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ー運が良いだけでは勝ち抜けない
根気だけでは生き延びられない
鈍くなければ耐えきれない
成功するにはすべてが必要ー
昔々、そんなことを誰かが言っていた。
誰だったかな。
小学校の校長、担任、同級生の母親、近所にあった酒屋のばあちゃん、実家で飼ってた三毛猫の石橋………
忘れたけど誰かが、確か言っていた。
まあそんなことは所詮綺麗事。
何故急に思い出したかわからないがー…
ま、どうでもいいや。
「よし、終~了ぉ~」
俺はメールに返信することなく携帯をテーブルに置いた。
日差しがダイレクトに降り注ぐ窓際の円卓。
この時期はあまり人気のない席だろうが、この状況にあって場所を確保できただけでも御の字だろう。
期末テスト真っ只中、テキストやノート片手に飯を食う学生たちで学食は破裂寸前の目一杯の賑わいを見せていた。
単語やら公式やらをぶつぶつと呪文のように唱える奴、カンニングペーパーの作成に精を出す奴、諦めて運を天に任せると祈ってる奴。
なんだか知らんがいっぱいいっぱいだ。
どいつもこいつも猫も杓子も。
そんな奴らを尻目に俺は悠々とランチを味わう。
うん、本日のおすすめボンゴレビアンコ(大蒜抜き)最高!
「なになに、《わかりました、あなたがそういうならこれで最後にします。今までありがとう》……だと?」
隣でやはり辛気臭い顔をしてノートを睨んでいた館山が、俺の携帯を覗き込んだ。
「おいおい、勝手に人のメール読むなよなあー」
俺は右手でボンゴレを口に運びつつ、左手で携帯をジーンズのポケットに突っ込んだ。
うーん、柔らかいアサリが舌の上でゆっくりととろけていく。
ビアンコ最高ー!
意味はわかんねえけど。
「なんだよ一人で恍惚としやがって…。女にふられてうれしいのか?」
館山が忌々しそうに俺を見る。シャーペンを握る手にかなり力が入っている。
「人より早くテストが終わってー、別れたかった彼女と決着してー、晴れ晴れしてるってとこでしょ」
続いて俺の正面から間延びするほど穏やかな声が聞こえてきた。
その声にピッタリの優しい笑顔をした八潮。のんびりとプリンアラモードを味わっている。
甘味に寵愛を受けているのではないかと思うほど甘味が似合う男だ。
「その通り、俺の心は今実に清々しい気持ちで満たされてるんだー」
俺が高らかに笑うと館山はますます悔しさを顔に滲ませた。
「畜生、何が清々しい、だよ。つうか、八潮!お前はまだテスト終わってないだろ??次の三限、経済学のテストだぞ。呑気にプリン食ってていいのかよ」
「わかってるよー。オレは普段から着々とやってるからご心配なく」
「くそ、どいつもこいつも余裕ぶりやがってぇ…。お前らみたいにできる奴はいいよなあ……ああ、なんか馬鹿らしくなってきた……」
ノートをテーブルに開き、館山はその上に突っ伏した。放射状に広がる黒い髪が、潰れてしなった毬栗のように見える。
「何でテストなんかあるんだよ…んなもん高校まででいいのに…っ」
奴の口から漏れ出る長い溜息は周囲の喧騒にすぐかき消されてしまった。
学費免除の給費生試験があるという理由で選び入学した二流大学で、俺は適当に勉強して適当に人付き合いする、差して濃度の濃くない日々を送る。
そんな生活が三カ月、俺の恋愛ごっこはこれで二度目の終焉を迎えた。
憂い嘆かずとも、出会いなんていつの間にか涌いてくる。
別に俺が特段モテるとか恋愛マスターであるとか女心を知り尽くしているとか、そんなわけではない。
ただ、拒まずに成り行きに任せていけばいいだけ。
思い入れがない分、楽でいい。
それに、面倒臭いとか煩わしいとかそう思ったらやめればいいんだ。
《他に気になる奴ができたから》《勉強に身を入 れたいから》《蕎麦の食い方が気に入らないから》《音楽性の違い》……………
理由はなんだっていい。
とはいえ、今まで予定を埋めていた相手が急に いなくなると、ことに一人暮らしの夏休みは暇になる。
どうするかな。
オリーブオイルで艶々に輝くフォークの背を見つめながら考え倦ねる俺を、すっかりヘアの乱れた館山が物言いたげな目をして見ていた。
とにかく僅かでもいいから俺の鼻をへし折りたいらしい。
奴の薄っぺらい口が言う。
「お前さ、今日の一限が終わった瞬間から実質夏休みに突入してんだろ?どーすんだ、楽しい季節を目前にして共に過ごす相手がいなくなるなんて。いっくら出会いに恵まれてるお前だって昨日の今日で彼女ができるわけねえんだ。計画性のない長期休暇なんて苦痛なだけだぞ?」
ふふんと鼻息を荒くし、俺の反応を伺っている。
まさに今俺が黙考していたことを突いてくるとは。
しかし俺も負けじと言い返す。わざと余裕ぶった偉そうな口調で言ってやる。
「館山よ。それを言っては己の首を締めることになるぞ。女の“お”の字も見当たらないお前が、淋しーい孤独な夏休みを過ごすのは目に見えている。まあせいぜい地元に帰って母親や中学生の弟とあんまり旨くない素麺をすすりながら突っ込みどころ満載のサスペンスドラマの再放送を別に見たくないけど何となく見たりして過ごすのが関の山であろう」
「確かに彼女のアテがないのは図星だが、その後のくだりは納得いかねえ。俺はそんなに淋しい男じゃないしそもそも俺に中学生の弟はいねえ、妹だ!」
打てば響くように返ってきた細かい突っ込み、ありがとう。
すっかりやる気を失ってしまったらしい館山は勉強道具をリュックに仕舞い、30分以上手付かずでいた冷やし中華にようやく箸を入れた。
そんなやり取りを黙って眺めていた八潮が徐に口を開く。
「オレも彼女いないからー、帰省する予定だよ。地元の友達とゆっくり会うつもりで」
「俺も家に帰る予定だよ。淋しく素麺は食わないけどな!久々に中高の同級生で集まるんだ」
錦糸卵を箸に捉えながら館山がそれに答え、またもや俺に水を向けた。
「……で、お前は?小金井」
思わず無言になってしまう。
ふと、どこからか風鈴の涼やかな音が小さく聞こえた。
少し開いた正面の窓から、熱気の合間を抜けてきた心地良い風が流れている。
それがこの広い学食のどこかにある風鈴を鳴らしているらしい。
懐古心や郷愁を誘うような妙に懐かしい音色だ。
そう言えば、もうすぐ地元の夏祭りだったっけ。
ちょうどいい口実かもしれない。