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正午を迎える十五分前、血気盛んに燃える太陽の下を俺は玉ばあの家に向かって歩いていた。
一歩一歩踏み出すごとに一滴一滴と汗が垂れているような気がする。
こんなに暑くては、八月が思いやられる。まして邪鬼とかいう不気味な生命体(? )とバトルを繰り広げなければならないのだ。
夏が終わる頃には俺はミイラになっているかもしれない。
甲子園で奮闘する熱き高校球児たちの生き様に感服。
ふと俺は首を後ろに向ける。
「……………あのさ」
一メートルほど開け、俺の後ろを黙って歩くそいつはやはり涼しげである。
「わかってんのか?俺の心境」
「まだ怒っているのデスカ」
俺は体ごとぐるりと奴のほうに向けた。
大袈裟に両手を広げ爪を立てて俺は怒りを露わにする。
「あのな!お前のお陰で俺の尊厳とやらは盛大に傷つけられたんだぞ??それも実の姉に!ある意味母親に見られるより厳しいぞ?……ああ~もう、田舎ってのはな、恐ろしいほど噂の広まりが早いんだよ!知ってるか?もし万が一姉貴が誰かに俺の奇行を言いふらしたら………俺は嫌でも変態王子として大手を振って歩かねばならない。ここを去ってもしばらくは戻って来れまい…それくらいの一大事だ!!」
「人の噂は七十五日と言いマスカラ。あの山が色付き始める頃には収まっているデショウ」
涙目になっている俺にフランス人形は淡々と切り替えした。
それに、と周囲の田畑を見渡して言う。
「ワタシとしては、部屋に美少女を二人連れ込んで正座させているほうがマズいシチュエーションと思うのデスガ。気を遣ってワザワザ人形姿に戻ったのに逆ギレとは心外デスネ」
自分で美少女とかさらっと言うなよ。まあそれについては否定できないのだが。
まあいいや、姉貴が吹聴しないことを祈ろう。
俺の知っている姉貴はそんなに口は軽くないし、わざわざ身内の恥曝しなんかしないはずだ。
…たぶん。
俺は吹っ切るように大きく溜息を吐き、前を向いて歩き始めた。
背中に続く足音に俺は再び問いかける。
「……で、お前はどこまでついて来るんだ?あの鳥女、…瑠璃子だっけ?あいつはお前らの世界に帰ったんじゃねえのか?」
「小瑠璃デス。彼女は帰ってなどいマセンヨ。自分の持ち場に戻ったダケデス」
「…持ち場?」
フランス人形は淀みなく返答する。
「日本全国津々浦々、至る所に神は存在しマス。何も神の居場所は神社だけとは限りマセン。その神を守る為に、”カミノチ“から送り込まれた我ら九十九神が各地に結界を張っているのデス」
「しっかし守るっつったって、神様の数ってかなりのもんだろ?八百万の神っていうぐらいだもんな…こう言っちゃなんだけど、守り切れるのか?」
「ご心配ナク。九十九神はそれを十分にカバーできる多さデス。元は人間に捨てられたモノたちなんデスヨ。そう考えれば、その数の多さには納得できるデショウ。掃いて捨てるほどいるとはまさにこのコトデス」
俺が返事をする間もなく九十九神は続けた。
「それにピンチの時は互いに駆けつける体制を取っていマス。神の世界でも助け合い精神は大切なんデス」
「………なるほどね。まあ話はわかった」
そんな会話の間に、田圃の中の細い農道を通り抜けていた。
玉ばあの家はもうすぐそこだ。
草が生えっぱなしの庭に置いた物干し竿に数枚白い布切れが靡いている。
庭先に足を踏み入れた所で、俺はもう一度後ろに振り向く。
「…まさか中までは行かないよな?」
昼時ということもあってか、ここへ来るまで幸いにも誰にも会わなかった。
ただでさえ目立って仕方ない存在だ、それを敢えて御披露目する必要はない。
しかし九十九神は首を縦には振らなかった。
「ワタシも呼ばれていマスカラ」
「へっ?」
訝しがる俺の真横を通り、奴はスタスタと軒下に近付いていく。
「お、おい!」
その姿を慌てて後を追いかけると、玄関の前で立ち止まり、何やら感慨深そうに屋根を見上げた。
「……相変わらずの茅葺き屋根、懐かしいデス」
「…えっ?」
「…アナタのコトデスカラ、この道すがら筑波那由多に会わないか心配だったのではありマセンカ?」
九十九神は俺を見透かすように言った。
「あ?何だよ急に…。別に俺が誰といようとあいつに関係ねえだろ。…それにまだあいつは学校だし」
「……とことん意地の固い人デスネ」
冷えた眼差しを俺に浴びせると、九十九神は今度こそ玄関の戸を開き、中へと入っていった。
囲炉裏を挟んだ向かいに、神妙な表情を浮かべる玉ばあが見える。
俺は隣に座る九十九神をちらちら横目で見つつ、玉ばあの言葉を待った。
一分ほどの静寂を経て、ようやく開口した。
「儂のお告げも強ち無碍にはできんだろうに」
「玉ばあ、何か知ってんのか?」
俺は眉を吊り上げてぐっと玉ばあの顔を見つめた。
玉ばあは皺だらけの頬を震わせながら静かに頷いた。
「すべてはお前の引き起こした災厄。お前が解決せねばならん。儂はただお前に言葉を伝えるだけよ」
そしてその視線は俺の左隣に注がれる。
「久しいことよ。このような形でお前に再会できるとは思わなんだ」
「まったくデス。まだしぶとく生きているトハ」
俺は驚いて二人の間に割って入った。
「何だよ、どういう関係なんだよ??」
「腐れ縁デス」「因縁の相手よ」
二人がほぼ同時に答えた。
九十九神は玉ばあを見て言葉を繰り返す。
「因縁の相手デスカ」
「色々あったものだ。長く生きていると人以外のものとも縁を結ぶようにもなるわ」
玉ばあは深緑の湯飲みを両手で抱え、ずずっと味わい深くすすった。
俺は胡座をかいた足の裏を指で揉みほぐしながらローテンションに呟く。
「…なんかよくわかんねえけど、俺の知らないところで色々あるってことか」
双方の口振りからしてその間には浅からぬ縁…むしろドロドロの縁がありそうだ。
まるで想像はつかないが。
ふと、横から九十九神の視線が突き刺さった。
俺の呟きをしっかり耳にしていたようで、諫めるようにやや強い口調で言った。
「アナタは当事者なんデス。傍観者のような物言いは控えるべきデス。忘れているなら思い出せばいいだけなんデスカラ。とは言え、ワタシは思い出させてあげるなどと生易しいコトは言いマセン。自ら過去の過ちを、罪を記憶に蘇らせてみなサイ」
「そ、そんなこと言われてもな……」
九十九神の繊細な手は膝の上で固く握られていた。
仮面のようなその顔に、僅かながらも表情が浮かぶ。
すっかり困惑する俺に玉ばあが嗄れた声をかけた。
「落ち着きなっせ。まだ戦いは始まったばかりよ」
「……仕方ないデスネ」
九十九神は不満を残した顔をすっと俺から背ける。
横顔は再び無表情になった。
とにかく、と九十九神は仕切り直す。
「玉櫛はアナタにとって心強い存在になるのデハナイデスカ。那由ちゃんの為にもイッチョ派手に邪鬼たちをやっちゃいマショウヨ」
「え、あ、そんなノリだったか??あ、つーかさ、聞くタイミング逃してたんだけどお前って……」
そう言いながら玉ばあのほうをチラリと見ると、その頭はガクッとうなだれていた。
綺麗なまでに真っ白に染まった髪が顔を覆い隠す。
俺は立て膝になり玉ばあに呼び掛ける。
「おい、玉ばあ??大丈夫かよ?」
立ち上がろうとする俺を、左から伸びた白い腕が制した。
九十九神が無言で玉ばあを見つめている。
しばらくして玉ばあはいきなり顔をガバッと上げた。無造作に乱れた髪を適当に整え、口をパクパクと動かす。
そんな酸欠の金魚のような動作を繰り返し、まもなく唇から言葉がこぼれた。
「……………見えた」
「え?」
「次なるお告げよ………見える、文字が見える」
「文字?」
こぼれ落ちそうなほど見開いた瞳が宙を見つめる。
「…………スズ」
「何だ?はっきり言ってくれよ」
「……に危険あり」
玉ばあは俺に焦点を合わせ、ようやく明瞭な声で告げた。
「イスズに危険あり」