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蝶の軌跡 3

 

 ――『敬語をやめろとまでは強制しないけど……きみからの第一声がそれじゃ、息が詰まるだろ』


 貴方が何気なく言ったであろう台詞が、ずっと私の中でこだましている。

 多分貴方は気づいていないと思うけど、そう言ったとき、一瞬だけ寂しそうな顔をしていたよ。

 だからかな。

 “強制しない”

 その台詞は、『素の状態で敬語を話す私に、無理にそれを正せとは言わない』という意味よりも。

 『自分の意思で敬語を用いている私に、自分はあれこれ口出ししない』……そういう意味に聞こえた。


(気づいてる?)


 私が意図的に敬語を使っていること。そして私が貴方に敬語を使う理由。もしかして、貴方はとっくに気づいているんだろうか。

 ……多分、彼なら、気づいているのかもしれない。

 そうだとしたらきっと、気づいた上で、自分の意志を曲げようとしないんだろう。

 貴方はそういう人だから。










 私が彼の元に行くのは毎日じゃない。だいたい三日に一回ぐらいのペースだ。

 そして彼の元に行ったからといって、特に何をするわけでもない。

 ただ彼の傍に居て、彼の要望に応えるだけ。

 大概はただの話し相手としてここにいる。


 ……大概の場合は、それだけなんだけど。


「主様、今日は月が綺麗ですね」


「……そう?」


 いささか疑念を含んだ返しとともに、彼の手は一度ぴたりと止まる。

 彼は私の後ろに回り込んでいて、私の位置からは彼の顔は見えない。

 彼の手が止まった隙に振り返ろうとしたら、察した彼はまた私の上で手を動かし始めた。

 頭を抑えられつつ髪を弄られているので、私は結局振り返ることができずに、おとなしく前を向いているしかない。

 それが悔しくて、彼から私が見えないのをいいことに眉をひそめる。

 いつもはとことんマイペースなくせに、どうしてこんなに勘がいいんだろう。

 なんとか頭を動かそうとしても、思いの外しっかり抑えられていて、全然動かなかった。

 細く息を吐き出して背後の彼を気配だけで伺う。けど私に気配を読める様なスキルが備わっているはずもなく、結局何も分からない。



 ――大概の場合、私がすることはただの彼の話し相手。

 でも時々、その大概に当てはまらないことをすることがある。まさに今とか。

 私は今、彼が今まで座っていたソファーに座らされて、手持ちぶさたの彼に髪を弄られている。暇だとこぼした彼が何が面白いのか私に目をつけて、それからずっとこの状態だ。

 その間、私はただ居心地悪く座っていることしかできない。私の抵抗にも彼は全然取り合わなかった。

 いや、悪気がないことは分かってるんだけど……ただ彼が自分の欲望に忠実というか、とことん自分を貫く性格だから、まあ私が何をしたところでそうそう彼を止められる訳じゃないとは分かっているんだけど。それがすんなり納得して従うかどうかとはイコールで結びつかないわけで。

 要するに何が言いたいのかというと。私の内心をあえて無視して現状を簡潔に説明すると。

 現在、私は彼の暇つぶしのおもちゃにされていた。



 やけにそわそわする。彼が私の後ろにいるこの状況が、酷く落ち着かない。

 いつもソファーでぼんやりとしている彼を見ることが習慣になってきていたせいか、視界の外、しかも真後ろに彼がいて、あまつさえ私の髪を弄っているというこの体勢に、戸惑いしか覚えない。普通の人だったらここでどきどきしたりするのかもしれないけど、私には無理だ。

 そんなものよりも彼が私の見える位置にいる方がずっと安心する。現状に甘んじるなんてとんでもない。

 ごくたまに突拍子もないことをやる彼に背後を取られて、安心なんてそうそうできないのだ。

 正直言って、今すぐこの状況から抜け出したいのに。

 だけど今のままじゃ抜け出すことは難しくて……おとなしく前を向いていることしかできないのがもどかしい。


「主様、月は嫌いですか?」


「今日のは好きじゃないよ」


「今日の? ……満月が嫌いなんですか?」


「いや、嫌いなのは色のほう」


 最初に話を振った際の彼の疑念混じりの返答に対して、同じ話題を振ってみる。

 他愛ない会話を交わしながら隙を突いて密かに抜け出そうと奮闘するも、ことごとく失敗に終わっていた。






 どうしてこんな状況になっているかというと、経緯は至ってシンプルだ。

 彼にただいまと返した後、私は彼のそばに行こうと足を進めた。

 私は、あまり目がいいとは言えない。眼鏡が必要なほど悪くはないんだけど、要は平均より少しだけ下。

 彼と距離があるとある程度の表情までは分かるけど、あまり細かい変化だと見落とすことが多い。

 だから、私はそういう変化を見逃さないように彼の方へと進んだ。……まあ、できるだけ近くで彼を見ていたいという本音もなくはないけど。

 そこまではいつも通り。で、そこからが問題。


『……暇』


 私が彼に近寄ったときに、彼はソファーに備えてあるクッションを抱いて顔を埋めながらぽつりとこぼした。

 口元までクッションに覆われているせいでくぐもった声になる彼に、瞬きを数度。暇も何も、貴方は大概そこに座っているだけでしょ。普段ぼんやりとソファーに座っているだけの彼に、今更暇といわれてもどういう反応をすればいいのかとっさに分からない私。

 分からないけれどとりあえず何か言わなければいけない気がして口を開こうとすると、それに被るように不意に彼が顔の上半分だけをクッションから上げた。


(……あれ?)


 少しの違和感を覚えて、開きかけていた口を閉じる。少し乱れた髪とクッションのせいか、彼の顔は至近距離でも大分隠れてしまっている。違和感の正体がなんなのか確認しようとする前に、彼が私を見て数度瞬きした後で、傍らのソファーを叩いた。


『あのさ、ちょっとここ座ってくれない?』


『え……はい?』


『いいから座って』


 ソファーをばんばん叩いて急かしてくる彼に、首を傾げながらも勢いに押されておとなしく座る。すると入れ違うように彼が私の隣からするりと立ち上がって、ソファーの後ろに回った。


『え、主様?』


『何?』


 後ろから唐突に髪に触れられて、飛び上がりそうなほど驚く。

 い、いきなり何なのこの人!


『何してるんですか!?』


『何って……暇つぶし?』


 悪びれもなくそう言って私の髪を弄り出す彼に、抗議しようと首をひねっても頭を抑えられていて叶わなかった。

 ちょっと付き合ってよ、と笑い声をこぼす彼にもどかしい気持ちとやりきれなさをかかえたまま、仕方なく言うとおりに従って。

 そして現状に至る。






 彼の指が私の髪に絡まる。時折引っ張られるのを感じながら、私は内心不思議だった。

 彼が月を嫌いといったことが、意外だ。

 いつも彼は月光をその身に浴びているから、嫌いといわれると少し違和感を覚える。


 ――『嫌いなのは色のほう』


 今日の月は、とても綺麗な銀色。

 なのに嫌いだなんて、もったいない。誰よりも彼に合う色なのに。


「私は今日の月の方が好きですけどね」


 今日みたいな銀色の月を見ると、決まって彼のことを思い出す。

 よく見る金色の月よりも、銀色の月の方が昔から好きだった。昔はたまにしか見られないその希少性から意味もなく気に入っていたのかもしれないけど、彼と会ってからはよりいっそう好きになってるのが分かる。

 銀の月は、彼を思い起こすことができて好きだ。

 澄んだ色で輝く月が、彼のようで好きだ。

 そういえば、とふと思い返してみる。初めて彼に会ったときも、空に浮かんでいたのは銀色の三日月だった。

 そこまで考えて、自分の思考に少し笑う。

 昔は大嫌いだった夜の闇も、彼と会える時間だからか、それほど嫌いじゃなくなった。

 今でも光の見えない真っ暗闇は嫌いだけど、それでも昔と比べれば大分軟化してきている。

 私の生活や好みは、どうやら彼を軸にしてだいぶん変化しているようだ。

 思っていたよりも、私は彼に染まっているらしい。


「あれのどこに好きになる要素があるんだよ」


 だからか、彼が月を――私が密かに彼を重ね合わせている銀色の月を、心底嫌そうにいうものだから、少し戸惑った。


「綺麗じゃないですか。珍しいですし」


「見た目で騙されない方がいいよ。実質はろくでもないから」


「ろくでもないって、そんな人みたいに」


 人じゃなくて月なのに。

 思わず笑ってしまった。声を抑えてはいるけど、すぐ後ろに居る彼には聞こえただろう。

 彼のいう例えが可笑しくて。

 騙されない方がいいとか、ろくでもないとか、どう考えても月に対して使う言葉には適さない。どうやったらその言葉に結びつくのかは心底不思議だ。

 感じた戸惑いを、ただの私と彼との感じ方の違いで片付けたくて、私は笑った。そうすれば、いつもの調子で、彼もつられて笑うだろうと思っていた。

 家の中に、私の押し殺した笑い声だけが響く。

 それに重なるような彼の声は、――何も、聞こえない。

 部屋の空気はいつも通りで、特に張り詰めていたり居心地が悪くなったりはしない。ただ、彼は弄っていた私の髪を、そのとき少し引っ張った。

 笑い飛ばせないほど嫌いなのかな、と半ば強引に考える。というよりは、自分に言い聞かせたという方が正しいかもしれない。

 だって、自分でも分からないんだ。ただそれだけのことなのに。


 どうして、さっき感じた違和感を、ここでまた覚えてしまうのだろう。


「……ずいぶん酷評するんですね?」


「白い月にはあんまりいい思い出ないからね。白って気持ち悪いし」


 その声音はあからさまな嫌悪感に染まっている。

 私からだと後ろにいる彼の顔は見えない。彼の表情はうかがえない。

 私の髪を触る彼の手つきは代わらず優しくて、態度はいつも通りで、声だけが少し違うだけで。

 見方によってはただ彼が嫌いなものの話題に機嫌を損ねているだけの、頬笑ましいもののはずだ。

 気にする程のことでもないはずなのに……なんでだろう。


 今、彼がどんな顔をしているのか、やけに気になって仕方がない。

 いつもと同じはずなのに、何かが違う気がした。

 でも何が違うのか、とっさに挙げられるものはなくて。完全に勘というか、感覚的なものにすぎないんだけど。

 ……でもやっぱり、違和感は拭えない。


 後ろにいる彼の声に、態度に、雰囲気に意識を傾けてみても、ほとんどいつもと変わらない。

 彼の何がいつもと違うのか、いっこうに分からない。

 ただ、なぜかそれが、つくられた虚構のものであるように感じた。


 そのまま思考の渦に沈んでいきそうだった私は、髪を軽く引っ張られて我に返る。

 そうだ。今、彼は私の後ろにいる。

 彼に今私の考えていることを気付かれてしまったら、感じていた違和感の正体をすぐに隠されてしまう。

 そうしたら、何もわからなくなってしまう。

 それは、駄目だ。


「主様、さっきから私の髪で何してるんですか?」


 なんでもない風を装わないと。彼は勘がいいから、気をつけていないとすぐに気づかれてしまう。


「んー、ちょっと色々と」


「……答えになってませんけど」


 …一度、考えるのを止めよう。どっちみち今のままだと何も分からない。

 どうやっても堂々巡りにしかならないんだから。


 ほう、と息を吐いて軽くソファーに身を預けた。

 ずいぶん緊張していたようで、いつの間にか握っていた右手に手汗をかいている。

 彼に気づかれないようにさりげなく手を開いて、そのままソファーに投げ出した。

 彼は今、何を考えているんだろうか。本当に、ただの暇をもてあましているだけなんだろうか。

 全部全部、私の気のせいならいいんだけど。


 目を伏せる。彼の指がまた私の髪を軽く引っ張る感覚がした。

 あんまり引っ張らないで欲しい。と考えて、彼の目的が少し違うことに気づいた。


(……いや、ちょっと違うかな)


 無意識に手が頭の後ろに伸びる。それが彼の手に当たって、我に返って慌てて引っ込めた。

 引っ張られている、というよりはこの感覚は。


(纏められてる?)


 幼い頃、母親に髪を結って貰っていた。

 この感覚は、そのときのものとよく似ている。

 もしかして、髪を結ってくれているのだろうか。

 でも、彼はゴムも紐も持ってなかった気がする。


 ――『何って……暇つぶし?』


 ――そっか。ただの暇つぶしか。暇つぶしにゴムも紐も要らないか。

 瞬時に結論が出て、内心で少し落胆した。

 でも、とすれた気持ちで言い訳がましく無理矢理こじつけてみる。

 暇つぶしだとしても、彼が人の髪を結うことができるなんて思わなかった。そういうの、全く興味なさそうだから。

 むしろ、ただ好奇心でやってみているだけで、本当は一度もやったことがないという方がしっくりくる。

 ……あれ、当てはまりすぎてそうとしか思えなくなってきた。

 なんか落ち込む。


 でも、そうだとしたら今私の髪はどうなっているのだろうか。

 少し心配だ。


「後で――」


 見せてください。そう続けようとして、はたと気づいた。


 そういえば、ここには鏡がない。手鏡さえ見当たらない。

 鏡がなくて、彼は困らないのだろうか。彼は滅多に外出しないから、もしかして必要ないと思っているのだろうか。

 とっさに思考を巡らせて、すぐに違うと否定する。

 そんなものじゃない。そんな単純な理由じゃない。


 一瞬の後、今まで大切にしまっておいた彼とのやりとりの一部分が蘇る。

 鮮やかに脳裏に思い浮かんだ光景は、その答えにたどり着くには十分なもの。



 ……あのとき

 彼は、自分の視界に入ってきた髪を、憎々しげに睨みつけていた。

 思い返せば、彼が電気をつけた後に特有の、室内の様子を反射する窓に自分から近づくことはなく。

 この場にある家具は最低限のものだけで、そこに白いものは存在しない。

 彼は私と違って、今日の月を“白い月”と表現する。


 彼の髪は

 月光に照らされてキラキラと輝く、艶のある白色だ。



 ――『白って気持ち悪いし』



 気づいてからは、彼の言葉が含みのあるものにしか聞こえなくなった。

 さっき感じた違和感がこれだったのだと、ようやく理解する。

 彼の言う白は、彼自身であり、今日の月でもあるんだろう。

 彼は、月と自分を重ねてる。

 なんでこんなにも気づかなかったのかなんて、あまりにも簡単な問いかけだ。

 彼が、私に悟らせないような態度を貫いていたからにすぎない。


「主様」


 彼が壁を作っているのが分かる。それは私に限ったことじゃなくて。

 誰にも気づかれないように。

 誰にも彼の心に踏み込ませないように。

 平静を装って、内心の弱みを人に見せようとはしない。見せたくないのかもしれない。

 自分のことも、心の内も、誰にも見せたくないのかもしれない。


「……何?」


 私じゃ、彼の事情に踏み込む権利はない。

 彼が私の心に踏み込んでこないから、同じように私も彼の心に踏み込む権利はない。

 貴方は、自分が嫌いで仕方ないんだ。

 でも私はその理由を聞くことはできない。彼から直接聞いたわけじゃないから。私が勝手に気づいてしまっただけだから。

 でも、それなら。


 私が気づいていないのなら。私があえて彼の考えに気づいていないふりをするなら。

 その理由を聞くことはできなくても、貴方の考えを否定することはできるよね。

 私が、貴方を肯定することはできるよね。

 それなら、何も問題はないよね?


「それでも私は、今日の白い月の方が好きですよ」


 ごく自然を装って、心のままをただ口の端に乗せただけのように。わざとらしくならないように。

 貴方が嫌う今日の月も、貴方自身も、私は大好きだ。れっきとした私の本心だよ。

 意味に気づいてとは言わない。彼は私が彼の考えに気づいていることを、良くは思わないだろう。だから、気づかなくていい。錯覚でもいい。

 一瞬だけでも、月への肯定が、彼の肯定だと彼に思わせることができればいい。

 彼が錯覚だと思い込むだろうそれに、少しでも彼の心が救われればいいと思う。


「…俺はいつもの、黄色い月の方が断然好きなんだけど」


 むすっとした声音で返す彼に、少しだけ笑った。


「主様はそれでいいんですよ」


 悔しいな。

 本当に、どうして貴方はそんなに頑ななんだろう。

 私じゃ、貴方の力にはなれないのかな。

 さり気なくを装って私に顔を見せようとしないのも、もしかしてそのせい?

 でも見なくても、貴方がどうして顔を隠すのか、もう分かっちゃったよ。


「ただ私が、勝手に白を好きなだけなんですから」


 いった瞬間、私の上を滑っていた彼の手が強ばる。

 一瞬動きを止めたその手を、私はやんわりと掴んで振り返った。

 彼の手から私の髪がするりと抜けて、広がる。

 少し高い位置にある彼の顔を見上げて、なんだか無性に泣きたくなった。

 ああ、やっぱりそういうことか。


 視線の先で目が合った彼は、数日前よりもやつれた姿で、目を見開いた。



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