13
女のほうからさようならと別れを告げられたのは初めてだ。
別にこれは何も自慢ではない。
というより、自慢とかしている場合ではない。
もしかすると、いや、もしかしなくても、良くない状況だ。
二人の若い女は互いの右手と左手を重ね合わせ、掌を俺に向けた。
黒く小さな光が渦を巻き、その掌に集まっていく。
ボブヘアの女が低い声で言う。
「周りの時間は止めておきました」
ロングヘアの女が高い声を出す。
「つまり、小金井イセキを心置きなく打ちのめせちゃうってことなの」
その黒い光は渦を巻きながらみるみる巨大化し、二人の手首から下をすっぽり覆い隠した。
光の塊というより宙に開いた穴のように見える。引き込まれてしまいそうなその黒すぎる黒さは、まるでブラックホールだ。
俺は唾を飲み込む。
「お、おい…一体何のつもりだ?てか、お前ら誰だよ?何で俺の名前を…」
嫌な予感が胸の中に蠢き出す。
まさか、こいつらが邪鬼を操っている黒幕なのか?
「答える義務はありません」
顔を曇らせる俺にボブヘアが冷たく吐き捨て、
「小金井イセキに知る権利なし」
ロングヘアが口元を綻ばせた。
「「ではさようなら」」
二人の調和と共に、黒い塊は放たれた。
回転を加え、俺めがけて真っ直ぐに飛んでくる。
焦る気持ちと裏腹に、体が石膏のように固まり動こうとしない。
ああ、ダメだ。
目前にまで迫った黒い怪物が俺に喰らいかかろうとしている。
俺はただぎゅっと目をつぶった。
……本当にダメなのか?
誰だって死にたくなんてない。
犠牲を厭わず…なんて、俺に限らず多くの人間が躊躇うことだ、そうだろ。
あの九十九神は特別俺を悪人だと、まるで悪の権化と言わんばかりに罵るが、それは違う。
俺は人間らしい人間ってことなんだよ。
他人を蔑み、不幸を笑い、てめえだけが蜜を吸う。
それが本来の人の姿ってもんだろ?
だけど、
だけど、これで俺が朽ち果てればー…………………
……………………………
…………………………………………?
俺の足を布のようなものが掠める感触と、すぐ側に感じる堂々たる気配。
目を少しずつゆっくり開いていくと、絹の織物のように美麗で繊細なプラチナの長い髪が見えた。
細い両腕で無骨な大剣を携え、目前の黒い光をぐっと食い止めている。
「…ピンチの時にどこからともなく現レル。あなたの望むご都合主義の展開になってしまうのが悔やまれマス」
感情を伴わない冷淡な声が儚げな背中の向こうから
聞こえる。
「………アナタといると、ないはずの骨が折れマス」
九十九神はバッドを振るように大剣でその黒い魔球を打ち返した。
黒いワンピースの女たちは重ねた手でそれを受け止めると、そのまま握り潰した。
黒い靄を残し、その光は消え失せていった。
ボブヘアの女が忌々しそうに呟く。
「誰かと思えばあなたですか」
ロングヘアの女が嗤笑する。
「カッコイイー!タイミングよすぎー!」
「まったく、いくら暇だからといってちょっかい出さないで下サイ。この人間は仮にもワタシの元持ち主デスカラ」
九十九神は俺を一瞬だけ見やり、二人に毅然とそう述べた。
ようやく体の自由を取り戻した俺はガクンと膝を崩ししゃがみこんだ。
九十九神の背中に向かって問いかける。
「…お前の仲間なのか……?」
「同じ部類という意味ではそうデスガ、信頼を寄せる間柄という意味では違いマス」
そう言って奴は大剣を再び構えた。真っ直ぐな太い刃が黄金色に輝きを放っている。
現実味のない、神の武器っていう感じだ。
「あなたはいいですね、テュケ」
ふと、眉をひそめたボブの女が口を尖らせた。
何が気に入らないのか、九十九神の後ろの俺をちらちら見ている。
「何も良いことなんてありマセンヨ」
九十九神がすぐさま言い返すと、今度は笑顔のロングの女が言った。
「楽しそうじゃんー、ちょっとぐらいウチラにも分けてくれたっていいじゃない?そう……手足の指ぐらいさあ」
女は淡いピンクの唇からズルリと真っ赤な舌を見せた。俺を捉える臙脂色の瞳が妖しく光る。
ぞわぞわっと身の毛がよだつ。俺は咄嗟に目をそらした。
「それはお断りしマス」
「どうしてですか?面倒ならばさっさと始末してしまえばいいでしょう。自分を捨てた人間の命乞いにだらだら付き合う必要がどこにありましょう」
心底呆れたようにボブヘアが言うと、
「カレは命を捧げることを拒み、戦う道を選びマシタ。それを反故するような真似はワタシの道理に反シマス」
剣の先を二人に向け、九十九神ははっきりとそう告げた。
そしてボブヘアのほうに顔を向ける。
「帰って下サイ、テミス」
それからロングヘアに向かって諭す。
「ここはアナタタチのいるべき場所ではありマセンヨ、リベルタス」
テミスと呼ばれた女は不満げな顔をし、リベルタスと言うらしい女はにやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら何かを考えているようだった。
程なくして、声を揃えて言った。
「「今日のところはこれで」」
まるで瞬間移動するように、一瞬で二人の女は姿を消した。
途端に、何事もなかったかのように町が動き始める。
抑圧されていた日差しが、一気に眩しさと暑さを取り戻す。疎らな通行人たちが一斉に歩き出す。
日常の音が蘇る。
俺は様子を窺いながら膝に手を当ててのっそりと立ち上がった。
「……あいつらも九十九神なのか?」
「そうデス。あの界隈では有名神デス。まあたとえるならチンピラみたいなモノデスヨ。暇なモノで、時々人間界に現れて余計なコトをするんデス」
九十九神は体ごとこちらに向いた。
「ちなみに、アナタが捨てたモノではありマセンノデご心配なく」
「…じゃあ、俺を知ってるのはどうして?」
「アナタも我々の世界では有名人デスカラ」
「あ、そう…」
俺は肩の力を抜き、大きく嘆息した。
異様な緊張感に引っ張られていた体がようやく緩み始める。
「とにかく、…邪鬼を操っているかもしれない存在はあいつらではなさそうだな…?」
「奴らは単純デスカラそんな面倒で回りくどいコトをする質ではありマセン。…それにチンピラデスシ」
九十九神は大きく肩を回した。そういえばあの大剣がいつのまにかなくなっている。
せっかくだからもっと間近でマジマジ見たかった。
……気もする。
「不謹慎ながら、やっと武器らしい武器が見られて良かったぜ」
俺が苦笑混じりに言うと、運良く臨時の入荷があったのだと九十九神は答えた。
「……まあとにかく、その…助かった。礼を言うよ」
気まずさと妙な恥ずかしさが胸に溢れてきた。
予想通り奴は素っ気ない反応をした。
「お礼を言われる筋合いはありマセン。ワタシにも信義というモノがありマス、ただソレに忠実でいたいからデスヨ。……それより、安心するのは早すぎるのデハ。今後の己の在り方をよく考えなサイ」
横を通り過ぎ、階段を下りていく白いワンピースの少女を俺は複雑な気持ちで見つめていた。