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八月になっていた。
姉貴は相変わらず呑気に仕事に行き、パトラはその間玉ばあ宅に預けられた。
パトラはともかく、必然的にひとりになる時間が出てくる姉貴の身を案じて俺は色々と出来うる限りの対策を練ってみたのだが、当然のことながら限界はある。
行き過ぎれば姉貴には気味悪がられるだろうし、四六時中二人の側にいられるわけもない。
ただひたすら、俺の頭の中で過剰な不安ともどかしい気持ちが交差する。
そうなってからまだ数日でありながら、俺は精神的な疲労を覚え、息の詰まる思いを蓄えつつある。
今日もクマゼミが鳴いている。
クーラーのあまり効かない自室で、俺はベッドに大の字になりその鳴き声を耳に入れていた。
「相当お疲れのようデスネ」
九十九神の涼しい声がする。
座布団と麦茶入りのグラスで寛いでいる姿にも自然と突っ込むことがなくなっていた。
しっかりとこの家に、いや正確には俺に居着いている。
まあな、と適当に俺は返事をした。
「少しお願いがあるのデスガ」
九十九神の唐突な申し出に、俺は首を奴のほうにぐるっと向けた。
そんなことを言われたのは初めてだ。
奴は特に変わった様子もなく麦茶をすすっている。
「……なんだよ」
俺が起き上がってベッドの縁に腰掛けると、九十九神は話を始めた。
「買って来て欲しいモノがありマス」
「……俺に?」
「神は人間の通貨は持たないので、ワタシは買いに行きたくても買いに行けないのデス」
「何が欲しいんだよ」
「この時期といったらわかるデショウ」
俺は少し考えて言った。
「…蚊取り線香?」
「違いマス。神は蚊に喰われマセンヨ。本当にわからないのデスカ?」
「んだよ、はっきり言えよ!」
不意に九十九神の瞳が輝きを増す。
「すいかアイスに決まってマス」
心なしか語気がやや強めだった。
すぐに俺の頭にそのイメージが浮かぶ。
あれか、切り分けたスイカを模した棒付き氷菓。
「……自分で買ってきてくれ。金なら貸す。一本、百二十円ぐらいだろ」
「買ってきて下サイ。人間界の通貨の使い方はよくわかりマセン」
「レジで品物と金を出しゃいいだけだろ……」
俺はベッド下のに転がっているバッグから財布を取り出し、開いた。
一万円しかない。
俺は手元の財布から九十九神へ視線を移した。
くそ、こういう時に限って…。
本当に使い方を知らないにしても知っていたとしても渡すのは賢明ではない。
諭吉氏は渡せない。
考えて倦ねる俺に、一際輝く瞳と冷たい口調が催促した。
「どうしマシタ。早く買って来て下サイ」
やっぱり、と言えばやっぱりなのだが村にコンビニはない。
ガキの頃お世話になった駄菓子屋も、数年前に店主の老化を理由に閉めてしまった。
後は趣味でやっているようなごくごく小規模の店が数軒あるのみ。
生活必需品や日用品の調達は隣町、或いは宅配の利用がほとんどだ。
そうかと言って、この炎天下にわざわざ隣町のコンビニでアイスを買って帰るのは不可能。
俺の脳裏に、あまり進んで選びたくない選択肢が浮かぶ。
思えば四捨祭以来顔を合わせていない。
いや、合わせられない。
あいつは妙に思っていないだろうか。
「……………」
俺は財布と携帯をポケットに突っ込み、玄関先からのそのそと歩き出した。
俺が店内に入ると、そいつはすぐに奥から顔を出した。
Tシャツ型のカジュアルなワンピースを着て、見慣れない髪型に、見慣れた笑顔が朗らかに咲く。
「珍しいな、イセキがうちで買い物など」
「ちょっとしたものならここでも買えるからな」
俺は正面右手側にあるアイスボックスの前に立ち中を覗いた。
カップアイスやかき氷に混じって、すいかアイスが
数本並ぶ。
買ってさっさと帰ろうとボックスのドアに手を伸ばしたところ、那由多が畳に正座したままひょっと首をこちらに傾けた。
「たまにはうちで茶でも飲んでいったらどうだ?」
「…………親父さんは」
「出掛けている。友人と約束があるとかで……どうせ夜中まで戻らんよ」
「………」
俺はアイスボックスからそっと手を引き、徐にサンダルを脱いだ。
店に接する三畳ほどの和室を抜け、ギシギシ音を立てる廊下を歩いて突き当たり左の六畳間に通された。
背の低いテーブルの前に那由多と斜向かいに座り、俺はきょろきょろと部屋を眺めた。
壁際の古い棚の中にはぎっしりと酒瓶が並んでいる。日本酒、ビール、焼酎、ウイスキーにちょっと洒落たワインボトルまで一通りは揃う。
「相変わらずだな、親父さん」
那由多が出してくれた麦茶を口に含み、俺は何気なく呟いた。
「何も変わらんさ。昔から父は力を入れるべきところを間違えている。今もそれに気づくことなく、あの体たらく。…那由多は玉ばあに育てられたようなものだとつくづく思うよ」
那由多は麦茶のカップに口を付けた。二、三口飲んで小さく息を吐いた。
室内に回る扇風機が、那由多の短くなった髪をふっと浮かせる。
俺は手元のコップを見つめたまま那由多に尋ねた。
「この店はどうするつもりなんだ?」
わからない、と言わんばかりに那由多は首を傾げた。
「父の考えは読めない。…いや、そもそも考えなどないのやもしれんが。母がいた頃は実家から経済的支援を受けていたが、もうそれも途切れて久しい。正直言って、我が家の家計は火の車という奴だ。…だからと言って誰かを責める気にはならん」
「……那由多は自分が捨てられたって思ったりしないのか?」
俺の問いかけに那由多は苦笑いを浮かべ、弱く否定した。
「自分のほうから捨てたと思えば憎むこともない」
「……それじゃ、捨てて後悔したって思うか?」
その質問にも奴は肯かなかった。正座していた足を横に崩し、ああ、と何かを思い出したように言った。
「そうだ、捨てられて悔しかったものならある。泣くほど悔しかった。三日三晩泣きはらしたほどだ」
口元を緩め、瞳をきれいな半月型に細めて俺を見つめる那由多が横目に映った。
「…な、何だよ。俺に何か言いたいのかよ?」
俺はコップを口元にやりながらさっと顔を背けた。
何だか妙に体が火照ってくる。
ふと、廊下の向こうから電話の鳴る音が聞こえてきた。
那由多がさっと立ち上がり廊下に出て行く。
「すまんな、適当にその菓子でも食べてくれ」
足音が遠ざかり止まったと同時に那由多の声が細々と聞こえ始めた。
俺は扇風機の風量を最大にして、背中を存分に冷やす。
火照りが少し冷めてきたところで、テーブルの上の煎餅を一枚掴んだ。
濃いめの醤油味が口に広がる。
ふと首を後ろに向けるといつもと変わらない青い山麓が見えた。
那由多も来年は高校を卒業する。あいつがどういった道に進むのかは知らないが、もういつまでもここにいるわけではないだろう。
そうなったら俺は、今度はこの土地を捨ててしまうかもしれない。
……………………いやいやいや、何考えてんだ俺は。
あいつがいなくたって関係ねえだろ。
第一俺の実家はずっとここなんだし、姉貴やパトラに顔を見せるぐらいはするし。
そうだよ、那由多がここからいなくなっても俺は…
みしりと廊下が軋む音に、俺ははっと顔を前に向き直した。
そこに立っていたのは剣道着姿の若い男だった。
膝を曲げなければ確実に頭が鴨居にめり込むであろう長身。細い体躯に道着には珍しい薄い藤色の着物がよく似合っている。
穏やかだが凛とした強い雰囲気を持つ男。
てか、誰だよ。
那由多に兄弟はいねえし、俺の知ってる親父さんでもない。そもそも若すぎる。
そう言えばあいつ、元剣道部だったか。
その関係者か?
逡巡する俺の手から離れた煎餅の袋が扇風機の風に飛ばされ、そいつの白足袋にかさりと当たった。
細長い指で袋を拾い上げると、男は柔和な笑みを面長の顔に浮かべた。
「今日和。小金井君」
「え、あ、……どうも」
何だ、俺を知ってるのか?
当惑する俺に構わず、男は部屋に足を踏み入れ、そのまま俺の真正面に腰を下ろした。
細身ながらもそこに滲み出る圧倒的な威圧感。
自然と俺の背筋が伸びた。
ようやく俺の様子に気付いたか、男は軽く頭を下げた。黒い髪が柳のように枝垂れ、元に戻る。
「これは失礼」
張り付いたような笑顔で男はのたまった。
「僕は鵜丸。那由多とはいいお付き合いをさせてもらってるよ。どうぞ宜しく」