ついさっきまで静かにしていたお兄さん。
リュックから私の頭の上に着地するというアクションは兎も角、言い回しは――何番煎じかは記憶力のよろしくない私では解りませんが、何番目かというくらいには繰り返されたやり取りの焼き増し。
それをよそに、白黒美少女コンビが視線を合わせます。無視するなーと吠える兎さんにびくりと肩を震わすゆかりさんは、まだ純真さが残っているのやもしれません。
「ゆかり、どう見る」
「……兎が喋った」
「パーソナルは衛宮 優理。精神だけこれに移植されたという証言がある」
「……脳髄の規格、否……小分けして、別の……でも明らか……異能……いや、リソースで…………」
ついさっきとは逆に、一切の前情報も無しに喋る兎を見たせいでしょう。
驚愕の表情のまま置いてけぼりにされてる九咲さんをよそに、ぼそぼそと何かしらの専門用語が美少女二人の間で飛び交います。
白い兎さんになったお兄さんが話題になってる事から、まあそっち方面の話題なのだろうとは思いますが……
「…………内部構造……なら……味深い……ンクルスか……で……剖の許可を」
「却下だ」
なんでしょう。先ほどまで子供のような無垢を感じた綺麗な目が、先日お兄さんを診察しにきた錬金術さんのそれとダブリました。
申し出を即答で否決した月城。少し間を置いて溜息ひとつ。
「……やはり"番犬"が必要か。だが」
「復旧中……酷くやられたから、一部機能はまだしばらくかかる」
何かの暗号とおぼしき会話中だった片方、ゆかりさんが、何故か冷ややかな目でこちらに視線を向けてきました。
「……お兄さん、あの人に何かやったんですか? こっち見てますよ」
「……見られてるのはお前だよ、鈴葉」
え、何故に私が睨まれるんですか? 今日が初対面の筈ですけど。
何か覚えはないんですか? 私なんかよりよっぽど顔が広いでしょうに。
「……燐音。まさかあの人、記憶が?」
「特定の事柄に関する脳内改竄は、鈴葉には――というより異能力者にはよくある事だ」
どこか沈痛なものを、月城の黒い瞳から感じました。
それも首を傾げる間に終わる一瞬の事。すぐに平常の威厳を、大きなお目々と小さな体躯に戻した月城は、何が何だかという風情の九咲さんに視線を向けます。
「雨衣。静流を連れて来い」
「はい。了解しました」
月城の命令に対し、何とかの犬さんを連想させる反射っぷりで応え、反転して速やかに退室していく使用人の鏡、九咲さんでした。
建て付けのよろしい扉が開閉する厳かな音と共に、場の上位者たる月城は私に――ではなく、その頭の上のお兄さんに視線を止めます。
「……"秤"から何かあったか?」
頭の上から、息を呑む音が頭蓋骨から伝わりました。
奇妙な、髪の毛の端がちりつくような空気。国守関係者にとって、口にするのさえはばかられるが故でしょうか。
秤――思い浮かぶのは、衛宮家の訓練に使われている遺跡で見た黒い靄のような何か。
少しだけ間を置いて、お兄さんが俄かな緊迫の滲んだ声をしぼります。
「……当主の方にね。事態の確認や釘打ちくらいだったらしいけど」
「そうか。ふむ」
何かの思惑があるのでしょう。裏をかいて無いのかもしれませんが、兎に角意味ありげに、口元に手をやって視線を伏せる月城。
目元が前髪で隠れ、表情の見えない顔で、厳かに一言。
「出てこい、秤の」
その言葉を皮切りに、こうこうとした人工の光に満ちた応接室から、立体的な影が現れました。
月城の背後から、影のような暗い何かが膨らみ、電光に晒されながらも蠢き、何かしらの形を整え、黒い靄がかったあやふやな何かが出現していきます。
そう古くはない記憶のそれと変わらない異常。あの錬金術師さんは異能力者と断定した、けれどよくわからないアンノウン。
心構えも何もない不意打ちの出現に腰が抜けた私とは対照的に、艶やかな髪を翻し、蠢く何かよりも小さな体が、靄みたく蠢く何かと面を合わせます。
たいして、何かの物語みたいに勇敢な素振りの月城は、私が言葉を失ってへたり込んでしまった黒い何かに、堂々と華奢な胸を張りました。
頭の上から私の前方に着地したお兄さんは固い口調で、秤の国守、と呟きます。
「どうせ聞いていたのだろうから、単刀直入に済ませよう。ゆかりに関しては俺様が責任を持つ、認めろ」
「……もウ少し、確実ナ手ガあルデショう」
得体の知れない何かが、不気味な存在感をもって音と声の中間みたいなのを発音します。
相対するのが月城や、以前の錬金術師さんほどのアレな人でなくば、あそこまで堂々とはできないんじゃないでしょうか。
少なくとも私は無理です。
「月城に人が集中するを恐れる、か? 狭量だな」
「秤ノ振れ幅ガ大きクナルノは、望まシクなイ」
「かと言って、片方から重しが欠けるのは論外ではないか? 件の情報解析には、それ位のリスクが――やめろゆかり、それに触るな。ばっちい」
月城の横で、黒い何かに手を伸ばそうとしたらしいゆかりさんの手が、月城に阻まれて止まります。
というか、ばっちいって。
なんと反応していいか解らない私を余所に、不服そうなうめきを返すゆかりさんの車椅子を器用にも二本足で誘導し、黒いのから遠ざけるウサギ姿なお兄さん。
色々と頭を抱えたくなるような光景ですが、そんな事は些細とばかりに、帝国でも最高峰であろう大物同士の意味ありげな対話は続きます。
「……りすクを考慮ニ入れテも、それヲ推シて情報解析は必要ダト?」
「そうだ。短期的に云えばリスクの分散に繋がり、同時に衛宮の問題についても何かしら手だてが見つかるかも知れない。長期的に考えても、有能な人員を引き入れた結果によれ利益、それに技術提供。悪い話ではなかろう?」
「……貴女側ニ天秤が寄リ過ぎル」
「それを言っては始まらんだろう」
かやの外という言葉が、今ほどにしっくりくる場は、そうないんじゃないでしょうか。私たち。
全体的に黒い両者の交渉はそれからも淡々と進み、たまに後ろで背景化した私たちに意味ありげな視線をよこしたりしながら、結果として月城が自分優位のままそれを終えました。
「……やっかいもの……わたしは、そう……」
「事情はよくわからないけど、気にしない方が良いよ。子供は迷惑かけるのが仕事なんだから」
秤の国守と呼ばれた何かが去って、名残とばかりにぴりぴりした空気を残しながら、しかし段々と抜けていきます。
抜けていた腰をいつもの要領で立て直す私の横で、片方から随分と邪険な扱いをされていたゆかりさんを、車椅子の手すりに腰掛けて慰めるお兄さん。
見目麗しい少女をに語りかける兎さんというファンシーそのものな絵面をよそに、いつの間にかこちらに向き直っていた月城の表情は、少しだけ罰が悪そう。まあ理由は何となく察せますけど。
「ゆかりよ。その兎の言うとおりだ」
「兎って言うな!」
「先も言ったが、貴様はまだ幼い」
認め難い現実に抗い喚くお兄さんを無いものとしつつ、この場において多分一番若い月城が幼さを口にします。なんたる矛盾でしょうか。
更に、よく学びよく生きろ、とか、お母さんみたいな事を口にします月城。
たまに思うのですが、彼女は本当に十代前半なのでしょうか。外見はそれ以下ですが、内面は……
「……りんね」
「よしよし、なんにせよ大丈夫だ。不安にさせて悪かったな、もう大丈夫だからな、ゆかり」
「……りんねぇ……」
微妙に甘ったるい空気が香る中、ノックの音。
返事を返す程の間を待って、私と私の頭の上に再び乗ったお兄さんの視線が向いた扉が開きます。
「失礼します。お呼びでしょうか、燐音さマ」
見慣れた長身のメイドさんが、従者さんの見本のような動作で姿を現します。
一礼して室内を目線だけで一瞥、月城に頭を撫でられるているゆかりさんの所で視線を止めると、発言の最後らへんの発音を、ほんのわずかに乱しました。
硝煙、血の臭いと断末魔の名残が、淡い月明かりの下に残る。
腰まで届く高めの草を大量に巻き込みながら、しかし草の原と呼ばれる地名の通りの地に負け、無力な獣の死体は生い茂る緑に埋もれて視界から消えた。
静寂が訪れる。
「……ふぅ」
装弾数と精度を犠牲に威力を高めた拳銃の弾を補給しながら、辺りの不穏な気配が完全に途切れたという事実に、一段落着いたと息を吐く。
「……兄さん、補充はいる?」
息を吐いて安全が伝わったか、背後からまだあどけなさが残った声がかかる。
フードの付いた若草色の旅人着に、似た色合いの外套を羽織った義弟が、シンプルに長いだけの鉄杖を片手に揺らしながらこちらを見ていた。
「いや、まだ余裕はある。他の奴は?」
「もっ、問題ないっス!」
絶叫しながら散弾を乱射していた馬鹿が、一人だけ甲高い大声をあげた。
初陣で虚勢を貼れる根性は認めてやってもいいが、微塵も説得力が感じない。そして報告の虚偽は処罰に値する。
明かりが必要ない、夜色の体毛が逆に徒となる月の明るい夜。
隊列を組んだ連中や、苦笑する弟の表情、見回せば山々の輪郭さえよく見える。
「まずは痕跡を消す。そして応急手当だけして、移動……腰を据えて手当て諸々だな」
錬金術師である弟は、戦闘こそ任されてないが、元々の体力が無い。
疲労の痕は見えるが……甘やかすわけにもいかない。錬金術による体調管理、銃弾補給をはじめとした諸々ができるのは弟だけなのだ。
視線で、他の面子を頼むと伝え、魔物の血肉と草屑で汚れた鉈を地面から引き抜く。
最前列の役目の一つである道のならし。
歩行の邪魔になる大量の草の腹を刈り、足で潰して掻き分け、さらに襲撃にも気を張りながら、夜の草原を行く。
どの辺りで休めるか、出発前の検討は済んでいる。ただ少し、飢えた魔物が多すぎた。俺だけでも二十は仕留めた。
時間に制限は設けられてないが、無理が出ない程度に速い方が良い。
重要性も危険性もあまり高くないとされるが、あたる人数はあれど、玉石混交の寄せ集め。
そして任務の分類としては偵察。さらにこちらは非合法組織。何らかの敵性に気付かれるリスクは、少ないに越した事はない。
それから数分歩いた程度の地点で手当てを済ます。
死肉を目当てに集う他の肉食を騙せるのも僅かばかり。一時休止もそこそこに、目的地に向けて移動を再開する。
目的地……さて、予期せぬ魔物の襲撃でやむなく放棄したという、ボロ屋という名の基地だが。
その魔物の駆除自体は、弟が錬成できるアイテムだけで十分だという。
なら偵察でなく討伐ではないかと命令してきた当人に聞けば、素直に討伐できそうならそれで良し、でも少しでもアヤが立てば――と含んだような……いや。
あれは、そうだな。そういうものの確証どころか判断材料の一つも無いのだろう。
魔物も単体であり、群れるような性質の種でもない。何か不振な材料があるわけでもない。
なのに何か――そう、直感だろう。何かの予兆じみたものを感じたが故の、及び腰の判断。それに近い気がした。
あの時の、妙に眉を寄せていたキャリーの顔が明滅し――いい加減、鉈を振るう手が地味な痛みを訴えはじめ、思案に傾けていた視点を現実に戻す。
風に細めた視界の端で、裂かれて舞う草の隙間から、夜に浮く月が見えた。
「……影響された、か?」
狂気と安寧の象徴でもある月を見て、ある種根拠のない不安を感じる。
嫌な予感がするのは、果たして杞憂で済むのか。