蝶の軌跡 4
距離が埋まらない。
私と彼の間にある距離が。
彼はそれを埋める気はないのかもしれない。
だから私は、それに反発するように彼に敬語を使う。
そんな子供じみた決意が、私の中にある。
「主様、また食べていませんね?」
忘れてたよ。貴方が嘘つきだってこと。
視線の先で、彼は困ったように曖昧に笑う。
これで何回目だろう。こみ上げてきそうになる何かを抑えるために、私は右手をぐっと握りしめた。
来るたび来るたび、貴方と約束をして、そのたびにそれを破られている。
主様、貴方との約束が守られたこと、今のところ一度もないよ。
目に映る彼の姿が、ここに来るたびに生気を失っていくようだ。
近くで見る彼の肌は、白いというよりも青白い。
病人みたいだ、と考えて、唇を噛みしめた。
このまま、消えてしまいそう。
月光に包まれていた彼の姿を、ここでまた思い出す。そのまま光の中で消えていく彼が容易に想像できて、怖くなった。
座っていたソファーから立ち上がって、彼のいる後ろ側に向かう。
彼が、一歩足を下がらせるのが見えた。
なんで、……なんで
貴方はそんなにも、自分自身を追い詰めるの。
「主様、ちゃんと食べてくれませんか」
目の前まで来て、彼のシャツをぎゅっと掴んで引き留める。
私よりも上にある彼の目をのぞき込むと、彼は困ったように顔を歪める。
それを見て目頭が熱くなってきて、私はとっさに顔を伏せた。何度も瞬きをして、流れ出しそうになる涙をこらえる。
息が不規則で、上手くできなくなって、小さく何度も深呼吸を繰り返した。
駄目だ。
彼の前で泣いたら、駄目だ。
そんなことをしても、何も変わらない。むしろ、それに意識を持っていって、またかわされてしまう。
一度、私が泣いたせいで、何もかもうやむやにされた。
掴んだシャツに力を込めると、それにくしゃりとしわが寄った。
そうやって、必死に感情を抑えていたのに。
「……分かった。食べる」
すぐ傍から、ぽつりと落ちてきた彼の声は、あまりにもいつも通りすぎて。
抑えていたものとは別の感情が瞬間的にわき上がってきて、身体がかっと熱くなった。
「真面目に聞いてください!」
「真面目だけど」
「真面目じゃない!」
そう言って、理解したふりをして。
――『分かったから』
貴方が言ったその言葉は、いつもいつも嘘だった。
心配していても全然私の気持ちなんて酌んでくれなくて。中身のない約束をして、何度も同じことを繰り返す。
貴方には、心配なんかじゃ到底足りない。
「何でそんなに、自分にいい加減なんですか!」
「……」
「こんなことを続けて、困るのは主様でしょう!?」
「……困る、か…」
「このままだと、――」
“死んじゃうよ”
その言葉は、勢いに任せて言うのさえ恐ろしくて、私の声は尻すぼみになった。
痛い。
彼のシャツを掴んでいる方とは反対の手で、激しく脈打つ心臓を押さえる。
痛い。痛い。苦しい。
何かが、気管を圧迫する。
息をするのが、辛い。
今の貴方を見ているのが、辛い。
目の前にいる白くて細い彼は、消えてしまいそうなほど頼りなくて。
彼に縋り付くように立っている冷静でいられない弱い私も、同じぐらい頼りない。
曖昧な状態で立っている私たちの均衡は、いつ崩れてしまうのかも分からない、不安定なもの。
彼が、いなくなってしまう。
私の知らない間に、どこかも分からないところに行ってしまう。
そんな考えが、頭によぎって、私は更に強く彼にすがった。
それが、どうしようもなく恐かった。
「……困るのかな、俺は」
ぽつり
不意に降ってきた小さな言葉は、何の色もないもので。
ただの独り言だったのだろうそれは、静かな空間に思いのほか良く響いて、私は俯けていた顔を反射的に上げた。
何の感情も孕んでいなかった彼の表情は、私と目が合うと、自嘲気味の笑いを形作る。
「よく分からないよ」
そう、言う彼が。
「っ、」
悲しくて。
痛々しくて。
でも、きっと自分では分かっていない彼に、息が詰まる。
その台詞が、どんなに悲しいものなのか、貴方は気づいてないんだろう。
そんな風に笑わないでよ。
自己否定なんてしないでよ。
貴方がそんな風に笑ったところで。
何も楽しくなんか、ないんだよ。
無意識に私の手は、彼の手をぎゅっと握っていた。
駄目だ。
このままじゃ、駄目だ。
ここで彼を待っていても、何も変わらない。
「――え、何?」
握っていた彼の手を引っ張る。
私の頭よりも上の方にある、戸惑った顔の彼が目に入った。
気にせずに引っ張っていこうとしたけど、彼が動こうとしないのでいくら引っ張っても彼の身体は動かない。
これが男女の力の差か。無意味に舌打ちしたくなった。
「主様、一回外に行きましょう」
こんなところにいるから駄目なんだ。
ずっとこんなところにとどまって、外に出ようとしないから駄目なんだ。
私がここに来てから、彼が外に出ているのを見たことがない。
最後に見たのは、彼と会った、あの銀色の三日月の日だけだ。
それからずっと、彼はこの部屋にとどまっている。
ただソファーに座って、月の光を浴びている。
「何で」
「気分転換です」
いっこうに動こうとしない彼に業を煮やして、ついには彼の腕を両腕で抱えて引っ張った。
そうすると彼は私を見て諦めたようにため息を吐く。
「分かったから」
歩き出した彼を確認して、私は彼の腕をぐいぐい引っ張って行った。
明るい場所から扉を開けて外に出れば、外の世界は真っ暗に見える。
だけど、中から眩しい光が漏れ出てくる扉を閉めて少し経てば、夜空は再び眩しい月光を地面に降らせた。
きらきら キラキラ
落ちてくる光は白いものを反射して、世界を白と黒の二色に分ける。
庭に鮮やかに咲いた花も、夜に身を置く彼と私も、みんな等しく白黒だ。
月光は、いっそ不自然なほどに、明るい。
だからこそ、少し先の地面に転がっている異物が、やけに存在感を持ってそこにあった。
それが私の目に入った途端、緊張に思わず身体が強ばる。心臓が嫌な音を立ててなり出して、平静を保つためにぎゅっと唇を噛んだ。
駄目だ。
ぐっと右手を握りしめる。立ち止まりそうになる自分を進ませるために。
落ち着け。
(大丈夫だから)
後ろの彼を振り返って、決意を固める。
今更、揺らいでなんかいられない。
私が危惧している、そんな小さな理由で揺らぐほど、今は余裕なんてないんだ。
「主様――」
「ああ……」
声をかけようと呼びかけると、それに彼の呟きが被さって、思わず言おうとしていた言葉が引っ込む。彼の真っ直ぐなその視線の先を想像して、一瞬息が詰まった。
何してるの。
怯みそうになる自分を叱咤する。何してるの、私は。
慣れているはずでしょう? 馬鹿なことしてないで。
「きみ、また男引っかけてきたんだ?」
その言葉に、構えていても胸が痛む。
彼が私を見て苦笑するその表情に、何かが揺らぐ。
馬鹿、馬鹿、馬鹿。動揺するな。これで何回目だと思ってるの。
「…引っかけて、ません。勝手に着いてこられただけです」
彼が浮かべる表情が、小さな子供の悪戯を見たようなそんな柔らかいものであるのも。
何の興味もないように、日常会話を返すような調子の声も。
とっくに分かってるでしょう、私は。
彼が私に抱く感情は、恋愛よりも友愛、親愛に近いものだって。
そしておそらく、彼が私の気持ちに気づいた上でそう振る舞っているって。
だって、彼はマイペースではあるけど、鈍感じゃない。ぼんやりしていることは多いけど、勘は鋭い。
私の話を逸らそうとするときの彼の態度は、間違いなく私の気持ちに気づいているからこそ出るものだ。
この恋が実ることが難しいなんて、とっくに分かってる。
私は、その事実をちゃんと知ってる。理解しているんだ。
だから、今更、このときに、揺らいだりするな。冷静になれ。
「きみの言い分って大概“着いてこられる”だよね。なんかしてるの?」
「…特に何も。ただ声をかけられて、突っぱねて帰ろうとしたら着いてこられるだけです」
「ふーん……」
納得したのかしていないのか。そんな微妙な返答をしてから、彼は地面に蹲っている塊に近づいていった。
それを見て、ここに来る前に私に声をかけてきた男のことを思い出す。
私は、今日みたいに彼に会うとき、決まった時間にここに着くように調節している。その方が、彼に迷惑がかからないからだ。
だから、あの時あの場所にいたのは、ただの時間潰しにすぎなかった。あの道を選んだのも、人通りの多い場所は苦手だからという理由なだけ。
少し前に見つけたあの道は、すぐ傍に大通りがあるからか、人通りが全くない。きっと普通の人は大通りの方に流れて、後ろ暗い人はもっと奥の方の道を利用するのだろう。
おかげで誰もいないあの道は、声をかけられることもなく、予想以上に歩きやすくて気に入っていたのに。
何であの男はあんな場所にいたんだろう。
彼の方を見ていると、彼は地面にしゃがみ込んで、気絶している男をつつきながら伸びてる、と物珍しそうに呟いていた。
「きみ、護身術とかできたんだ?」
肩越しに振り返って見上げてくる彼に、私も近づく。
近くで見た彼の髪は、ここに着いたとき家の中で見たものと同じように、月光を反射してキラキラと輝いていた。
「最近、何故か身の危険を感じるんですよ」
人通りの少ない場所を好んで利用しているのも、そのせいだ。
最近は、何故かよく絡まれるようになった。理由は分からない。ただ、分からないから何もしないというわけにもいかない。
あの時みたいに、誰かに助けてもらえる方が少ないのだから。
しゃがんでいる彼の目をのぞき込む。
キラキラ輝く髪とは対照的に、彼の目は闇を溶かし込んだような漆黒だ。
光なんて微塵も入り込めないようなその目は、ただ純粋な黒のみに塗り潰されているようで、見るものにある種の感動をもたらす。
彼はこの夜に溶け込んだような目を通して、あの時いったい何を思っていたのだろう。
「まるで麻薬だね」
そんなことを考えていたせいか、唐突に聞こえてきた彼の声に、少し反応が遅れた。
「……はい?」
「きみのことだよ」
そう言って見られても、何のことだか分からない。
脈絡のない話の振りは、いったいどこからその言葉に行き着いたのだろうか。
私が、麻薬?
どういうことかと首を傾げると、彼は薄く笑って立ち上がった。
「知らなければどうってことないのに、知った途端、欲しくて欲しくてたまらなくなる」
私の方に一歩踏み出す彼の声は、歌うように言を紡ぐ。
「一度知ったらもう抜け出せなくて、理性じゃ抑えられないほど、溺れていくんだ」
そういうことでしょ、と彼はその繊細な指で地面の男を指さした。
その指の先を目で追って、私もその男を見下ろす。
今、男はただ地面に蹲って気絶しているだけだけど、最初に見たときは、熱に浮かされたような目をしていた。
それを思い出して、思わず眉を寄せる。
麻薬? 私が?
「……」
「誰にでも通用するのか、ちょっと調べてみたくなるよね」
「……私、そんなんじゃないです」
「あれ、無自覚か」
可笑しそうに声を漏らす彼に少しむっとして、じと目で反論した。
「蝶じゃなかったんですか」
「え?」
「主様、前は私のこと蝶っていっていたでしょう?」
「ああ……どっちもきみだろ。麻薬も蝶も」
「……」
「人を惑わせて、魅了する。自覚がないなら気をつけた方がいいよ」
その彼の言葉を理解するのに、少し時間がかかった。
理解した途端言い返そうとしたのに、何も言葉が出てこない自分に愕然とする。
惑わせるとか、魅了するとか、そんなことをしているつもりはない。ただ相手の言葉を突っぱねて、無視してそのまま立ち去るだけだ。色目を使っているつもりもないし、逆に距離を取ろうとして言葉遣いにも険を表していた。
そんなことはないって言いたかった。
それでどうやって惑わせたり魅了したりすることになるのか、逆こっちから聞きたいぐらい、彼の言葉と私の行動の性質は全く逆だ。
自分では、そんなつもりはない。そう思うのに、それを心の中のどこかで肯定している自分もいる。
今まで、同じようなことがたくさんあった。
記憶にしまっていたものを片っ端から開けてきて、その反応を思い出してみると。
記憶の中で、みんなどこか熱に浮かされたような顔をしているのだ。
(……何が本当なの)
食い違う行動と結果が、真実を酷くあやふやなものに仕立て上げて、もやもやした。
「戻ろっか。気分転換はもう十分だろ?」
私の近くまで来た彼に、手を引かれる。
それによって、立ちすくんでいた私の身体は、その方向に一歩踏み出された。
きらきら キラキラ
モノクロの世界の中で、静かな夜に足音が響く。
目の前で歩を進める彼には、やっぱり銀の月が似合うと思う。
月光に包まれた彼の姿を見て、ぼんやりとそう思った。
彼に続いて歩いていた足を急停止させて、引かれた手を逆に引く。
つんのめりそうになる上体を何とかしようと足で踏ん張ると、目の前の彼の歩みが止まって、そのまま肩越しに振り返った。
その目に浮かぶ困惑に、なんと答えるべきだろうか。
「――主様」
「どうかした?」
私は、彼にこんな世間話をするために外に連れてきたのだろうか。
違う。そうじゃない。
気分転換の意図もあった。そのとき思ったことも嘘じゃない。だけど、それとは別にもう一つ、外に連れてきた理由がある。そっちが本題だといってもいい。
今このまま彼を放っておいてしまったら、まず間違いなく最悪の展開になるから。
「主様。私が何を言いたいのか、分かりますよね」
彼の手を振り払ってそう言うと、彼の表情が、一瞬消えた。
その後にすぐに浮かんだ笑みは、私でも分かるような、作り物の笑み。
「何が?」
そんな彼を見て、胸が締め付けられるようで、苦しい。これは多分、罪悪感の類い。
知ってる。
貴方がそれをしたくないのは、知ってる。だからずっと嘘を吐いて、はぐらかして、それから避けてきたことも、ちゃんと理解してる。
私には本来こんなことを言うような権利はない。
それが貴方が決めたことなら、私は黙って従わなければいけない。
だけど、そんな貴方を見ているのも、もう限界なんだ。
「私は貴方に食べてくださいと、……食事を取ってくださいと言いました」
消えないでよ、主様。
「貴方は了承しましたよね」
「揚葉」
私の言葉と被せるように呼ばれて、思わずぴくりと肩が跳ねる。
「戻ろう?」
柔らかく諭すように言う彼に、泣きたくなった。
こんなときに、名前を呼ばないで。
貴方が名前を呼ぶ度に、私は否応なく思い知らされる。
私が貴方のことを、何も知らないって。
「……主様」
彼の言葉を拒絶するように、頭を横に振る。
もう、いっそ拒まれてしまってもいい。
私はしょせん彼にとってはその程度の存在だから。
でも、彼がいくら嫌がっても、これだけは譲れない。譲っちゃいけない。
彼が何かを言おうと口を開く。
それを更に遮るように私は地面に転がるその男を指で示して。
「食べてください」
この関係に、亀裂を入れた。
貴方が私の名前を呼ぶたび、どうしようもなく切なくなるんだ。
貴方は私を呼べるのに、私は貴方を呼べないから。
ねえ、主様、気づいてるよね。
私との間にあるこの距離を。
――『揚葉』
そんなふうに、私も貴方を呼べたらいいのに。
私はまだ、貴方の名前すら知らないんだ。