第参話
この度担任になった本条美咲は、本日の一限目に行われた『言霊史』の採点を行っている真っ最中だった。諳の声に気付いた本条は答案用紙の一番上を裏返すと、赤ペンを下ろして諳が近づくのを相変わらずの笑みを向けて待っている。
「式守諳さーん、いらっしゃーい。待ってましたー」
「お待たせして、申し訳ありません」
「そんなに畏まらなくてもいいんですよー?」
担任教師の前で改めて一礼した諳の肩をぽんぽんと叩くと、本条は顔を上げた諳の眼前にずいっとあるモノをかざした。
見たところ、どこかの部屋の鍵のようだ。
「じゃっじゃじゃーん!これはなんでしょー?」
「…部屋の鍵のように見えます」
「んー今の回答じゃ△ですねー。正解は、式守諳さんのお部屋の鍵でしたー。はい、これどーぞ?」
「あ…ありがとうございます」
渡された鍵を見て、何故こうして個別に呼び出しを受けたのか合点がいく。
この学園は入寮の際に審査が必要となるため、希望する生徒は入学が決まってから三月の初旬までには申請書を出さなければならない。そんな規則がある中、諳は入学式の当日に入寮希望を申請することになった。
勿論、遅れて申請せざるを得ない諸事情があったせいだが、そのせいで他の生徒より入寮が遅れてしまっていたのだ。
「少しお伺いしても宜しいでしょうか?」
「何かなぁ?」
「寮生って現在は何名いるんでしょうか?」
「えっとねー、今は…四人、だったかなー?一般の生徒は毎年一人か二人くらいしか入寮出来ませんから、少ないんですよー」
「私を入れて五名…」
「入寮の準備、間に合わなくてごめんなさい」
「いえ、無理を言ったのはこちらの方ですので…本当に、ありがとうございます」
「へへー。学生の本分は勉強ですよー?生徒が勉強出来る環境を準備するのは、当り前のことですー」
形式的な前二回の礼とは全く異なる感情を表すべく、諳は本日三度目となる一礼をした。諳の規則を無視した突然の入寮申請にも関わらず、きちんとした審査の上で入寮を許可してくれた学園には、感謝の言葉しか浮かばない。
きっと、これから卒業するまでの三年間は校長やこの本条には頭が上がらないだろう。
「期待してますよー」
「精進させて頂きます」
「えらい、えらーい。…あ。先生も講堂に行かなくてはいけないのでしたー。ではでは、また明日ですー」
「はい、失礼しました」
四度目の礼を本条の前で、五度目の礼を職員室の扉のもとで済ます。
顔を上げて視線を移すと、左手に分厚い家庭の医学を持った唄の姿が目に入った。
「おかえり」
「お待たせしました。ありがとうございます。帰りましょう」
待っていた唄から学生鞄を受け取りお礼を述べると、二人は昇降口を目指して廊下を歩き出した。授業を終えた校舎内は閑散としていて、日常の喧騒が嘘のように感じられる。
「用事、何だったの?」
「これです」
掌を上に向け、握っていた左手を開く。
「鍵?」
「寮の部屋の鍵です」
「なるほど」
すぐに使うことになるからと鞄に仕舞わずに持っていた鍵は、諳の体温が移って少し温かくなっていた。黄色いプレートが付いた銀色の鍵を、唄は穴が空くのではないかと思うほどジッと見すえる。
「…諳ちゃん、この鍵、まだ言霊かかってないよ」
「あ、忘れてました。……そんな目で見ないで下さい、唄ちゃん」
「じーっ」
「うぅ、分かりましたよ。今ここでかけます。かけますから」
鍵から視線を移した唄は、あり得ない失態を犯した諳を呆れ顔で見つめた。己の失敗に頬を桃色に染めた諳は、咳払いを一つすると掌の鍵を再び握り締め、そっと胸に当てる。
「 『封』 」
たった一言、一文字の言葉を呟くと、手の中の鍵は淡くぼんやりとした黄色の光に包まれた。
次に諳が掌を開いた時には、既にその光はなく一見したところ鍵にも何の変化も表れていない。
唄は掌の鍵を再度マジマジと見つめる。
「うん。かかってる」
「良かったです」
唄の言葉にほっと胸を撫で下ろし、改めて鍵を握り直す。
諳が発した短い言葉、それは悪用封じの言霊だった。
本来鍵というものは、持ち主がそれを手にした時にまず封印の言霊をかけることが現代の常識になっている。こうして言霊をかけておくことで、持ち主以外の鍵の悪用を防止することが出来るからだ。この方法が世間に広まってから、空巣や盗難の被害が目に見えて減ったといえる。
「もう忘れないでね」
こんな基本。
そう呟く唄に、忘れかけていた羞恥心を蘇らせた諳は、今度は顔全体を桃色に染めた。
唄の責め句から気を紛らわせるべく窓の外に意識を向けると、生徒の大部分が集まっているであろう講堂の方から大きな歓声が聞こえてきた。確か講堂の方では、生徒会と有志による新入生に向けたプレゼンテーションが行われていると記憶している。
強制ではないと聞いているので、人ごみが苦手な諳はその場への回避を即決した。
「何やら盛り上がっているようですね」
「いかなくてよかった」
「唄ちゃんも私と同じ側の人間ですね」
長い付き合いになる友人の言葉にクスリと笑みが零れる。
ふと、窓の外の花が散りかけた桜の木に目が留まった。
ひっそりと咲く桜の木は、春風になびいて少しずつ桃色の花びらを散らしている。他の場所より日当たりが悪いからだろうか、既に青葉が見え隠れしていた。そんな桜の木を見ていると、少し遊んでみようかと悪戯心がむくむくと湧いてくる。
念入りに辺りを見回して唄以外の姿が見えないことを確認すると、諳は可憐で清楚な顔に普段は見せないような企みを浮かべた。
「悪い顔してる」
「見なかったことにして下さい」
「仕方ない」
はぁ、と小さなため息をつきつつ、困ったような笑みを唄は浮かべた。そんな彼女にニッコリと楽しそうな笑顔を送ると、諳は小さな口を開いた。
「いかなる時も咲き誇れ
『 常初花 』 」
諳が紡いだ短い言葉は、その場の情景を一瞬にして変化させた。
微かに花が残っていた桜の木は、風に煽られて残った花弁を散らせ、瞬きをする間に満開の花をつけていた。
その花はまるで咲いたばかりのように、色鮮やかで美しく咲き誇っている。
「やっぱり桜は綺麗だよね」
そう呟く諳の横顔は、日に照らされた桜に染められ淡い桜色になっている。爽やかに吹く風が、肩にかかる真っ黒の髪をなびかせた。
上機嫌でしばしその桜の木を眺めるが、隣で自分を見つめる優しい眼差しに現実に戻される。
「あ」
「お見事」
「う、唄ちゃん…」
「諳ちゃんが楽しそうで何より」
「あまり苛めないで下さい…。い、行きますよっ」
「あっ」
手の中の鍵を落とさないようにしっかり握りしめ、諳は慌てて駆け出した。その小さな身体が鳴らす足音を聞きながら、唄もその後を追う。
誰も、気付いていなかった。
二人がその場から姿を消した後、一枚の紙がどこからともなくヒラリと舞い降りてきたことに。
音もなく落ちたその紙の表面には
[ 花嵐 ]
とだけ記されている。
次の瞬間、突如吹き付けた強い風に煽られても、諳が見ていた桜がその花弁を散らすことはなかった。