お兄さ……ん?
妙な沈黙が広がっていた。
部屋から鈴葉くんと一緒に出て来たリッちゃんと、どこからか唐突に現れた先生。
二人の目が合ったと思えばリッちゃんは一瞬膠着し無表情。先生は人をくったような笑顔。しかしリッちゃんの方は異様に鋭い眼光で、周囲の言まで威圧するように射抜いてる。
胃がキリキリと痛くなるような威圧と沈黙は、どちらともなくリビングっぽくおっきなテーブルが置かれた部屋に歩いていくまで続いた。
「……何故貴様が衛宮家に居る」
沈黙は、重苦しくも威圧感溢れる声で打破される。けどそれは重圧からの解放とイコールでない。
地響きが聞こえてきそうな、地震の直前を直感した時の妙な感覚を際限なく増大させたような。
直接向けられてないのに、胃の奥が軋む迫力。
美人が凄むと迫力が半端無いというけれど、それだけとは思えないなにかを感じる。
ていうか何故こんなに不機嫌?
何かアリーちゃんの反応も妙に警戒してる感じだし。同じ外部協力者的なアレじゃないの?
「そんなに睨まないでよー。可愛い顔が台無しだよー燐音ちゃあん。ほら、あれ。あの時はわたしが悪かったからさー」
「……気安いな、不愉快だよ。下郎」
先生、あんた何をやらかしたんだ。リッちゃんがこんな殺気立つって、本当半端ないんだぜ?
絶対的な極寒さえ纏うリッちゃんに便乗し、へらへら手を振ってごめんごめんと反省のかけらも感じない態度で謝る姿をさらす。
相変わらず、どういう神経してるのかこの人は。
「いいじゃない。君のものになったお人形さんは壊れちゃないんだから」
「俺様の下僕を人形呼ばわりするのは止めてもらおうか」
……人形? え、下僕? どっち? てか何の話だか……
「いや、感心してるんだよ? あの状況でよくどうにかできたなってさ。ビックリだよ、ほんと」
によによと細められていた眦はそのままに、先生の目の温度が下がる。視線は感じないのに、見ているだけで薄ら寒くなってくるような。冷たい目。
……なんて目で。リッちゃんを見るか。
「……アリューシャ。好きなタイミングで"喰"って良し」
「ん」
対面のリッちゃんは肌をちりつかせる威圧感そのままに腕を上げて宙をさすりながら、隣の席にちょこんと座るアリーちゃんに何か暗号らしき言を告げる。
言葉少なく肯いたアリーちゃん。それに何を感じたか頬を少しばかり引きつらせた先生。慌ててテーブルに身を乗り出す。
「いやいやいや、流石にそれは勘弁してよー。お話できなきゃ情報提供もできないよー? 燐音ちゃんに前の"月城"みたいな真似できないんだから」
「道化の真似事も結構だが、貴様の命運は既にアリューシャの舌先に在る事を忘れるなよ」
殺気さえ孕ませた、脅しじみた口調。てか舌先って。
疑問を挟むような空気も無く、ちぇー、とだけ子供じみた反応で頬を膨らまし、椅子の背を軋ませる先生。少なくとも貴族相手に貴族宅でやったら大体は打ち首だろう反応を平然と。
……どういう間柄なのさ。二人とも。
お手伝いさんの姿は何故か無く、お茶さえ運ばれてこないという上流階級にあるまじきなんじゃないかなと思える席で、緊張感を通り越した感が凄まじい空間に当てられ、冷や汗を垂らす。
横目とななめ正面でリッちゃんと先生交互に観察しつつ、何がなんだかどうしたもんかと何かを口にしかけた所。
「……そういえば舞、貴様の脚も速かったが。この下郎と何か関係が――」
「舞の脚はわたしが鍛えた」
リッちゃんから視線そのまま、意図的に無視された形の先生がめげずに答えた。
存在するかどうか微妙すぎる胸を張る先生に、リッちゃんは目を細めた。
妙な圧力を感じる重たい視線を一瞬だけあたしを一瞥。視線は問う。本当か?
抗う選択肢も思い浮かばず、言っちゃいけないとしても言わされてたんじゃないかなと思える空気の中、首を傾けた。
「先生は、逃げに関してあたしに色々教えてくれた人だけど……リッちゃんは?」
「とある事件で下僕を殺されかけた」
え゛?
予期せぬ剣呑な間柄に動揺を隠せないまま先生を見れば、否定する素振りもなく、いつもの笑みでなんでもないように肩をすくめた。
あたしとしては言葉もない。何を言うべきなのか、何も言わない方がいいのか、真っ白な思考で戸惑うばかり。
「おまたせしましたー……ってあれぇ?」
異様な空気を醸すリビングルームに場違いに陽気で間延びした声が響く。
扉のない通路との境から顔を出した鈴葉くんは、異様に似合うエプロン姿のまま、首を傾げるのだった。
「相変わらず貴様の料理は、料理という概念への挑戦状だな」
とは、鈴葉君いわく野菜炒めらしい物体を咀嚼する燐音君の言。
やや緑っぽく形が崩れてる以外はショートケーキにしか見えない野菜炒めは、いったいどういう構成をしているのか。咀嚼してる音は非常に野菜っぽい。ただ段々と粘着質になっていくのは何故なのか。
一口だけ口にした舞君いわく、「マヨネーズに十日くらいつけたなんかの魚と土を混ぜてなんげふぅ!」という風な味らしい。
「前は親子丼らしきものを素麺と言い張り、その前は焦げた卵焼きにしか見えないナニカを、むぐむぐ」
「あはは、月城は冗談がキツいですね。原材料からして違うじゃないですか」
ならさっき舞君がテーブルにぶちまけたうごめく深緑色のメルヘンが何なのかと問いたい。
「キツいのは貴様の頭の中だ。しかし、何なんだ今回のは。噛めば噛むほど不快な粘りが出てくるんだが」
「あはは、野菜炒めに粘りなんてあるわけないじゃない。こんなおいしいのに」
「そういうのはまず、味見の段階で自らの正気を留められる物をつくってから言うのだな」
ああ、やっぱり彼正気を失ってたんだ。なんか笑い上戸な酔っ払いに似た目つきだし。
よくよく正気を無くす子だなあ。正気とあっちをいったりきたり、逆に感心するね。燐音君がなんかしてんだろうけど。
しかし何だかんだ言いながら、一つの皿と一つのフォークで野菜炒めだかヤサイイタメだかを片付けていく悪食と正気を失ったコンビ。オナカのよろしい事で。
「鈴葉、お茶」
「はい、月城」
ヤサイイタメ制作者の手で煎れられたというお茶は、何故か味も見た目も至極真っ当な代物だった。
顔半分以上隠れそうな湯呑みを傾け啜り、息を吐くと背中の鈴葉君に湯呑みを手渡す燐音君。
私の前とは雲泥という比喩さえ不足でしかない柔らかさとあどけなさが首を傾け、何らかの合図を送る。
察したらしい鈴葉君、笑みっぱなしの顔を更に綻ばせ、ショートケーキにしか見えないヤサイイタメの一切れ――と形容すべきなのかどうか分からないけど――を刺したフォークを手に。そして。
「はい。あーん」
「ん」
親鳥を待っていた雛鳥さながら。
彼の手で運ばれた糧を口にししゃりしゃりと咀嚼する燐音くん。
その姿は愛玩動物じみていて、素直に愛らしいと思う。
「月城」
「んぐ。なんだ」
「なんでもない。呼んだだけだよ」
「……そうか」
けどなにきみたち。
子供同士というには微妙な年頃に差し掛かる手前の十代前半。
故にか。それとも喧嘩らしきものをしていた反動か。背もたれに寄りかかるが如く少年の胸に後頭部を押し付ける程の接触過多で、見ているこっちがやってられない空気を醸す。
私を含む傍観者、というか只たんに居合わせただけの三人の反応はまさに三者三様。
発育と精神年齢に不安が付きまとう馬鹿生徒はやや頬を赤らめわーわーと小声でテンション高め、その馬鹿よりミニマムかつ危険なお子様は横目で観察するようにガン見。
そして私はげんなりしつつ、何とはなく目につく全てを破壊したくなる刹那的衝動がふつふつと。
というか何故こいつらは、これが完全体です、とばかりに一つの椅子に二人して。
何か燐音君が適当な言い訳をしていたような気がするけど、今の安らいだ表情からして、それがやっぱりただの言い訳だろうと声を大にして言いたい。
「……舞?」
内心で蓄積する負念を煎れられたお茶の苦みで誤魔化していると、馬鹿が動いた。
おもむろに燐音くんの髪を一撫でし、怪訝な表情を返す燐音くんに、その下に敷かれた少年と大差ないくらいに緩みきったにやけを浮かべる。
「リッちゃんて、どちらかと云えば耳の方が赤くなりやすいんだよねー」
ああ、赤いのか耳。実は恥ずかしかったのかな。
鈴葉くんの方は羞恥心トんでるっぽいけど。今は。
「……それがどうした」
「いやいやなにもー?」
うざったい仕草で後退し、さして上質でもない椅子に座るとごゆっくりーとかほざく馬鹿。からかう要因を見つければ発現する鬱陶しさが遺憾なく発揮されているね。
手下の不出来にかそれとも違う何かか、瞼を落とし息を吐く燐音くん。それを案じたように鈴葉くんが声をかけ、何やら再び近寄り難いというか直視に堪えない会話を展開する二人。
ひょっとして新手の精神攻撃だろうか。燐音くんの方はその辺ついでに狙っててもおかしくないなあ。
いや、案外それを無意識の大義名分にでもして、ここぞとばかりにくっついてるのかな? かわいいもんだね。けっ。
……あーあー、いい匂いですとか鈴葉くんや。正気に戻った時の反応が楽しみだわ、こりゃ。
白い体毛に長い耳、真っ赤なおめめに、口から少しだけはみ出た前歯。
飼育されたそれより野生に近いのか、ふわふわでもこもこながらしっかりした筋肉が見てとれる。しかして小柄なサイズはえらく抱き心地良さそうな。
それはどっからどー見ても、兎さんだった。
それが何故か、ここ衛宮邸内リビングのテーブルの上に鎮座していた。
「うさぎ?」
「うん。君も大好きなうさちゃん」
「え、いやまあそりゃうさぎ好きだけど。ちっさいし可愛いし、ふわふわしてるし美味しいし」
「まあ、君はそういう子だよね」
何か引っ掛かる目だね先生。
あ、何か美味しいしのところでちょっと兎に距離おかれた。頭いいんだ。
どうでもいい発見にちょっと身を乗り出して観察していると、
「……で?」
どことなく膠着した風に体を固めるふわもこを怜悧に一瞥するや、より一層冷たくなった視線であたしを縫い止め、次いで先生に向けるリッちゃん。
というのも、標準的というにはやや小綺麗な気がする兎さんをどこからともなく唐突に出したのは先生なのだから、まあ当たり前な視線なような気がしなくもなかったり。
「うさちゃんだよー」
「視れば解る、ソレの中身も。で、それがどうしたと聞いてるのだ」
「あ、わかっちゃう? さすがわかっちゃうんだ。鈴葉くんを尻にしいてるだけはあるねー」
「そんな事はどうでもいい」
正気に戻ると同時に無言の絶叫をあげ、しかしほぼ微動だにせず、リッちゃんにのし掛かるとか負担もかけず、器用に椅子とリッちゃんに挟まれ至福の笑みを浮かべ首を真後ろに傾け気絶したままな鈴葉くん。
それをどうでもいいとかリッちゃんに言われ、やっぱりほったらかしなまま意味あり気な対話は続く。
なんていうか、やっぱりそういう役回りなのかな。この子。
「衛宮 優理は生きている……貴様はあの日、そう言っていたが」
衛宮……ユウリ? 確か、鈴葉くんのお兄さん? 行方不明だって……
それが生きてる、って。先生が何か知ってる? でもなんで?
「まあ、あの段階より以前。ほんの十何日か前までは、ちゃんとしてたよ」
「状況が変わった、と?」
細められていたリッちゃんの目がより鋭利に尖り、偽りも誤魔化しも許さない、と視線だけで告げて脅している。そんな気がした。
少女じみた若々しい唇が皮肉気な曲を描く。嘲笑に似通った笑み。
頑で怜悧な敵意を向けるリッちゃんに対し、それだけの反応。
間に挟まれた形でテーブルの中央に固まってる兎が居心地悪そうに震えているのは野生の感か。
怖いもの知らずを見守る心境を味わいどうなる事かと固唾を呑んで場を見守る中、先生が人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべたまま、言う。
「ぶっちゃけて言うと、衛宮 優理の体はお子様には説明できない邪悪な儀式の対価にされて、もう存在してないんだ」
へ?
「……な、」
「なぁんだとオオオオオオオぉォ?!」
「……?!」
「――ふわっ!?」
怒号、絶叫、咆哮。
それは不意打ちじみた効果を発揮し、我関せずとばかりに兎さんを見つめていたアリーちゃんをひっくり返し、気絶していた鈴葉くんの意識を揺さぶり起こすに足る音だった。
……って、え。えー、え?
発声源を見る。みんなして見る。
目を白黒させていた鈴葉くんも、こめかみを指先でこねるリッちゃんも、テーブルから頭の上半分だけ出したアリーちゃんも。
「どぉおいう事だ貴様アアアア!?」
二足でテーブルの上に立ち、短い前足の片方で苦笑する先生を差し、これでもかという程に絶叫している兎さんを見る、観て、すごい視る。
え、なにこれ。
「ようやく、器との定着を取り付けたみたいだね」
「……心底から、ツッコミを入れる事に必要な要素を補わせる。異能は健在……高度な器、いや、そうか。ならば」
ひとり納得してるリッちゃんさん。君の零距離背後で疑問符を乱発してる子にもわかるような説明が欲しいです。
「悪い人に浚われたおにーさんは、うさちゃんになっちゃいましたとさ。ってコト」
「ふざけるなきさっ、くっ、何故私がこんな姿に?! 貴様、私に何をしたアアアア!!」
「え、えっ、えぇ?! この声、え、うそ。お兄さん、です?」
届かない前足で頭を抱えようとする白兎に鈴葉くんが声をかけると、何故かテーブルの上で縮こまってぷるぷる震えだす兎さん。
ていうか声、同じなんだ。なんか妙に低い声だなとは思ったけど。
「……見るな」
「お兄さん? お兄さんなんですよね? え、でもなんでうさぎさん?」
「こんな姿の私を見るなああーっ!」
「おっ、お兄さあーん?!」
二本脚のまま走って逃げようとして、普通にテーブルから落下してダメージを受けたらしい。軽い肉が打ちつけられる音と色んな意味で痛々しいうめきを漏らす衛宮のお兄さん。
あんまりな有り様にリッちゃんの下で悲痛に手を伸ばす衛宮の弟くん。でもリッちゃん押しのけない。
なにか、愉快な絵面が展開されているような。
これを狙っていた。とでも言いたげな笑みを刻む先生は、頬杖ついてにやにやとその様を眺めていた。