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人間の想像力は自由で無限。
しかし現実に起こり得ることに有限はある。
魔物だの魔女だの神だの、人が作り上げてきたファンタジーはファンタジーでしかない。
虚構や創作がその枠から飛び出すようなことは有り得ないのだ。
昨日の出来事はやはり夢だったんだろうか。
ー……………なんていう都合の良い展開にはならなかったようだ。
「…………なあ」
「何デスカ?」
「何デスカ?…っじゃねえよ!何でお前、ここにいるんだよ??」
開け放たれた窓辺にカーテンが揺らめく。
朝の訪れと共に夢から覚めるー…ことはなく、むしろこれ見よがしに座布団に正座をして麦茶をすする九十九神の姿が目に飛び込んできた。
奴は麦茶が半分残ったグラスをフローリングに置き、一息吐いてから答えた。
「アナタがワタシと共闘する選択肢を取ったからデス」
「だ、だったら戦いの時だけ駆け付けてくれりゃあいいだろ!帰ってくれよ!つーかその座布団とグラス、うちのだよな??何ちゃっかり使って…」
「そんな都合良くはいきマセン。アナタはワタシタチ神の間では罪人同様なんデスヨ。自分の置かれた立場というモノを確と弁えて下サイ」
九十九神の碧い目がきらりと光る。
俺はベッドに座ったままボサボサの髪と汗でべたついた目蓋をこすり、少し考えて尋ねた。
「……あのさ、俺の見間違いはじゃないと思うが…隣のそれ、何だよ?」
奴の左には、赤い水玉模様の大きなリボンでくくり上げたポニーテールが愛らしい、見知らぬ少女。
ボーダーのキャミソールにデニムのホットパンツ姿。
黒い垂れ目に、肉付きの良い唇が全体におっとりした雰囲気を持たせている。
しかしながら、ただの少女ではない。
肩下に生えているのは腕ではなく、羽。
羽といえば天使みたいな真っ白でふわふわの質感をイメージするが、そこにあるのはくすんだオリーブ色のバサバサで固そうな厳つい羽。
ザ・鳥だ。
「……ああ、もう、頼むからこれ以上訳わかんねえの出て来ないでくれよ!」
俺が投げやりに叫ぶと、少女はその羽で器用に掴んでいるグラスを口から離した。
顔を綻ばせ、雰囲気通りののんびりした口調で言う。
「あんまり粋がらんように。君の命はうちらの手の中にあるんじゃ」
その言葉と同時に、俺の右頬を何かが掠めていった。
そっと後ろの壁を振り返って見ると、一本の羽が深く突き刺さり微かに揺れていた。
俺はぎこちなく前を向き直す。
うん、雰囲気通りではなかったようだ。
「……えと、どちら様で?」
再びグラスに口をつけた鳥少女に代わり、九十九神が俺の問いに応じた。
「ワタシの神仲間デスヨ。カノジョもアナタに捨てられた存在デス」
「……俺が?」
鳥少女は中身を飲み干すと、グラスを置き俺に軽く会釈をした。
「うちは九十九神の小瑠璃。元は君が捨てた鳥のぬいぐるみじゃ。…あの小生意気なガキが生意気な若造になったんじゃなあ」
「…………鳥のぬいぐるみ??」
「その様子じゃさっぱり覚えとらんようじゃな」
戸惑う俺を眺めながら鳥少女はニコニコと笑った。
「…………知らねえよ」
俺はそのまま仰向けに倒れ込んだ。
寝汗を十分に吸い込んだタオルケットが足に絡みつく。思いっきり押し入れのほうに蹴飛ばしてやった。
「とにかく今後はワタシ以外の九十九神も戦いに参加しマス」
横からフランス人形の少女の淡白な声が聞こえる。
「ワタシとアナタだけではこの人界の神々を守るコトは不可能デスカラ」
俺は天井を見つめたまま聞き返した。
「その九十九神ってのは全部……俺が捨てたものたちなのか?」
「イイエ。アナタの捨てたモノの多くは邪鬼と化しマシタ。九十九神になったモノは僅かデス。最も、アナタは自分の捨てたモノなどイチイチ覚えていないのデショウ」
「……………」
「何か聞きたいコトはありマスカ?」
俺は怠い体をのっそりと動かしベッドの上で胡座をかいた。
温和な黒い瞳と冷厳な碧い瞳を交互に見つめながら、俺は渇ききった喉元から声を捻り出す。
「……昨日の話だ。もし俺が自分の命を大人しく差し出せば、那由多は元の姿に戻って、そのまま無事でいられるんだよな?」
「カノジョの髪を切られたコトが相当ショックだったようデスネ」
「…答えろよ!」
「昨日お話した通りデス」
碧い瞳が続けて言う。
「デスガ、それができマスカ?」
「……それは」
言いよどむ俺に少女はさらに言及する。
「アナタは少しだけ揺らいでいマス。しかし、いくらカノジョの為とは言え、その踏ん切りはなかなかがつかない。いえ、つけられるはずがないんデス。
他人の為に、自分がいなくなるセカイの為に命を擲つなどできるはずがありマセン。そうデショウ?」
「……………」
俺が俯くと、少女は言葉を切った。
やや間を開けてからこう言った。
「それが人間というモノなんデショウ。自分の命を真っ先に考え、それと同時に自分の大切な人たちを悲しませてはならないと思うのデショウ。共に生きていきたいと思うのデショウ」
「君の選択肢は間違ってはいないってことじゃよ」
鳥少女が笑顔でフォローを入れる。
俺は顎に手をあて、質問を重ねた。
「……じゃあ、俺がこのままモノを捨て続けたら?それとももうこれ以上捨てるのは無理なのか?」
「捨てるコトはできマス。今、アナタのゴミ箱は溢れかえってリセットされている状態デスカラ。……ただし、これからもこれまでと同じペースで捨て続けていけば、また同じコトの繰り返しデス。さすがに二度もゴミ箱をいっぱいにした人間を見聞きしたコトはありまセンガ、そうなったらもう、代償はアナタの命どころでは済みマセンヨ」
俺が生唾を飲み込むと同時に、フランス人形の少女は麦茶を口に含んだ。
聞いていて羨ましくなるような小気味よい音が奴の喉で奏でられる。
やがて始まった九十九神二人の雑談に、俺は両手で顔を覆った。
まったく人形の癖に麦茶なんて飲みやがって。
だがこれは、俺が生み出した神様……
そういうことだ。
自分を窮地に追い込んだのも俺。
何も知らない那由多から何も気付かれることなく何かを奪っていくのも、俺自身。
ああもう本当に、夢であってほしいのに。
いつの間にか静まり返った部屋に、俺は顔からゆっくり手を離した。
「………え?」
目の前の二つの座布団には、美しいフランス人形とオリーブ色の鳥のぬいぐるみが転がっていた。
「え、……え??」
俺は唖然としてベッドから飛び降り、床に這うような体勢でそれらをじっくりと見つめた。
息遣いも瞬きも、筋肉の動きのひとつもない。
完全なる玩具。
「な、……何なんだ?おい、何とか言えよ!やっぱり夢なのかよ?……………」
俺はフランス人形の小さな肩を掴んで揺する。
虚空を見つめるその瞳は応答しない。
不意に、ガチャ、と部屋のドアが開いた。
徐に顔を上げると、そこには口を”い“の字に開けて
俺を見下ろす、いや見下げる姉貴がいた。
「…………」
「…………」
無言で見つめ合った後、姉貴はこれといって表情を浮かべず、機械的に唇を動かした。
「パトラといつものショッピングセンターに行ってくるわ。帰りは昼過ぎになると思うからご飯は適当に食べて」
そう言ってくるりと踵を返し、ドアノブを握りながらこう付け足した。
「玉ばあちゃんから電話があった。あんたたちに話があるから午前中に来なさいって。いいわね」
そのままドアはバタンと閉められた。
俺は蛇に睨まれた蛙のごとく、その体勢のまま硬直を続けていた。
今日から俺の異名は《物言わぬ人形に憂える変態兄さん(独身)》に決定した。
「……………あ、はははは、………はあーっ……………」
ガクンと体の力が抜け落ち、俺はズルッと腹這いになった。
動かぬ二つの玩具に息吹を与えるようにすーっと吹き抜けた山風が、嘆く俺の頬を優しく撫でつけていった。