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故郷へ戻る電車の中は、夏休みにも関わらずガラガラだった。
まあ夏といえばみんな一様に海辺やプール施設へと繰り出すわけで、何の取り柄も面白味もない山里へ好んで行くはずもない。
よくよく考えずとも、この閑古鳥の鳴きっぷりは不自然でも何でもなかった。
山裾に広がる田園風景を、俺は三車両のローカル線からぼーっと眺めていた。
僅か数ヶ月前に去った田舎の景色は何も変わっていない。
というか、俺が子供の頃から著しい変化がない。
田圃、山、畦道、小川、……嫌気が刺すほど変わらないこの土地は、時が止まってしまっているのだ。
ああ、そう言えば家族に連絡してなかったな。
家族といっても実家にいるのはコブ付きの姉だけだが。
父親の顔は生まれたときから知らない。
物心ついた頃には祖母の家で暮らしていた。
仕事に遊びに飛び回る母親の代わりに俺達姉弟の面倒を見てくれていた祖母は、俺が11歳の誕生日を迎える前に他界した。
そしてその自由奔放な母親は、俺が高校に上がる年にどっかの国に単身移住した。
何でも、自分の会社の拠点を海外に移すとかで。
目が飛び出しそうなほど大金を詰め込んだ通帳を残して去って、それきり。
まあ、そのお陰で俺達はここまで生活を送ることができたのだから、母親に感謝の意がないわけではない。
ただ興味がないだけで。
「佐々良、佐々良に到着です~」
電車を降りて無人の改札を通って、田圃に両側を挟まれたまっすぐな道を歩くこと15分。
山を背に、数件の家が並ぶ住宅地の一角に俺の実家はある。
グレーの屋根の下、玄関の呼び鈴を押してボストンバッグを肩に回し突っ立っていると、ガラガラと引き戸が開いた。
「あれ、イセキ?」
部屋着姿の姉貴が目を丸くして出迎えた。
金に近いくらい明るい茶色のロングヘアに上下ヒョウ柄のスウェット。二十代も半ばの女がヤンキーかっつの。
相変わらず派手な格好をしていやがる。
「なに、ずいぶん急に帰ってきたのね。連絡くらいくれればいいのに」
「したところで何も変わらないだろ」
そう言いながら靴を脱ぎつつ俺は中へと押し入る。
二畳ほどの比較的ゆとりのある三和土には、姉貴のサンダルやらヒールやら、それに玩具みたいな小さな靴が数足ずつ転がっていた。
俺は堂々と自分の小汚いスニーカーを真ん中に脱ぎ捨て、左正面の階段を上っていった。
上がり切って突き当たりの左奥、開け放たれた窓から颯爽と山の風が抜ける。
ベッドとテレビのないテレビ台だけが置かれた殺風景な部屋が、俺が去った時のままで残っている。
たった三ヶ月程度とはいえ、留守をしていた部屋に戻ってくると何だか妙に感慨深くなる。
生まれ育った家なのだから当然といえば当然か。
ああ見えてきれい好きな姉貴が掃除機をかけてくれているのか、室内に目立つ汚れはなかった。
俺は大して荷物の入っていない鞄を床に放り投げてそのままベッドに倒れ込んだ。
やっと足が伸ばせる。
数時間ほぼ同じ姿勢で電車に詰め込まれていると、いくら若い体とはいえど疲労感は隠せない。
うーん、やっぱり実家のベッドは体に優しい。
普段の安いパイプベッドとは雲泥の差。
そうして安らぎに身を委ねていると、不意に、足元からカタと物音がした。
俺は首を上げて爪先の方向を見る。
押し入れの中からだ。
確か、子供の頃の写真アルバムやら本やらあまり着ない衣類やら、一人暮らしの生活に必要ないものは残したままだった。
今俺がベッドにダイブした振動で、何か中の物が崩れたんだろうか。
ガタッッ
今度は先程よりも大きな音がした。
重たい本や箱なんかが倒れるような音。
なんだなんだ?
俺はベッドからゆっくり体を起こし、押し入れの観音開きの戸を開けてみた。
そこには俺が思った通りの物が入っていた。
アルバムに絵本に読み飽きた漫画に、使用頻度の乏しい衣類の詰まった衣装ケース…。
正直いらない物ばかり。
時間はたっぷりあるし、気が向いたら整理するかな。
「……ん?」
アルバムを収めた棚と衣装ケースの間の開きスペースの奥に、長方形の箱らしき物が落ちている。
先程の物音はこれか?
引っ張り出してみると、まるで見覚えのない古めかしい木箱だった。相当な年月が経っているのか塗料は殆ど剥げ落ち、蓋や側面部分などところどころ腐りかけている。
ティッシュ箱より一回りほど大きい。
こんなものあったっけ?
相当古いもののようだが、一体何が入ってるんだ?
俺は今にもバキッといってしまいそうな脆い木の蓋を少しずつゆっくりと開けてみた。
ようやく蓋を外すと、金色のナイロン糸のようなものが覗いた。
そのまま蓋を持ち上げる。
「……………人形?」
ゴールドの長い間髪にエメラルドグリーンの大きな瞳。
裾にスパンコールをあしらったシンプルな純白のドレス。
その中には西洋風の人形が静かに横たわっていた。
フランス人形って奴か……?
どう間違ったって俺のものではない。
それにしても随分と保存状態がいい。
箱は妙に年季が入っているというのに。
まるで最近誰かが手入れをしたようなー…
「……うおっ?!」
七分丈のパンツのポケットから鳴り響いた着信音に俺ははっとした。
なんだか今一瞬、意識が途切れていたみたいだ。
この人形の瞳に見入っていたような気がする……。
物言わぬ人形を前に、途端に肌寒さを覚える。
「……………」
俺はすぐに蓋を閉めて押し入れの中の元の場所に突っ込むと、携帯をいじりながら部屋を出て階段を下りていった。
コップの中に浮かぶ小さな氷塊が薄茶色の海にカランと溶けて消えていく。
火照った喉元を潤すにはたった一杯の麦茶では十分でない。
案の定、それはすぐに空になった。
「あんたが帰ってくると思ってなかったわ。てっきり向こうで遊びまわってるかとー…」
木造のテーブルと四脚の椅子、それに背の高い観葉植物が置かれただけの相変わらずシンプルなダイニングスペース。姉貴はカウンターキッチンの奥で冷蔵庫の中を覗きながら淡々と言う。
ダイニングの椅子に片膝を立てて座る俺を一瞬見咎め、また前に向き直した。
俺は構わずにピッチャーから二杯目の麦茶を注ぎ、ぐっと煽った。
「都会に出て俺がチャラチャラ遊びまくってるって?俺はそこまで浮ついてねえよ。…それに、周りの友達だって地元に帰るっつうし……ちっとぐらい帰ってもいいかと思ってさ」
「友達ねえ…あんたの友達は昔からコロコロ変わるから覚えきれなかったわ……ま、別にいいけど」
そう言いながら不意に何か閃いたような顔をして、姉貴はいそいそとダイニングに回って俺の正面に腰を下ろした。
「……何だよ」
テーブルに肘を突き、不愉快なにやけ面を浮かべる姉貴を俺は睨み付ける。
「そーんな怖い顔しなくてもいいじゃない。…あんたさ、夏祭り目当てで帰って来たんでしょ?昔っから好きだったもんねー、“四捨祭”」
「それが何だってんだよ」
「連絡したの?那由ちゃんに」
「な、何であいつに……」
俺が視線をずらすと、姉貴は嫌らしい笑みをますます頬に深く刻ませる。
「ずっと一緒に行ってたじゃない。中学卒業までだったっけ?あんた、あの子だけは捨てないのよね。そりゃ生まれた時から知ってるもんねー」
姉貴は上機嫌に自分のコップに麦茶を注ぐ。
まるでビールでも煽るように一気に飲み干した後、カーッとおっさん臭く喉を慣らした。
まったく人聞きの悪いことを言いやがって。
俺は姉貴の前からピッチャーをふんだくるように取り、コップに勢いよく注いだ。
すでにほとんど氷が溶けてしまって、いまいち飲み応えがない。
半分ほど飲んでコップをテーブルにドンと置いた。
「別に……確かに電車の中であいつにメールはしたけどよ、大したあれでもねえし」
「ふーん」
姉貴はテーブルの真ん中の菓子が入った木の籠に手を伸ばし、クッキーを一枚掴むと小さくかじりついた。
にやにやしながらばりばり音を立てている。
どっちかにしてもらいたいもんだ。
小姑め。
俺は俺で何だかんだ言いつつ、気になっていないと言えば嘘になる。
先程あいつから返ってきたメールに何て返信しようかと、頭の片隅で文を書き、添削し、修正し、…それを繰り返しているのだから。
………それにしてもさっきはビビったな。
あの奇妙な人形を見ている時にあいつから返信があったもんだから…。
しかし、あの人形は一体…。
「……なあ、姉貴」
「へ、何よ急に神妙な顔して」
すでに三枚目のクッキーを頬張る姉貴に俺は尋ねた。
「俺の押し入れの奥にさ、なんか全然記憶にない木の箱があって、中にフランス人形みたいなのが入ってたんだけど…心当たりねえか?」
「何、フランス人形?」
「ああ、随分昔のものみたいだけどよ。パトラのじゃねえよな?」
俺は姉貴の右隣にある幼児用のチェアに目をやった。
四歳になる俺の姪っ子。年の割には生意気で姉貴の子供にしては聡明。
ちなみに漢字で書くと羽虎。
言わずもがな、羽はパとは読まない。
姉貴は怪訝な表情を浮かべ首を捻る。
「パトラはそんなの持ってないわよ。あの子が今ハマってるのは調味料の蓋集めだし。辛子とか山葵とかの」
「あ、そう…」
まあ、得てしてガキのやることは訳が分からないものだ。
「もしかしたらおばあちゃんのかもよ」
「ばあちゃんの?」
「アンティークのもの集めるの好きだったじゃない。遺品整理した時に全部捨てたはずだったけど…あんたのとこに紛れちゃったのかな」
そう言えば、ばあちゃんが自室として使っていた隣の和室には、タンスの上やら棚の中やらぎっしりとよくわからないものが飾られていた。
アンティークなんていう洒落たものなのか、とにかく年代物の髪飾りに手鏡に市松人形にぬいぐるみ、その他諸々。
それらの古道具がガキの頃の俺には怖くて仕方なかった。
その中にあの古いフランス人形があっても可笑しくはない。
「ところでさ」
俺が面白みに欠ける話題を出したせいか、俺をからかうことにすっかり冷めてしまったらしい姉貴は声のトーンを落として言った。
「お金は大丈夫なの?」
「大丈夫に決まってんだろ。早々使い切れるもんじゃねえし」
贅沢この上ないと後ろ指を差されるかもしれな いが、貯金残高を見る度にあまりの額の多さに 溜息が出る。
それを平然とガキ二人に与えた母親の職業は詐 欺師ではないかと思っていた。
俺と姉貴の八年間の生活を支えてもなお余綽々とするそれを、大学に入学する前に姉貴と 二人で折半した訳だが。
そこから家賃や水道代、光熱費、食費、教科書 代をあてがっているのだが、四年間の大学生活
を終えてもまだお釣りが来るだろう。
その金にはもはや畏敬の念すら抱いている。
ちなみに、自分で遊ぶ金くらいは自分でと、バイトは入学後すぐに始めた。
俺にも一応、微々たるプライドはあるのだ。
「余計な心配だったわね」
吐き捨てるように言って姉貴は椅子から立ち上 がり、自分のコップを持って台所に入った。
「もうすぐパトラが帰っ来るからお昼の用意しなきゃ。あんたも食べる?炊き込みご飯と葛餅。パトラのリクエストなの」
「相変わらず渋いガキだな…俺はいいや…」
ふと、俺のポケットから着信音が鳴り出した。携帯を取り出し画面を見る。
電話の着信。
画面にくっきりと浮かぶ奴の名前。
不覚にも胸の鼓動が高鳴っていく。口元が僅かに綻びを見せる。
俺は携帯をポケットに戻し、姉貴に背中を向けた。
「あ、俺ちっと出掛けてくるわ!葛餅はとっといてくれっ」
「え、今いらないって……っ、ちょ、イセキ?」
唖然と目を丸くする姉貴から逃げるように、俺は足早にダイニングを出て外へと駆け出していった。