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蝶の軌跡 6

 





 * * *






 キラキラと、月光を纏った彼に、ただ見とれていた。




 人の往来が激しい表の道から逸れた、暗い夜の路地の一角。

 治安の行き届かないそこは、犯罪の温床だ。

 空に浮かぶ銀の三日月だけが、そのとき路地に差していた唯一の光源で。

 地面に無様に座り込んでいた私は、唐突に現れた彼を見上げた。

 視線の先で、彼は私を見て酷薄に口の端を上げる。


 ……あの時の貴方は


「じゃあ、おとなしく俺に喰われてよ」


 とても冷め切った目をして嗤っていた。






 * * *






 それが夢だと気づいたのは、目の前に母がいたから。

 それに加えて、視界がやけに低かったせいもあるかもしれない。


『ん? 揚葉、どうかした?』


 無意識に目の前にあった布を掴むと上から声が降ってきて。

 顔を上げると、母が笑いながら頭を撫でてきた。

 どこだろう、ここは。

 周りを見回してみると一面に広がっているのは何もない白。

 所々何か景色のような映像が浮かんでいるように見えて、同時にそれがあまりに朧気すぎて何もないようにも見える。

 何もかもがぼんやりとした世界で、目の前にかがみ込んだ母はとても優しい顔をしている。


 なんでもないよ


 笑いかけると、母はにやりと口の端を上げて、ぐしゃぐしゃと私の髪をかき回した。


『ちょ、おかーさん!』


『揚葉が可愛すぎるのが悪い! なにさ、にっこりしちゃって。あーもーほんと可愛い!』


 強く強く抱きしめられる。なのに何でか痛くなくて、とても楽だ。

 あったかい。

 しばらくそうしていると、母は何かを思い出したように小さく声を漏らすと、そのまま立ち上がった。


『あ、こうしちゃいられないな。早く帰らないと』


 ――どこに?


『そりゃ、家だよ。いつまでもこんなところで道草食ってられないでしょ』


 気づくと私たちが立っているところは、白いまっさらな空間だった。

 何もない場所に向かって、母が歩き出す。それに習って私も後についていくと、白いだけの地面なのに不思議と土の感触がした。

 進む方向を見てみても、何もない白が広がるばかりで、目的地なんてどこにも見えない。

 一歩、二歩、三歩。

 地面と空の境目も分からない空間で、どうしてか私たちは疑問に思うこともなくしっかりとした足取りで歩けていた。


『揚葉、手ぇ繋ごう? ほっとくとすぐ迷子になるからなぁ、私の娘は』


 茶化して笑う母が差しだした手を握ると、大きな手が私の手を覆って握り返してくれた。

 柔らかくて、あったかい。

 それに安心して甘えるように寄りかかると苦笑しながらももう一方の手で頭を撫でられた。

 これが好き。

 この手つきとぬくもりがあると、とても安心する。


『あ、ほら、着いたよ、揚葉』


 気がつくとさっきまで何もなかった白い空間に、一軒の家がぽつりと建っていた。

 そんなに歩いてないのになぁと、何気なくわき上がってきた疑問は、さほど時間をおかずに自然と頭から抜け落ちていく。

 緩やかに流れる時間は優しく、目に見える景色は淡い色合いが全体に広まっていた。

 母に手を引かれて中に入ると、住み慣れた内部が姿を現す。

 窓から見える景色はさっきまで居た白ではなくて、いつも家の窓から見えるものに変わっていた。


『揚葉ー何してるの? ちょっと手伝ってくれない?』


 さっきまで隣にいた母がいなくなって、代わりにキッチンの方から声が聞こえる。

 いつの間にか高くなっていた視界に何の疑問も感じないまま、私は聞こえた声に返事をした。


『今行くよ!』




 少しずつ、少しずつ、くるくるといろいろなものが変わっていく。

 年月が過ぎて、高くなっていく視界を感じながら、高校生ぐらいになった私は母と笑い合って一緒に料理を作って父を待っていた。

 仕事から帰ってきた父を迎え入れて、一緒に食卓に着き、会話を交わす。

 他愛もない会話で笑いあい、冗談を言い合うのが楽しかった。



 酷く長くて、幸せな夢だ。



 分かってる。


 この夢は作り物だ。


 都合よく作られた、私の願望だ。


 だけど、すごく居心地が良いんだ。

 ずっと、このままでいたいな。

 ずっと、ここにいたいな。

 現実を思い出せないのに、何でかもう戻りたくないんだよ。




『――あの子は、誰に似たんだろうねぇ』


 どこからともなく聞こえた声に、ぴくりと肩が跳ねた。


『昔から綺麗な子だとは思っていたけど、最近は本当怖いくらい綺麗になっていくねぇ』


 下の方に、祖母が見えた。

 重力はない。私はただふわふわとただよっている。

 上から見下ろしているはずなのに、見えた祖母の姿は何故か横から見た様な感じだった。

 でもそれをおかしく思うほどの違和感は、不思議と感じない。


『成長するほど、誰にも似なくなっていって。気味が悪い』


 昔はまだ面影が残っていたのに、と吐き出す祖母の声に、小さく震えた。

 ……知ってる。

 この台詞を、知っている。


『あの子は、私の子だよ』


 その声を聞いて、初めてそこに母もいたのだと気がついた。

 だけど、見渡してみても母の姿は見えない。祖母の横顔だけしか分からない。

 ……ああ、そうか。

 あの時私は、隙間から祖母の姿しか見ていなかった。


『だけど、あの男の子だろう?』


『あんな奴関係ないよ。私が育てた。私の子だ』


 ああ、もう、嫌だ。

 思い出してしまいそう。

 耳を思いっきり塞いで、目を固く閉じる。

 それでも、その声は何にも遮られることなく私の耳に入ってきて。




『揚葉は、良い子だよ』




 聞こえた言葉に、涙が流れた。


 やめて。

 いやだ。

 さっきまで、あんなにいい夢だったじゃない。

 これ以上、見たくない。聞きたくないんだ。



 変わっていく。何もかもが。

 これまで見ていた光景が、百八十度反転して、暗闇の中へ堕ちていく。

 閉じたはずの視界で、これまでの何かが壊れていくのが見えた。



 ……いやだ。


『――』


 これ以上先は、見たくない。


『――ろ』


 や、だ……


 起きろ。

 起きてよ。

 早く、ここから――




「どうして目を逸らすの?」




 唐突に響いた声は、全てを飲み込んで、この白い世界に反響して消えた。

 気づけば、さっきまであった声が何も聞こえない。

 固く閉じていた目を開けて足下に視線を下ろすと、さっきまでそこにいた祖母や母は、もういなかった。


「本当は、分かってるんでしょう?」


 周りを見ても、声の主はどこにも見当たらない。

 声は耳を通して聞こえてくるというよりも、脳に直接語りかけている様な感じで、でもそれを奇妙だとは思わなかった。

 何のことをいっているの?

 分からないよ。分かるはずがないでしょう。

 そんな主語の抜けた、不明瞭な言葉で。そんなの、貴方の言いたいことを本当に全て分かっている人にしか通じない。

 だから、私には分からないよ。

 分からないんだ。みんな、全部、何もかもが。


 ――違う。


 分かりたくない。


「そうやって、また無くすつもり?」


 何を。

 嫌だ。

 言わないで。

 なにも、言わないでよ。



――『       』



 私は、弱いから。

 どうしようもなく、弱いから。

 また、壊れたくないんだよ。


 やっと、また人になれた・・・・・のに。


「……そんな風に、逃げて」


 声は。


 脳裏に響いてくる声は、どこか苦しげで、恨めしげで。


「逃げて、逃げて、逃げ続けて、それで状況はよくなるの?」


 それを上回るほど、悔恨の念でいっぱいだった。


「弱さを言い訳にして目を逸らしたって、事態は悪くなる一方だって」


――そんなこと、とっくに分かっているでしょう?


 その声を、奇妙だとは思わなかった。

 その声の主が辺りに見当たらなくても、脳に直接響いてくる様な感じでも。

 それは、酷く聞き慣れた声音だったから。

 機械を通して聞く少し認識とずれた声ではなく、正真正銘いつも耳で聞いている――自分の声。


 ……分かってるよ。

 分かっているけど、怖いの。

 怖さで、足がすくむ。

 どうやったらこれを振り払えるのか、分からないんだ。

 向き合うことで、また傷を作るのが、怖い。

 どうすればいい?

 私は、どうすればいい?


「……弱虫」


 この声は、私自身だ。

 自分自身に答えを求めたって、縋ったって、結局のところ自問自答。

 自分の中で答えが出ていない今の状態じゃ、いい答えなんて期待できないと分かってる。

 だけど、もしこの声が道を示してくれたのなら。

 それは気づいていなかっただけで、私の中で既に答えが出ていたということなんだろう。


 声は小さく自嘲気味の笑い声を響かせた後、頭の中で私に語りかけた。

 その声は、途中でどんどん薄れていくせいで、酷く小さく、聞き取り難いものだった。

 最後の一文字を言い終えると、それっきりもう声は聞こえなくなった。


 最初と変わらない真っ白な空間に、ただ私だけが一人ぽつんと座り込んでいた。










 あの人が居ない世界で死人のように生きるのが良いなら、そのままずっとうずくまって震えていればいいよ。

 




















 いったい何日経ったんだろう。

 ぼんやりする思考で考えて、答えが見つかる前に放棄した。

 元から数えてないものを思い出そうとしたって、最初から答えが出るわけもない。

 窓から差し込んでくる光は赤く染まって、もうすぐ夜が訪れることを知らせていた。

 身体が、だるい。喉がからからだ。

 どのくらい私はここでこうしていたのだろうか。

 何日も経ったのかもしれないし、案外一日しか経っていないのかもしれない。

 のっそりとベッドから這い出て、力が入らずにそのまま床に座り込んだ。


 重い身体を動かして水道に向かう。

 蛇口をひねって傍に伏せてあったコップに水を注ぎ、喉に流し込むと、少しだけ視界のもやが晴れた気がした。

 だけど、思考はいっこうに晴れなくて、私は無意識のままにその行為を繰り返す。

 行動に意思が伴うとこは無く、自分が行っている行動さえ正確に把握していなかった。


 気づいたら、いつの間にか私はベッドの傍に座り込んで、それにもたれかかっていた。


「……」


 緩慢に首を廻らせれば、窓の外に空が見える。さっきまで出ていた夕日は沈み、空は名残の赤色に夜の藍色が混ざり合い始めていた。

 しばらくの間じっとしていれば、藍色は完全に赤を飲み込み、空からは光が消えていく。

 暗くなった部屋で、私は電気もつけずにただぼんやりと座っている。

 目に見える景色が。

 肌で感じる肌寒さが。

 私自身が。

 酷く曖昧で、冷たく、作り物めいて見える。

 何をしているんだろう、私は。

 ふと脳裏にひらめいた疑問は、その数秒後に自らの答えに埋没する。

 ――どうでもいいよ。そんなの。

 どうでもいい。考えるのは、つらい。

 今の時点で、もうおかしくなっているから。

 視界に映る風景はどれも現実味が薄れて、感情の起伏が少なくなってきている。

 もう既に、崩れかけてる。これ以上は、バラバラになってしまう。

 ……何も、考えたくないんだ。

 目をつぶって、ベッドに寄りかかると、安心する懐かしい香りが鼻をかすめて、穏やかな気持ちになれた。

 そのまま思考を中断して、意識を沈めていく。

 このまま、全て忘れてしまえば。そうすれば、きっと楽になれるんだろう。

 あの人は、私を望んでいない。私は、あの人にとっての邪魔者。

 だからきっと、これが最善。

 目をつぶって考えるのを止めれば、緩やかな波が私ごと優しく包み込んで流してくれた気がした。






 ゆらゆらと、夢うつつにいた。

 起きているのか、寝ているのかも分からない境界線上の上を彷徨っていた。

 ふと、静かだった空間に音が聞こえて、うっすらと目を開ける。

 部屋の外、窓を叩くような音だった。


「……母さん?」


 ふらりと立ち上がった足下は覚束なくて、歩くだけでもぎこちない。

 寝ぼけているかのような、ぼんやりとしか物事を考えられない状態だった。

 窓の外は、もう暗い。先ほどの黄昏なんてとっくに過ぎ去ってしまったようだ。

 小刻みに窓を叩く音がする。それは本当に小さくて、おおよそ人が叩いているような感じでは無かったけど、今の私はそんなことも考えられなかった。

 ふらつく足取りで窓までたどり着いて、鍵を外す。


「母さ――……」


 そのガラス戸を開けながら呼びかけた声は、吹き込んできた強い風によって掻き消された。

 長い黒髪が強風にあおられて翻る。思わず腕で顔をかばうと、私の脇を通り抜けたその風が、部屋をかき乱す音が聞こえた。

 その音に気づいて、振り返った先で呆然とする。

 雨は無いため濡れてこそいないものの、部屋の中はまるで空き巣にでも入られたかのように、めちゃくちゃに散らかってしまっていた。


「――あ」


 我に返って慌てて窓を閉めて鍵も掛けると、強風がガラスにぶつかりガタガタと音をならす。


「風、か……」


 ぽつりとつぶやいた言葉は、風が入ってきたときの騒がしさとは打って変わって静かな部屋に染み渡った。

 風が窓を揺らす音だけが、耳に届く。その他には、何も聞こえない。……私の呼吸音以外、何も。

 部屋だけでなく、家のどこからも物音一つしない。

 酷く、静かだ。

 どうしてこんなに静かなんだろう。静かすぎて、他の誰の気配も感じられない。

 いつから、こんなに静かだったのかな。少し前までは、もっと音が溢れていたはず――…………

 わずかに開いた口の端から、自嘲がこぼれ落ちた。違う。

 もうずいぶん前から、この家はこんな感じだ。

 堪えきれなくて、両手で顔を覆う。背中を壁に預けて、そのままずるずると座り込んだ。


 “母さん”なんて。

 何で、そんな言葉が口をついて出ていってしまったんだろう。

 幸福だった夢の余韻が、まだ残っている。忘れなくちゃいけないのに。

 あれは、ただの夢にすぎない。


 この家に、母親はもう居ない。

 どこにも、居ない。私は一人だ。

 もう私の周りには、誰一人いやしない。

 何で、全て忘れれば大丈夫なんて、性懲りもなく考えていたんだろう?

 全然、大丈夫なんかじゃない。楽になんてなれない。



――本当は、分かってるんでしょう?



 夢の中でいわれたことが、私の脳内にリフレインする。夢の中で否定したその言葉は、今の私にはどうしてか自然に受け止めることが出来た。

 ――分かってるよ。思い出すのも辛いけど。

 立てた膝頭に目元を押しつけて、背中を丸める。そうやって小さくなっていれば、何かから隠れられる気がしていた。

 過ちから、責任から、後悔から。自分の中にわき出てくるそれらから目を逸らしていれば、今のままの私でいられると、私の弱い部分は小賢しく計算していた。

 分かってる。ちゃんと分かってる。

 分かっているからこそ、認めたくなかった。気づかないふりをして、ちっぽけな心を守っていたかった。

 そうしないと、壊れてしまうと思ったから。


 もう良いよ。疲れた。

 弱い自分も、何一つ成長しようとしない自分も、うんざりだよ。

 逃げること、もう止めよう?

 目を逸らして逃げたって、結局何が出来るわけでも無い。

 後悔はふとした瞬間に押し寄せて、どうせろくに逃げ切ることすら、完全に出来てないんだから。

 そろそろ認めても良い頃だと思うよ。バラバラになったって、壊れたって、今そうしないときっと後悔する。

 だって今、気づいてしまった。夢の余韻が残っていたせいで、目を逸らしていたそのことに、気づいてしまった。


 心が痛い。

 認めることは痛いけど、それ以上に失うことの方が痛いんだ。

 あの時失ったことの後悔が、今も続いている。だから私は認めたくなかった。それを認めないことで、失ったこと自体初めから無かったことなんだと思おうとしていた。

 そんなこと、これから先ももう起こりえないんだと、無意識の内に勝手に思い込んでいた。

 だけどこのままだと、目を逸らしたせいで同じように大切なものを無くすことになる。とんだ本末転倒。……そんなの、いやだから。


――『揚葉は、良い子だよ』


 強くて大好きだったあの人を、私はいつからか、“母さん”と呼べなくなっていた。

 幼い頃は優しかったあの人を、もうあの人としか呼べなくなってしまったあの人を、狂わせたのは私のせいだ。

 認めなきゃ、いけない。

 そうしないと、前になんか進めない。



 ただ怖いだけだった。

 ずっと、怖いだけだった。

 知らず知らずの内に、誰かを引き寄せてしまう自分が。

 それと同時に、周囲を少しずつ狂わせていく自分が。

 それを認めたくなくて、目を逸らし続けた結果、気づいたら手遅れになっていた。

 後悔しても、もう遅い。全ては終わってしまった後。




 だけどもう、それに囚われて、まだ終わってもいないことまで諦めてしまいたくないんだよ。




「……主様」


 私は、貴方の餌なの。

 それに、後悔なんて感じない。それが貴方のためになることなら。


――あの人が居ない世界で死人のように生きるのが良いなら、そのままずっとうずくまって震えていればいいよ。


 嫌だよ。そんなの。

 貴方が居ない世界なんて、もう考えられない。考えたくもない。

 好きなんだ。

 自分ではどうにもならないくらい、大好きなんだよ。


 カタカタと窓を叩いていた雑音が消えたことに気づいて、顔を上げた。

 カーテンの開け放たれたガラス越しに見える空は、もう完全な藍色だ。

 また夜が来た。全てを覆い尽くしてくれる夜が。

 ……そっか。

 月光が降り注いでくる。数多に存在する星よりもずっと強い光が、ただ一つの衛星から発されている。

 立ち上がって外と内とを隔てるガラスに手をつくと、すぐ近くにあるはずの風景も、まるで私と関わりの無いものに見えた。ガラス一枚挟むだけで、そこには完全な壁が出来てしまう。

 孤立した空間。私はずっとここにいた。

 そっか。そうなのかもしれない。

 朝よりも、夜の方が好きになっていた。それは、ただ彼に会えるからという単純な理由だけでは無く――逃げ続けていた私には、物事を隠してくれる闇が心地よかったのかもしれない。

 そんな風に、私は居心地の良い方へ逃げていただけだったのかな。

 好きだなんだ言って、結局私は、彼に依存していただけだったのかな。

 でもさ、この感情は大きすぎて、依存なんて言葉だけじゃ到底片付けられないと思うんだよ。

 貴方を想うと胸が温かくなって、嬉しくなって、心臓なんて加速しすぎて、痛いくらい。

 恋なんていままでしたことが無いから、実はよく分からない。

 だけど、ただの“好き”よりは、この気持ちはずっと深くて、複雑で、価値のあるものだと思うの。

 この感情を、私の“恋”にしたら何かおかしいかな?


 手のひらに伝わる冷たさからそっと手を離すと、その部分に手形が残った。

 それは外側からゆっくりと消えていき、やがて元通り透明なガラスに戻る。でもつけた印は、最初から無かったことになるわけではない。見えなくても、ちゃんとそこに残っている。

 ……私の印を、見つけに行こう。

 あいにく、私はそんなにあきらめのいい人間じゃないらしいから。

 大丈夫。無くなったように見えても、まだ繋がりは切れていない。

 切る気なんてない。切らせないよ。

 そんな風に考えると、珍しく強気になっている自分がおかしくて、何故か少しあった怖さも薄れた気がした。



 軽く身支度を調えて、玄関に向かう。その道筋の途中、不意に玄関脇にあった写真立てが目にとまった。

 その写真立ては表面のガラスが割れて、中の写真がむき出しになっている。

 手にとって窓から漏れる光にかざしてみると、幼い頃の情景が映っているのが分かった。

 そこには、幸せだった頃の私と母が映っている。

 あえてその写真を選んだのは、私のちっぽけな足掻きだったのかもしれない。

 

 あの人はこの写真立てを割ったけど、捨てることはしなかった。

 そこには、なにがしかの意味が込められていたんじゃないだろうか。

 手に取るとそれは軽くて、でも詰まっている思い出は、一言で言い表せないくらい重い。

 その思い出の一部を、私は自分を守るという理由で放棄していた。

 これは、“今”から“過去”へ逃げた私の、過ちの証拠だ。

 ねぇ、母さん。こんな自分勝手な娘でごめんね。

 あなたの心情を、慮ることができませんでした。

 ごめんなさい。

 私はずっと逃げてきました。目を逸らしてばかりいました。

 だけど、あなたという過去があったから、私は今回踏みとどまれているのだと思います。ありがとう。

 そして……さよなら。

 私はもう、ここに戻ってくる気はない。


「……行ってきます」


 自己満足でしか無いけれど。

 返事が無いと分かっていても、そう言わずにはいられなかった。

 写真立てを戻して玄関まで向かい、ドアノブに手を掛ける。


――『きみが見ている俺は、偽物だ』


 私は、確かに貴方のことを何も知らない。

 私の知っている貴方は、貴方にとって、断片的な情報を寄り合わせただけの、歪なものに見えるのかもしれない。

 私が必死で繕った、つぎはぎだらけの見るに耐えないものに思えるのかもしれないけど。


 それでも、私は。


 ――私は。



 ドアを開けると、弱い風が髪を揺らした。

 部屋で窓を開けたときに遭遇した強風は、もう大分弱まったようだ。

 夜空を見上げると、無数の星と、一つだけ違う形を持つ銀の月が存在を主張していた。

 貴方に会ってから、何故だか銀色の月がよく出ている。



――『もう、うんざりなんだ。きみに付き合うの』


「嘘つき」


 貴方が私に付き合う義理なんて、最初から存在しない。

 だって、出会ったときからすでに、貴方は絶対的な強者だった。


――『じゃあ、おとなしく俺に喰われてよ』


 私は、初めから貴方の餌としてそこにいた。

 貴方は捕食者で、私は被食者。

 貴方は『主様』で、私は……ただの“揚葉”だ。

 義理なんて、持つ必要がない。無理して私を喜ばせる必要なんて、どこにもない。

 私達の関係は、最初から圧倒的な強者と弱者を基盤として成り立っていたんだから。


「……嘘つき」


 嘘ばかりの貴方の言葉なんて、もう知らない。

 貴方が私に付き合う義理があったというのなら、私だって貴方に従う理由がない。そういうことでしょう。

 だったら、私も好きなようにやる。先に嘘を吐いたのはそっちなんだから。


 夜に向かって踏み出した足並みは、もう前のように震えることはなかった。




 私はね、主様。

 本当の貴方がどんな人でも、今のまま、好きでいられる自信があるよ。

 だって、貴方が多くのことを私に隠していたとしても。

 私に向けてくれたあの笑顔は、偽りなんかじゃないでしょう?




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