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蝶の軌跡 5

 







 始まる前に終わったとしても、貴方が消えるぐらいなら、それでいいと思ったの。








 * * *






「きみって蝶みたいだよね」


 彼は今までぼーっとソファーに座っていたかと思ったら、急に思いついたようにそう言って私を見た。


「蝶?」


 今まで言われたこともない言葉に、少し怯む。彼が言った言葉に違和感を覚えたのは、その直後だった。

 私はあんな、花に集まってくるようなひらひらとした可愛らしい生き物じゃない。


「うん、蝶。……あ、揚羽蝶?」


「……名前が“揚葉”だからですか?」


「それもあるけど、何ていうか……」


 そこでいったん言葉を句切って、彼は目を伏せて悩み始める。

 何を考えているんだろう。

 そう思いながら悩んでいる彼を見ていると、以外と早く顔を上げたので、目がばっちり合った私は驚いて思わず視線を彷徨わせた。


「何ていうか、人を惑わせて誘う、みたいな」


「……はい?」


「なんかそんな感じがしない? 揚羽蝶って。夜の蝶、みたいな」


「…心外です」


「そう?」


「私、誘ったりしません」


 きっぱり言い切った後で、じわじわと恥ずかしさがこみ上げてきた。

 何言ってるんだろう私。

 ちらりとソファーの彼に視線をやると、彼は口元に手を当てながら真剣に悩んでいる。

 その様子からどうやら私の言葉を検証しているようで、更にいうなら全く信じている様子がない。

 ……泣ける。


「私が蝶なら、主様は蜘蛛ですね」


 とっさに言ったのは、単に彼の思考を逸らしたかったからだった。

 そう言えば、案の定彼は考え事を中止して首を傾げた。


「なんで蜘蛛?」


「蝶は、蜘蛛に食べられるものだから」


 あくまで明るく、彼に笑いかける。


「私は主様の餌ですから」


 彼は軽く目を見張った後で、薄く笑いながら、そうだね、と同意した。






 * * *






 蜘蛛。


 前に彼が私を蝶と称したとき、私は彼をそう表した。

 蜘蛛は肉食だ。自分と同じくらいの大きさの生き物さえ、ぺろりと平らげてしまう。

 巣を張って、獲物を捕らえて、それを自らのかてとする。蜘蛛はそうして餌を得る。それは蜘蛛にとってごく自然なことだ。食料を得るため、生きるための手段であって、それ以外に何の意図もありはしない。


 銀色の三日月の下で出会った日、彼は着ている衣服の所々を赤く濡らしていた。

 彼の口元にも、手にも、同じように乾ききっていない赤がこびり付いていて。

 本来なら人の顔を判別することすら困難な暗さのあの場所で、月の光が彼を鮮明に照らし出していて、それが分かった。



 詳しく聞いたわけじゃない。

 そうなった経緯も、どのようにそれを実行するのかも、私は知らない。ただ経緯などどうでもよくなるほど、その事実は重く、衝撃的だった。


 ……彼は、蜘蛛と同じ肉食だ。

 人を糧にすることで生きている。






「食べてください」


 そう言って地面に転がる男を指で示すと、彼は目に見えて動きを止めた。

 じっと見つめた彼の瞳は、急激に色を失って何も映さなくなる。そうしてそこには、ただ虚ろな黒だけが残った。

 空虚なそれは、作り物のように人間味がなく、今にも崩れ落ちそうなほど繊細で不安定だ。

 ――あの時と、同じように。


 主様、ともう一度口の端に小さく敬称を乗せて促す。

 どこも見ていなかった彼の目は、少しの間を置いて私にピントを合わせた。

 そのまま少しの間緩慢な動作で瞬きを繰り返す。

 その目を彩る色彩は、色としての黒と見るよりも、闇と表現した方が正しいのかもしれない。

 月光に照らされた真っ白な髪とは対照的なその底知れない漆黒は、見る者を酷く不安にさせる。


「なに?」


 いくつかの瞬きの後に緩く持ち上げられた彼の口の端は、ゆっくりと笑みを形作った。

 だけど、その笑い方はいつも通りのものなのに、瞳の中の虚無は変わらないままだ。



 彼は、優しい。だからこんな現状が出来てしまっている。

 目の前の彼の瞳をのぞき込みながら、頭の中で別のことを考えた。

 動物は、必ず何かを喰らって生きている。それはたとえば植物だったり、他の動物だったり。何にしても、命を喰らって自らを生かしていることに変わりはない。

 彼の場合はただ、それが同族であるだけだ。

 本来ならそれは人にとっては道理に外れた行為で、だからこそ彼も今のようになってしまっているわけだけど。

 ――しょうがないじゃない。

 何度も何度も繰り返した思考に胸中でそう返して、そっと息を吐いた。


 聞いたところでは、彼の身体はそれ以外受け付けないらしい。

 もし何か一つしか生きる術がないのだとしたら、誰だってその方法に手を伸ばすだろう。生に執着しているものほど、余計に。

 生き物は、元々生存本能に従わざるを得ないような意識を植え付けられている。


 ……だけど、彼は違うのかな。

 生きることにそれほど執着していないのかもしれない。

 ずっと避けていたのを知っている。自分を追い詰めるほど、頑なに何も口にしなかった。

 人を食べようとはしない。……死に向かっていっても、彼の決意は揺らがない。


 私は、彼と違って最低な人間だから。

 彼が消えそうになって、私の中の倫理観なんてものは容易く剥がれ落ちた。

 誰かが死ぬか彼が死ぬかの二択しかないのなら、彼に生きていて欲しい。

 それによって、たくさんの人が死ぬことになっても、見知らぬ人よりは彼に生きていて欲しいと思ってしまう。


 言われなくても分かってるよ。

 私は人でなしだ。

 でも優しくなるために彼を切り捨てなければならないなら、このままでも構わない。




 きらきらと降ってくる月光が、夜闇に映えて妙に幻想的だった。

 それが私の現実味をなくして、一瞬夢の中にいるような錯覚に陥る。

 だけどこれは現実だ。

 目の前で少し首を傾ける彼が、いつもより少しおかしいのも。

 妙にぼんやりとして働きにくい思考も、小さく痛みを主張する心臓の辺りも。

 そして、これから私が言う言葉も。


 やり直しのきかない、現実の出来事なんだ。


「……私、ちゃんと捕ってきました」


 彼の漆黒の瞳は、目の前にいる私の姿さえも映さずに、どこを見ているのかも分からない。


「…うん」


「主様がつらそうだから、私が、何かしようと思って」


「うん」


「主様は、一人だと何もしようとしませんから」


「うん」


 言い訳のような言葉が、すらすらと出てくる。

 それが彼に対する弁明なのか、私自身が感じている罪の意識に対する言い訳なのかは、自分でも分からなかった。

 だけど。




「いなくなって、欲しくないんです」




 それだけは、紛れもない本音だ。


 言わなければ分からないのだと悟った。

 彼に真っ正面から言わないと、逃げられると分かった。

 でも、初めて彼に正面から告げた言葉に、返事が怖くて彼を直視することが出来ない。

 自らを励まそうと密かに握った拳は、不安で微かに震えた。


 私の周りには、もう貴方しかいない。

 貴方が居なくなった世界なんて、私にとってはもう価値がないんだよ。


「だから――」


「揚葉」


「――っ」


 そのとき私を遮った彼の声と、同時に薄い布ごしに感じた人肌のぬくもりに、言葉を失う。


 ふわり


 揺れる白が、一瞬で私の思考を奪い取る。

 自分のものではない規則正しい心臓の音が、すぐ傍にあるのを否応なく感じた。

 背中に回った腕に私の身体は固定されて、動くことさえままならない。


「ぬ、しさ……」


 発した呼び声は、回された腕に力がこもったことにより不思議と尻すぼみになった。

 それと同時に、胸の奥の方がきゅっと縮まるのを感じる。


「揚葉」


 呼ばれて反射的に顔を上げると、彼の漆黒の瞳と目が合った。

 その底なしの闇に飲み込まれて、私の思考は数秒の間フリーズする。

 それは流れるような動作で、何かを考える時間も、それに気づくような隙もなかった。

 いつの間にか彼の指は私の顎を持ち上げていて、

 いつの間にか彼の顔がすぐ近くに迫っていて。

 それに気づいた刹那、私の唇は彼に塞がれていた。



「……ッ!」



 咄嗟に顔を後ろに引いて右手で口元を覆う。触れた自分の唇は、熱を持っていた。

 そっと離れた彼は、なんでもないようにただ私を見下ろして。

 そうして、思考力を失って呆然と見上げる私に構わずに、ただ柔らかく笑うんだ。


「いつもいつも、ありがとう」


 そうやって、何事もなかったかのように。

 全て元通りに修正しようとしている。


(……ずるいよ)


 熱を持ったままの唇を噛む。


「……っ誤魔化さないで、ください」


 絞り出した声は、いつも以上に小さく掠れて、酷く惨めだ。

 ……貴方は

 こうすれば私が何も言えなくなるって、分かっててやってる?

 そう考えてしまうのは、穿ち過ぎなんだろうか。


「私、同じ手に二度も引っかかるほど、馬鹿じゃないです」


「……」


「馬鹿にしないでください」


「……馬鹿になんてしてないよ」


「なら、逃げないでくださいよ」


 下から真っすぐに覗き込んだ彼の顔は、私がそう発したとたん、ほんのわずかに歪んだ。

 そのままの状態で数秒が経過したあと、彼は一つ溜め息をついて、片手で顔を覆う。


「……わかんないな」


 吐き出された声は、予期していたよりもずっと澱んで、弱々しくて――空っぽだった。


「きみは俺に、生きていて欲しいの?」


 見上げた彼は確かにすぐ傍にいるのに、指の隙間からのぞいた光を失った瞳に、目の前にいる私の姿は映らない。

 そこにあるのは、ただただ暗い……真っ暗な闇。


「俺は、人の命を食い荒らす化け物だよ?」


 嗤うでもなく、嘆くでもなく、ただ淡々と事実を述べるかのような口調で彼がそれを言った途端、息が詰まる。

 不自然に乱れそうになる呼吸を押しとどめて、無理矢理出した声は小さく震えた。


「…それ、でも」


 生きていて欲しい。何の憂いもなく過ごせる平穏な暮らしを、貴方にあげたい。ただ、それだけなんだ。

 そんな、人が当たり前に享受していることを。願うことすら罪深いなんて、認めない。認められない。


「そんなの、関係ないです」


「……」


「化け物とか、人とか、そういうの関係なくて」


 化け物なんかじゃない。彼は、彼だ。それ以外にはなり得ない。

 どうやったら上手く伝えられるのかな。

 括りは関係ない。彼が彼としてそこにいるだけで良い。私は、彼という一人の人間・・しか見ていないんだから。

 優しくて、穏やかで、隣にいるだけで幸せな気持ちになれる貴方だから。


「私は貴方だから、ここにいて欲しいんです」


 世の中は、酷く不条理だ。

 人は同じであることに安心を求める。異端であるものを爪弾きにする。

 平等を謳っておきながら、その実異端者を許容することはない。


 空を見上げれば、彼が嫌っている銀色の月が、惜しみなく眩しい光を降らせていた。

 この広大な夜空に無数に散らばっているのは星たちの方なのに、その中で何よりも目立っているのは、ただ一つしかない異質な月だけだ。

 ただ一つの存在が、他の無数にあるものを退けて、目に留まる。

 この夜空と、同じようなものだろうか。

 異質だからこそ余計に目につき、違いすぎるからこそ、周りは受け入れるのを拒むのだろうか。

 実際を知れば、それはこんなに綺麗なのに。


 ……こんな世界は、嫌い。

 無意識に持ち上げた手が、震えながら目を覆って初めて、何も見たくなかったんだと気づいた。

 そんな場合じゃないのに、過去の情景がいくつも浮かんできて、少しずつ心が冷えていく。

 幻想的なこの景色さえも、全てが作り物のように塗り替えられて、久しぶりに「あの」感覚が蘇ってきた。

 それをきっかけにして、私の中から何かがあふれ出してくる。

 この手をのければ目の前に彼がいることも、今まで必死に彼を説得しようとしていたことも、一瞬忘れて私は自分の世界に埋もれた。



 普通であることを求められる。同じであることを求められる。

 常識、規範、一般論、それらは全て大多数の人々によって決められることで、その中に入れない私にはそれを持つことが出来ない。

 望んだわけじゃないの。私も、彼も。

 それだけの理由じゃ足りない?

 なら、どうすれば普通になれるのか教えてよ。

 私は、その方法を知らないんだよ。

 なにも、分からないんだよ。


 教えてくれるのなら、喜んでそれを実行するのに。

 どうしてみんな離れていってしまうの?


――『っ、あんたなんて――!』


 同じであることを求められて、同じになれない私には――私たちには、ここは酷く生きにくい。



 知らず目元にたまっていた涙が、重力に従って頬を滑る。

 目を閉じていた私はそのときすぐ近くで小さく息を呑んだ彼に、気づくことができなかった。

 頬を撫でる微風が涙の跡を通って、そこで初めて自らが流す涙に気づいて、それと同時に我に返る。


 私、なんで泣いてるんだろう。


(……情けないな)


 右手で目元を拭う。弱い自分をさらけだしてしまったようで、酷く居心地が悪かった。

 何かが切れてしまったように静かにあふれだしてくる涙を止めようと、何度も目元を拭う。拭うたびに目元が擦れて、ヒリヒリと痛んだ。

 それを私の手首を掴んで止めたのは、さっきまで空っぽの目をしていた彼の手で。




「……分かった」




 続いて降ってきたその声は、いままでの空気を払拭するような、酷く低い声音だった。

 反射的にぞくり、と背筋が粟立つ。

 呟くように小さな声だったのに、それはこの静かな世界を駆け抜けて、彼に支配された。


 弾かれたように上げた顔は逆光で陰がかかった彼の顔と正対する。

 その鋭い視線を真正面から全身に受けて、何を考える暇もなく、頭の中が真っ白になった。


「主、さ――」


「ねぇ揚葉。きみが見ているのはいったい誰?」


「え……」


「少なくとも、俺じゃないよね?」


 彼の腕が伸びてきて思わず身がすくむ。

 そんな私の頭を宥めるようになでる彼の手は、ただ優しいのに。

 見上げた彼の表情は、驚くほど冷たかった。


「きみが見ている俺は、俺じゃない」


「どういう……」


 頭の中で、警鐘が鳴り出す。

 どこかで、これ以上は聞いちゃいけないと根拠もなく思っていた。


 だけど、口からは無意識に途切れ途切れの言葉だけが出てくる。

 自分が何を言っているのかさえも、よく分からない。

 視線は言葉を紡ぐ彼の口元に固定されていて、耳は私の意思とは関係なく彼の台詞を一言一句聞き漏らさないように働き。

 頭の中は、彼が吐き出す言葉だけがぐるぐると渦を巻いている。


「気づいてない?」


 混濁する思考に呑まれる中で、目の前の彼が――嗤った。


「俺はきみが思うほど、善良な人間じゃないよ」


 彼の視線は、いやに冷たくて

 彼の声が、鋭く突き刺さってきて

 彼の口元は、哄笑するようにつり上がっていて

 ――恐怖で、身体が冷えていく。


「きみが見ている俺は、偽物だ」


「そん、なこと」


「“そんなことない”って、どうして言える?」


 即座に切り替えされた言葉に、何も出てこなかった。

 それは、心当たりがあると言うよりは、何も考えられなくなったという方が正しい。


「優しい? 俺はそんな奴じゃない」


「全部全部、嘘っぱち」


 視界に霞みがかかって

 モノクロの世界に侵されて

 背筋がやけに冷たくなって

 思考すらも曖昧になって


「きみの頭の中の理想を、俺に押しつけないで」


 ただ彼の言葉だけが、鮮明な響きを持って私の中を蹂躙する。


「それは、本当の俺じゃない。実際は嘘つきで、悪辣で、自分本位な奴なんだよ」


 きみは、それを知らないでしょ?

 そう言って薄く嗤う彼に、心臓が大きく波打った。


 “知らない”


 そう言われると、何も言えない。

 事実私は、彼のことを何も知らないから。


「もう、うんざりなんだ。きみに付き合うの」


 その言葉が聞こえた途端、私の中の何かが拒否反応を起こした。

 全てが白く、あるいは黒く、色さえも分からないままにぐちゃぐちゃに塗り潰されて、気づいたら私はそこにいた。

 何も聞こえない。ぼんやりとした現実味のない空間。

 目の前の景色は確かにあるのに、何もないような。何か聞こえるような気がするのに、頭に入ってこないような。

 そこに再び堕ちて、あの時から私自身が何も変われていなかったことに気づく。

 ああ…こんなものだったんだ。私の覚悟は。

 いっそ拒まれてしまってもいいなんて、そんなこと、よく思えたものだ。


 いつまで経っても変われない、弱いままの人間のくせに。






「いらない」


 その間何かを言われたのか、何も言われていないのか、それすらも判断がつかない。

 全てから目を背けていた私は、何も聞いていなかった。

 だけど最後に聞こえた言葉だけが、やけにはっきりとした響きで耳まで届く。

 彼の口から吐き出された言葉に、私はただ立ち尽くしていた。




「もう、きみはいらないよ」





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