零
「………」
見知らぬ一室。
見知らぬ大人たち。
そんな大人たちが見知らぬ器械を操作しながら、見知らぬ何かを実行している。その光景の中にたった一人、酷く場にそぐわない人物がいた。
見たところ、年の頃は小学校に上がる前―――五歳くらいの―――
つまり、子供だ。
こんな辺鄙な場所に、どうしてあんな子供が?
その理由を何とかこじつけてみようと頭を働かせた瞬間、部屋の中は巨大な光に包まれた。開けたくても強い光が痛くて目が開けられない。
誰かが、叫ぶ声が聞こえた。
なんて言ったのかは、分かるようでわからない。
聞いたことがあるような言葉だったような気もするし、全く聞いたことがないような言葉にも聞こえた。
ほんの数分が経った頃、部屋の光が治まったのを感じ、本来の視界を取り戻そうとゆっくりと瞬きを一つして目を開ける。
「ひ……っ、」
なんだ、これは……?
現実離れした壮絶な光景が瞳に飛び込んでくる。
とても直視できる状態じゃないその部屋から視線をそらすように、先程みかけた子供の姿を探した。
まだ、心臓が早鐘のように鼓動をうっている。
いつの間にか額に浮かんでいた汗を右手で拭い、一息吐いて子どもの様子を窺った。
「あ……っぁぁ……っ」
無意識に握りしめられた小さな手は、血と汗が混じり合いじっとりと幼い手指を滲ませている。髪の色と同じ色をした澄んだ瞳は、裂けんばかりに大きく見開かれていた。口はまるで閉じることを忘れてしまったかのようで、微動だにしない幼い身体が呼吸をしているのかどうかさえ分からない。…いや。呼吸だけではなく。
「言葉」というものの存在を忘れてしまったように見えた。
瞬きも、しない。
今しがた目の前で起こった事実に、ただ吃驚するしか出来ないでいる。
「お前は今、何を見た?」
不意に頭の上から降ってくる男の声に、子どもは反射的に幼い身体を力いっぱい強張らせる。顔は血の気を失ったというには生ぬるい程に真っ青で、か細い足はガタガタとその戦慄を床に伝えていた。
ニヤニヤと気味の悪い微笑で齢六歳にも満たないであろう子どもを見降ろすその男は、愉快そうに再度同じ言葉を投げかける。
「お前は今、何を見たんだ?」
「あ、あ…っ」
―――今、何を見た?
ねっとりとした低い声で紡がれた言葉が、頭の中で反芻する。思い出したくもないのに、先ほどの光景が目の裏に焼き付いて離れない。
気持ちが悪い。
考えない、考えたくないのに……。
頭の中で男の言葉だけが溢れ返る。冷たいのにどこか狂喜を匂わせるその声は、目の前で起こった出来事を忘れることを、決して許してはくれない。
男は、静かに涙を流している幼い子どもになおも執拗に語りかける。
「さあ、言いなさい。お前は何を見たんだ?」
「み、みんな…」
「みんな?」
「みんな…い、いなくなった…っ、さっきまでっ、あ…、あそこにいた、のに…っ」
「そうだ」
-――何もかも、消え失せたんだよ
「っうわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
まぶたの裏に焼きついた光景。
目に映っていた全てのモノは、もう、そこには存在しなかった。
いや、存在し得なかった。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
頭が痛い。
何も考えられない。
何も考えたくない。
何も話したくない。
何も話せない。
「ククク……さあ、お前はもう休みなさい」
生温かい手が小さな頭に触れ、ゆっくりと動く。同時に囁かれる音が、まるで呪いのように耳に潜り込んでいるのだろうか。今まで張りつめていた全身の力が抜けて、幼い四肢は冷たい床にその身を預けていた。
「いい子だ。お前は何も考えなくていい。忘れてしまいなさい。お前は何も見ていない。何も聞いていない。そして、何も言っていない」
「な、にも…」
「さあ、お前は『何も考えなくていい』んだよ、 」
呟かれた言葉は小さすぎて、何と紡いだのかは分からない。男が最後の言葉を呼び掛けた直後、その子は苦しみに揺れていた瞳をそっと閉じ意識を手放した。幾重にも重なった涙の痕が頬に伝っている。室内の蛍光灯が小さな頬に光る苦しみの証を微かに照らしていた。
「連れて行け」
これまで気味が悪いくらい優しく語りかけていた男は突如その表情を硬くし、傍にいた体格のいい男に向かって指示をする。その口調は氷のように冷たかったが、男の眼は嬉々とした感情で溢れ返っていた。
眼前で起きた出来事を収拾すべく、一度堅く目を閉じる。再び目を開けた時には、もう迷いはなく先程までは重たかった腰を上げ、しっかりした足取りで歩きだす。
「ん…?」
視界に何かが映った気がしたが、見なおしてもその姿を捉えることは出来なかった。まあ、今は気にしないでおこう。今は最優先事項としてやらなければならないことがある。
―――本部に、連絡しなければ―――