第2話 うなり
朝、起きて、背伸びする。
うーーーん。
両手を挙げて、伸びをする。
ピンク柄が好きなパジャマ袖の向こうに、目覚まし時計が見えた。
6時30分。
うん、予約どおりにスイッチが入る。
大好きなかなちゃんの曲が流れてくる。
今日も、一日が始まる。
天気よさそう。
でも、いやだな。
今日の学校。
現国って、小テストじゃん。
先輩のケイさん。会いたくないな。うるさいし…。
もうちょっと寝ようかなあ、なんて思う。
神様、今日も守ってね。
猫が入ってくる。
ベッドの中で抱きしめる。
飼っていた猫があったかい。
ブランケットを被ると、ニャーって声が聞こえた。
それがなくなった。
朝はくる。
だけど、律子の朝は冷めちまっている。
静かだった。
看護師がやってくる。
「起きた?」
カーテンを開けて、脳外科の看護師が入ってきた。
「律ちゃん。おはよう。元気?」
「誰?」
「今日の看護担当の泉水です。点滴の交換しますね」
看護師が右腕を持ち上げた。
コックを閉じる。チューブを差し替え、コックを開いた。
ベッド下のギアを回し、ベッドを起こす。
看護師の泉水さんが律子の体を起こしてくれた。
「こんなかっこで、ごめんね」
顔半分を覆う包帯、頭を覆うネットを揺らして、僕を見上げる顔。
腫れている。顎から頬にかけて、腫れている。
入院7日目。まだ、傷だらけだ。
心も傷だらけだ。
あれは5日ほど前だった。
入院して2日目に見舞いに訪ねた。
「律子。彼氏が来てくれたわ」律子の姉が案内してくれた。
「あんた、誰?」そう言われた。律子は傷を抱えて寝ていた。
……あんた。
……誰。
……あんた。
……誰。
まだ会話にならなかった。
「頭が痛い」
バイト先のフードショップのこと、部活のこと、家のこと。
同じ話を回しているだけだった。
「頭が痛い」
頭以外にも傷がある。
肩甲骨も骨折している。
でも頭だけを痛がっていた。
「ここから出して」
「ねえ、出して」
痛む場所が多い。
人は多くの苦痛に耐えられない。
その中からいくつかだけを選んで、痛いと感じるらしい。
人間は、たくさんの痛みを感じることができないらしい。
しかも、律子は暴れ始めた。
5分も話していない。
自分の居場所もなかった。
自分の名前も呼ばれなかった。
その日は、それで終わった。
名前すら、呼ばれなかった。
今日は、入院7日目。
また、お見舞いに来た。
同じクラスの美津子が見舞いにくるから、呼ばれた。
「一緒に行こう」と誘われた。
どうして、僕もいくんだろう?
「カレ、でしょ」
彼氏だから、だ。
ひと月前、カレになった。
「律子さん。好きだ」とコクった。
だが、救急救命の律子から「カレ」の言葉はなかった。
前回のお見舞いがあるから、
だから一緒に行く?
カレだから?
前回があるから?
意識障害、記憶障害……?
「覚えいないから、質問をしないでください。覚えていないからと、笑ったり、怒ったりしないでください」
救急救命のドクターは話していた。
「言ったばかり。忘れるなんてバカじゃない。ありえないよ」
元気だったら律子はそう語るだろう。
一緒にお見舞いする美津子さんは、明るかった。
病室に入るまでは。
しかし、出るときには……
「かわいそう。私は、あんな風になったら、死んじゃう」とポツリ。
「もう、戻れないかもね。……あ、ゴメン」
「別に……いいよ」
そう、別にいい。
もう、彼氏ではない。
もう、いい。
「美津子さん。ちょっと、マックしていかないか?」
ラブ、ないよ。
きっぱりと答えるしかない。
一生の不幸を背負っている律子と付き合えない。
そんなチカラなど、僕にはない。
「出してよ。今、ほしいの」
あのきれいな黒髪も、
あの振り上げて挨拶していた左手も
「今、戻してよ」
悲しみが横たわっている。
僕はなにもできないよ。
救急救命士には憧れていた。
かっこいいと思っていた。
違う。
ヌルヌル、ズタズタの中だ。
患者の血と尿と体液が飛んでいる。
それを打ち消すために消毒薬にあふれている。
命のいくつが消えて、体のいくつかは障害を背負う。
毎日がヌルヌル、ズタズタの中だ。
医者として背負うことだという。
背負えるもんじゃない。
テレビのERと違う。
僕は背負うことができなかった。
好きだ。過去形になった。
可哀想はわかる。
だから愛するとか、好きだとか、ということにはならないし、愛とか好意が強まることなどない。
忘れ去られた。
覚えていない
頭が痛い。
もしかしたら、二回目も三回目もおぼえていないかもしれない。
もう二度と会わまいとメールした。