第1話 引きずられ
5ヵ月間の闘病生活。その間に少女が出会った方々と出来事に感謝を込めて、書いておきます。
覚えていない出来事って、ある。
ほら、ドアに鍵をかけた後に、あるでしょ。
分かるでしょ。
ガス栓を止めたかな?
電気、消したっけ?
約束した、あれって何だっけ?
ごめんね。私、頭が悪いから、迷惑かけちゃうな。
そんな出来事なら、怒られるぐらいで済みそうなことだね。
覚えてないことって怖くない。
でも、頭の芯が崩れるくらいの痛みがあったら、どうなるのかな?
覚えていることって、どうなるのかな?
律子は、その痛みにおそわれていた。
1秒前の出来事も覚えていられないほどの痛みに襲われ、
目の前で横たわっている。
律子は暴れながら横たわっている。
両手を腰に縛られて、叫んでいる。
事故から1日目。
西総合病院のICU、救急救命病棟、5番ベッド。
「トイレ、赤いの。きらいだよ」
「バイトの制服、タータンのスカート、どうしたっけ」
「ここ、どこなの。痛いよ」
律子、叫んでる言葉が、よく分からない。
よく分からないよ、律子。
あなたの声が、怖いよ。
律子はボクシングの選手が何千回も叩かれるような衝撃を、数秒で連続して受けてしまった。
あんた、交通事故にあったのよ。
律子のロングヘアは、なくなった。
頭左半分が刈られていた。
右半分もショートカットだ。
それも、裁ちハサミで切ったことがわかる。
ロングヘアの一部が皮膚ごとなくなった。
律子、頭蓋骨がむき出しになっているのよ。
むしりとられた皮膚が500円玉より大きいぐらいだという。
名刺くらいの大きさだって。
救急救命病棟の荘司ドクターが話してくれたよ。
律子は、頭を大きなガーゼで覆われている。
ガーゼをとめておけるように頭全体をネットの網で覆い、頭のケガ悪化と頭蓋骨、脳を守っている。
左肩が落ちている。
左腕が肩より上に上がらないという。
挙げられないともいわれた。
鎖骨が折れている。それも粉砕している。
数個の骨片に分かれて、左腕は体から離れてしまった。
「ここから出して」
「ねえ、出して。ここにいたくない」
乳房も膨らまない。
呼吸が浅くなっている。
今、胸をはって起き上がることさえできないだろう。
息ができなのか、小さな咳を繰り返していた。
律子は呼吸に苦しんでいるの。
肋骨が5本が折れているのです。
肘、お尻、膝には包帯が巻かれていた。
体の左側には大きなテープで風呂敷サイズのガーゼが当てられていた。Tシャツとスパッツを着ていたんだって。そのお気に入りを道路が裂いた。アスファルトに削られた体、擦過傷だらけになっているんだって。
「どうしたのよ」
「そんなこと、分かんない」
学校のコト、授業のこと、部活のこと、バイト先のこと。
律子がポツポツ話している。
「律子さんの話には頷いて。声をかけてあげてください」
救急救命病棟のドクターが後ろから声をかけてくれた。
否定や押しつけに、患者は拒否を示し、興奮する。
興奮すると、傷にも悪いし、暴れるから、話しを合わせるのだという。
律子は小さな体だけど、健康優良児って感じだったのに。
筋肉質の太めの娘、健康が走っているような娘だったのに。
体力いっぱいに頑張っているって感じの少女だったのに。
今は、全力で叫んでいる。
生きている力で叫んでいる。
「出してよ。頭、痛いよ」
「分かんないよ。バイトの、仕事、あるんだ」
「出して。出してよ」
救急救命病棟の5番ベッドで律子は暴れだした。
律子、ナースコールを押すね。
ごめんね。
「どうしました?」
「律子が、暴れてます」
看護師さんが走ってきた。
トレーサーに医療機器を載せている。
注射針のついた管を荘司ドクターに渡す
鎮静剤の入った点滴が始まる。
やがて、律子は眠りだした。
「くも膜下出血が4か所。脳幹にも炎症が発生しています。ケガは治ります。傷より、その出血と炎症が、律子さんをどうするか。意識はあるので、亡くなりはしません。生きてはいけます。だが、脳に障害が発生する可能性はあります。頸椎にも裂傷があり、延髄にも炎症がある。生きていることが不思議だといえます。しばらくは目が話せない状態です」
ベッドで律子に会う前だった。救急救命病棟のドクターが話してくれた。
事故現場には昨日、行ってみた。
交番で聞いた話。壊れた自転車の姿。往復2車線の県道。
現場を見ながら想像してみた。
4トントラックが左後方からきたようだったと聞いた。
律子は自転車に乗っていたみたい。
背中からぶつけられて、バンパーに引っかかって、転がっっていく。
頭をバウンドさせながら転がっていく。
乗っていた自転車がトラックに轢かれた。
前輪を二つに折られて、道路に横たわっている。
律子は、バンパーに引っかかっていた。
引っかかったまま、バウンドしていた律子。
もう血は洗い流されていた。
「たぶん、30メートル以上、40メートルは引きずられていた、と。事故を処理していた警察官が話していました」
救急救命病棟の荘司ドクターが見ているカルテには、救急隊員と警察の現場状況が書かれている。
律子、痛かった?
ねえ、痛かった?
律子。あなたは事故にあったの。覚えている?
停止するまでの40メートルのこと覚えている?
家族は? 彼は? 友だちは?
訊ねる私の声なんか、分からないようだった。
「そんなの知らない」
「何よ、分かんないヨ」
「あんた、誰……」
小さな声が、やがて寝息の中に消えていった。
そんなことさえ、覚えていないの。
聞いても、知らない。
知らないと
わめくばかりだ。
事故の衝撃を受けた瞬間から、
律子は覚えられない人になってしまった。
記憶障害。それが病名だって。
判断ができない人形になったの。
老人の痴呆症と似ている。
救急救命病棟の小さいベッドに縛られている。
151センチの小さい体を、律子はバンドで縛られている。
暴れるから、頭を掻きむしるから、バンドで縛っているのだという。
「これ以上、動いたら、治らないから。仕方ないのです」
救急救命病棟のドクターがきっぱりという。
仕方ない?
そのためのバンド固定と分かるけど、聞く人にとっては苦痛だ。
涙が出た。
独り言をいっては暴れる。
痛いから、傷に触ろうとする。
律子は全力で生きている。全力で痛みと戦っている。
でも、傷口に触れれば……。
傷が開けば……。
最近、1000メートル長距離走に出れそうだって、話していた律子。
体力が、治療を妨げようと動いている。
痛むのね。
顔を歪めて、腫れた頭が痛いという。
でも、縛っておくしかない。
ベルトで固定された律子。
顔も腫れている。
頭も腫れている。
仰向けに寝むれない。
左側、シーツに触れると痛いのね。
右下で寝ている。
律子が横向きに背中をそらした。
背中を曲げて、頭が痛いと目を閉じたまま叫んでいる。
もう、帰るわね。
姉さん、また来るから。
彼も帰るって。
ごめんなさい。
律子、あなたは痴呆の人になったら、
どうしたらいいのかしら。
面会が終了したけど、ドウシタライイノ?
後ろ手に救急救命病棟のドアを閉めた。
律子、あなたに明日は来るの?