常識と非常識
中央国ヴェルザンドを地図から見て丁度真っ直ぐ、同時に遥か北に位置する都市がある。
辺境に限りなく隣接しながらも、立地的な意味合いで皇国の最重要軍事拠点に近い。
巨大な軍事力と精鋭を集めた城塞都市、トールズという。
年中雪が降り積もるここは、不毛の寒冷地を万を超える血に染めて切り開いた結果として、砂の国と並ぶ程に過酷な自然と、比例するように屈強な魔物の脅威に今尚晒され続けている。
その証拠とばかりに、名のある錬金術師が築きあげたであろう凍える城壁は、崩れないまでも何度となく打ち砕かれ、補修された跡があった。
"視る"者が視れば、そういう粗がよく目につくだろう。そうでない者にさえちらほらと目についたのだから。
また、真新しい血肉の香りも。昼か夜かも判別できない凍える城壁の上で、永久に吹き荒んでいるのかとさえ錯覚させる真白の猛威に、わずかばかり紛れていた。
だからどうというわけではないが。停戦の影響で僅かばかり緩んでいる程だと、旧知の傭兵の副官が笑いながら語った弊害の一部だろうか。と部外者の視点で勝手に考察する。
ごうごうと、耳に優しくない雪嵐で掻き消える程度に極僅かな嘆息を一つ。
高所だからと連想される絶景も、氷嵐に閉ざされた中。
詰らないなと呟きかけ、聳える城塞の内壁に傾けていた体重を正す。
ふと、人の気配がしたのだ。それはいい。
だが、不自然だった。何も無かったというのに、隠そうともしない気配が唐突に出現した。
少なからぬ警戒を込めて、時間と環境で冷え固まった骨肉に気を通し、気配の主に視線を向ける。
遮蔽物は無数からなる雪嵐のノイズ。しかしそれが目視の妨げにしかならない程度の距離に、小柄な少年が居た。
寒波を防ぐ最低限の外套で頭まで覆ってはいるが、しかし素顔は隠さない程度の薄い防寒性。
この土地の過酷さを考えれば命知らずとしか思えない薄着の、まだあどけなさを残した、見覚えはあるが面識はない少年。
「どうもはじめまして……樹さんですね?」
豪雪の中、それに負けない程度に、不思議とよく響く声が会釈と共に響く。
それに応じながら、少しの間に積もった雪を払い、肩をすくめた。
雪の嵐に曝されているハズの少年は、幽玄のように雪の蓄積が見られない。
「……これは、大物が来たものだな。ヴェルザンドの蒼魔とは」
軽装なのに寒さが見られないのは、持ち前の異能の賜物か。
最も新しい異能力者にして停戦の英雄は、付けられた異名を呼ばれ、わずかばかり不快気に眉をしかめた。
失言だったか、とデリケートが過ぎる異能力者の少女の顔が脳裏に浮かんだ。
「……少し、場所を移しましょう。転移するにもここは目立ちます」
「了解」
待ちに待たされた西方脱出の手引きだ。これという異論は無いので首肯する。
警備の死角など無いに等しい歴戦の城塞都市。内部協力者である傭兵隊の協力が無ければ、こういった手引き自体が不可能だった。
事を荒立てないのが何より優先される。公的にも、個人的にも。
「……行くのか、樹」
「ああ、世話になったな」
「いや、こっちとしても大国同士が拗れるのは面白くないからな。気にするな」
要塞の壁と判別が困難な仕込み扉の向こう、肉厚でいて濃厚な気配が淡白な声を出す。
僅かに裂けた隙間から、厚い防寒着を着込んだ筋肉質の男が、一応の警戒を込めて覗いてくる。
この時期、要塞の警護を依頼されていた、小国の名高い傭兵団の総大将にして、野に在る自由戦力でありながらの神器保持者。
西で名を知らない者はいないとさえ言われているが、顔も知っていたのか。
目を合わせた年若い英雄が、驚愕に目を剥いた。
「あ、えっ、あ、う、ウル? ウル=アスガド? 鋼の傭兵っ!?」
顔を知られているとは思っていなかったのか、異名と名で指さされた女王国の傭兵将は、暗がりの中で太い眉をしかめた。
まあ、名声等に興味をもつ男ではないから、訝しんでいるのだろうが。
「そうだが……俺を知ってるのか?」
「わぁ、うわわっ、本物?! わ、わあ、わぁわーっ」
「お、おい……」
一方は、きらきらした目だ。声を潜めながらも感激した風に拳を握り頬を紅潮させるその姿、英雄というよりは、英雄に憧れる少年に見える。
その鋼の傭兵なんて呼ばれる傭兵の英雄は、無愛想ながらも親しい者にはそれと解る風に、こちらに困まったような視線を向けてくる。
古い馴染みの体たらくに、小さくはない溜め息を耐寒マスクの下から吐き出す。
「……あーごほん。マグナ=メリアルス殿」
「あ、あの、よかったらサインを……あぁ無いや……はっ、樹さん?」
何か慌ただしく外套の中を手探りしていた少年に声をかけた所で、ようやく正気に戻ったのか。目をしばかせながらこちらに視線を向けてきた。
「場を移すのでは?」
「そうだな……早く行った方がいい。流石に異能力者を見逃したのがばれるのは、俺達としても少し不味いしな」
「いや、少しどころじゃないんだけどね、大将」
俺に同意する傭兵の背後、半ば開いた扉の奥から、傭兵団の副官の声がした。
まあそれはそれとして、現状にもようやく意識が戻ってきたか、少年は年相応に弛んでいた表情を締める。
「す、すいません、ちょっと取り乱してました」
立ち話の愚を悟ったらしく、バツが悪そうに深々と一礼してきた英雄の少年。
非現実的な力を得て、年相応の驕りが見えないのは、そういう本質だからか、代償だからか。
まあ、俺が気にする事じゃないが。
「それじゃあ、樹さん」
「了解」
「あー、やっぱいっちゃうんだ、樹さん」
「未練がましいぞナナ」
未練がましい声を背に、早朝の除雪の上からもうかなり積もった雪を踏みしめる去りがてら、視線は向けずに背後に呟く。
かつて所属していた傭兵団の旧友に。
「じゃあな、ウル」
「ああ、またな。樹」
雪嵐に紛れた片方だけの返答を背に、断崖に近い城壁の階段を登る。
見られている気配は今の所無い。しかし、転移と聞いたがどうするのか。場所を確保するにも足がつくのは問題がある。
疑問に思ったのを測ったようなタイミングで、少年が振り向き何かを手渡してきた。
一見してチョーカーのような物……だが、幾何学模様が特徴的な配列で刻まれている。
「……これは、発掘品?」
「模造品です。首に付けて幾何学模様をなぞってください。他者の認識が阻害できます」
マフラーを捲り、吹き付ける寒風を堪えながら指示通りにしてみた。
俺の首にはサイズが合わないように見えたが、どういう仕組みか首に回すと伸縮し、丁度いいサイズになった。
不思議アイテムである事はわかったが、他人視点での効能の有無を確かめる術は無い。
先ほどマグナ=メリアルスが唐突に現れた説明にはなるし、ウル達の前で渡さなかったのは秘匿のためだとして……まあいい、アテにする他無い。
「それとこれは特別式だそうで、効果は高いけどそんな長持ちはしないらしいから、できるだけ急ぎましょう」
「了解……足跡の偽造はどうしますか?」
「……あ、えーと、お願いします」
特別式、という事は制式仕様に近い物があるのだろうか。
どうにもならない疑問を脳内だけで押し込めながら、少年の分まで痕跡を偽装しつつ、後に続く。
そして城塞の端に立ち――そこから少年が無言で、制止する間もなく颯爽と飛び降りたのをしばし呆と見送る。
なんの冗談でもなく断崖と形容される、トールズ自慢の僅かばかりの反りもない直角の城壁の上からである。
身投げ自殺じゃあるまいし、流石に驚いた。
不吉な音をたてる吹雪のせいで地面付近がどのような状態なのかまるで解らないが……まあ冷静に考えれば大体百と少しで、下は膨大な積雪。地図の位置関係も頭の中で確認。
統計して問題はあるまいと判断し、続いた。
茜色の空の下、北風で生じたざわめきが一時収まった、森と草の隙間。
草木茂る生命の匂い澱ませて、ものを言わなくなった躯が飛沫を吹いて転がる。
生が死に代わる、それはそれだけの事。それに何を思うかは、また別の話。
断罪台に該当する剣を地に、左しかない手の指で十の字を切った。黙祷の直後。
新しい匂いが風とやって来た。死臭で濁ったこの場に、若草のような精を感じさせる匂いが。
視線を向ければ、アレを追ってきたと思しき、見覚えのあるメイド服の少女。
あどけない顔に驚愕と、ナニカが入り混じった表情を浮かべている。
異能に片足踏み込みかけた体捌きとは裏腹な、その眩しい程に素直な視線は、私とその足元に転がる首の離れた死体に向けられていた。
夕暮れの朱に染まる――ソレの血に濡れた剣を一振るい。朱に染まった草木に新たな飛沫を飛ばす。
「久しぶり、という程でもないか」
「せんせ、え、な、んで? あなた、え?」
アレの弟子と伝え聞いた少女は、師譲りの俊足を完全に使いこなして制止し、場を理解しようと努めている。
顔色を変え、肩を震わせる姿は、戦にも血にも死にも慣れていない、素人のソレに見えた。
さてどうしたものかという自問に――糸操りの旋律が望んでもいない面倒な回答。
それこそ素人でも解る単純な図式に、内心で嘆息。
ちょっと前のリプレイ。しかも一目で分かる程度に、遥か格下の、子供相手。
しかも――確かこの子の筈だ。まだ堕ちていない彼女の、何というか複雑な間柄の子は。
気が進むわけがない、と生前の残滓が胸に痛みを与える。
それとは無関係に、練達の剣腕が手慣れた流れに沿い、刃を向けた。
幾千幾万の死に汚れたか解らない、今尚濁った刀身に反射する夕暮れの紅が、やけに目につく。
「な、ぁ、かっ、片腕……あの時のシスター!」
一拍遅れ、困惑と驚愕覚めやらぬまま、無手で身構える少女。
というか、今思い出したのか。記憶操作云々とあの糞錬金術師が言っていたような覚えがあるのだが。
……どういう?
「お前、何で! 先生をっ!」
「機密を洩らした蝙蝠を斬る。そんなに不思議かい?」
疑問を押し込め上辺だけで応答すると大まかな予想通り、夕暮れで赤みを帯びた蜂蜜色の瞳に、深くも若い怒りが混じる。敵を敵と定めた目。
やはり、酷く中途半端に素人臭い。習いかけた形跡は伺えるが、熟達には遠い。そんな未熟な姿勢。しかし……
曖昧に感じた違和感にこっそり眉を寄せながらも、限定的な速さだけならばこちらを上回るであろう少女に威圧を送る。
「っ!?」
硬直。
感じた印象の通りに感性豊からしく、煽られた敵愾心と突きつけられた未知の驚異の切っ先に揺さぶられた、狭間でいて無意識の葛藤。
気圧に付け込むように――というか普通に付け込んで――浅く踏み込み、呪われた聖剣を一閃。
音を置き去りにした一振りは虚空を薙ぎ、十歩程先の少女が竦んでいた空間の、更に先に立つ茜色の樹木を裂き、その先にある木々を裂いた。
――ほう、と率直に感心の息を吐く。
本気とも全力とも遠いとはいえ、飛ぶ剣戟を避けられた。
切断された事に今更気付いたように傾き始める木々に、タイミングより純粋な速さで緊急回避に成功したままの格好悪い姿勢で目を剥く少女。
見たことが無いのだろうか。まあそれなりに珍しい超常だとは思うが――無垢な姿に知らず笑み、
「流石、アレを先生と呼ぶ事はある」
良い脚だ。と素直な賞賛を贈る。
そして威圧的に一歩。魔物ならば間違いなく背中を見せる殺意もブレンドし、わざとらしく剣を正面に構える。
出来ればこれで退いてくれという内心の願いに現実は今日も非情であり、好感のもてる少女は果敢に無謀であった。
「こ、んのぉおおおおお!!」
瞬時に体勢を整え草地を蹴り、咆哮をあげながら疾く緩急つけ、且つ複雑に駆ける。
見事と言いたい。人の目を騙すに最適な走法と、それを成す技量と反射神経、目もか。
程よい努めと頭抜けた適性を伺える、能力者じみた戦速。その一芸は認めよう。
しかし、届きはしない。
一呼吸で潰された距離と、視界から消えたその姿。しかし背後に踏み込みながら気配は消せておらず、敵意も露骨。
一流未満が相手ならば、十分に生かせただろう一瞬のバックアタック。靡く草の頭を苅るような、隻腕の死角でもある右からの足払い。
視界の外からの、しかし予測の範疇でもあったそれを剣の腹で難なく受け、地に立てた切っ先を軸に反転。
――?
僅かな、しかし早急とは感じないが名状し難い違和感に一瞬の制止。
しかしとりあえず問題は見当たらないと切り捨て、返す刃で意識を苅ろうとしたが――刹那のタイミングで跳ね飛び強引に後退される。困惑が仇になった。
瞬時以下の判断で対至近から思考と流れを切り替え、剣戟を"飛ばす"。
空気を断って地を裂き、苔のこびり付いた岩肌諸とも後ろに居た魔物を抉る。
アレの血に釣られて寄ったのだろう森林熊の断末魔を背に、小柄な少女がそのアレに近寄り手をかけひっつかみ。
……ん?
首の無い小柄な骸が、同じく小柄な体躯に振りかぶられた段階で、先とは違いより具体的な違和感。予測との相違。
え、あれ?
「ーッつェええい!!」
投げた?! 投げるか普通、いや気付いた……気付いたんだよね?!
さすがにちょっと動揺しながら、しかし動きは迅速に、結構な勢いで投げられた死体を剣の腹で殴り落とす。
死後硬直間もない死体が、鮮血ぶちまけ勢いよく草地に転がるのを脇目に、息を一つ。
悠然と視界を回すと、相対していた少女の姿はどこにもない。
遠く、覚えてろよーとか揺れる木々と急速に遠ざかっていく間抜けな声と気配。
逃げられたか、いやそれは誘導通り。
元々は情報撹乱の一貫。知らせる口は返し、追跡の目足は絶つ。
最低限は成功したから、傀儡としてそれはいい。
だけど。
「……投げるか、ここまで追い掛けてきた程に慕っていた相手と、全く同じ姿をした死体を」
脇に転がる死体は、人のそれでは有り得ない色の血で草花を汚している。
茜色に誤魔化されてはいるが、よく見れば赤とは違う魔性の血は、人外の証でもあった。
……意表を突く、足止めという利には叶っている。
しかし、命がかかったとっさの危難で、出来るかどうかを考えれば話は違う。
無垢な表情に素直な動き、しかし――少し、評価を改める必要があるね。
「どうだい、私の生徒の――げふっ」
知覚の外から空間転移でもしたような唐突さで現れたのは、転がる死体と同じ顔の人。
「……出たか蝙蝠」
ほっとけばそのまま死にそうな顔色、明らかに内蔵がやられてる部位を手で押さえ、台詞途中に勢いよく吐血し、遺体と全く同じ造りのコートを汚す。
その色は、茜色に染まり赤味を増した紅。
紛れもない人間でありながら常識を越えた駿足の持ち主は、顎の大部分を真っ赤に染めたまま、道化のように笑んだ。
「不可解そうだね。ついでに不愉快そうだ」
喉の奥が詰まった声に、友好とは真逆の意を込め鼻を鳴らす。
一々、意味が分からない。何故そんな有り様で振り切れる相手を連れてきて、下手な芝居を打たせ、ついでとばかりに引き返してきた。
理解できない行動をするのは勝手だが、何のためにこんな不愉快な茶番に私まで付き合わせたのか。
月城 聖の旧知だというが立ち位置さえ曖昧なソレは、ただ不気味に笑むばかりで重要な事を何一つ語ろうとはしない。
しかしその視線は、よく回る弁以上に分かり易く、一点に止まっている。
私の手元……神器を?
そう言えばさっき妙な感覚があったなと思考を傾けた隙を狙ったように、相対していた小さな影は居なくなっていた。