蝶の軌跡 2
ゆらゆらひらひら、翻る衣。
歩く度に波打つ髪の毛。
純粋無垢のようでいて、
溺れる色香を放つ彼女は、
月光を浴びて輝く夜の蝶。
夜の路地には寄りつくな。
たかが蝶と侮るな。
ひとたび彼女に見えたならば、
己の命を差し出すことと知れ。
――何かが倒れたような、鈍い音がした。
それは、静かすぎる闇の中に不自然に反響し、静かに地に降り積もる。だが周囲に人気のないこの場所で、いくら不自然な音であろうと、それが第三者に拾われることはなかった。
反響した音はすぐさま闇に包み込まれ、後には元通りの静寂が残る。しかしそこに、先ほどの静寂とは異なり、小さく繰り返される生き物の息づかいが、一つ。
先ほどまで二つあった人影の内、一つだけがそこに立っていた。もう一つの人影は、どこを見渡しても見当たらない。
……いや、いる。
立っている人影の足下に。天頂で輝く月の真下に。
地面に這いつくばるようにして、それはそこにあった。
一方で、立っている方――彼女は左手で右手をかばいながら、しきりに荒い呼吸を繰り返していた。
過呼吸になりそうなほど呼吸を乱し、それを何とか沈めようと、深呼吸を繰り返している。
しばらく地面に這いつくばるそれを見ていた彼女は、ふと視線を外して斜め前にある庭の花に目を向けた。
様々な種類の花が咲き誇っているその花壇は、月光を受けていつもと違った様相を見せている。夜の闇と光との対比が、普段色鮮やかに目を楽しませてくれている花たちを、モノクロの色合いに見せていた。
普段と与える印象こそ違うが、その様子はとても美しい。
色彩豊かなはずの花たちが、一様に白黒に染まっている様は、まるで夜に息を潜めているかのようだ。
彼女の視線が滑る。一度ちらりと足下の人に視線を向けて、そのまま空へ。夜空に浮かぶ月には遮るものが何もない。明るい月光が、彼女の表情を照らす。
夜の深い藍の中にちりばめられたたくさんの小さな宝石と、一際輝く大きな真珠を眺めながら、彼女はその口端を緩やかにつり上げた。
何も見えないような、黒で塗り潰された世界でさえなければ。
その上こんなに綺麗な月が出ている日なら、夜の闇も嫌いじゃない。
「おかえり」
玄関の扉を開けてすぐに聞こえてきたのは、いつも通りの彼の声だった。
その声につられて聞こえた方に目を向けると、一人がけのソファーの背もたれに腕を乗せて、顔だけをのぞかせている彼と目が合う。次の瞬間彼が微笑みを浮かべて、不意を打たれた私の心臓は大きく音を立てた。
部屋の中は、窓から差し込む月光で満たされている。それは、部屋にあるものがはっきりと見えるほど、外よりも数段明るい。
彼はそんな部屋の中で一人、窓越しの月光をその身に浴びている。
満月のせいかその月明かりはいつもよりも更に明るく、その中にいる彼も、いつもよりとても綺麗だ。
そんな状態の彼に笑みを向けられたのだから、これは仕方のないことだと思う。
すぐ傍から心臓の音が聞こえるような錯覚。顔にも少し熱が上がったような気がする。
光を受けてキラキラと輝いているように見える彼の髪。いつも見ている彼の姿なのに、私は思わず彼をじっと見つめていた。
白と黒で彩られた、モノクロの世界。
外で見た花たちと同じように、白黒の彼の姿はとても幻想的で、美しい。
この部屋に満ちる月光は、どうして外で見るものよりも明るく感じるのだろう。
自然光のはずなのに、彼の姿はどうしてこんなにも綺麗に映し出されるのだろう。
「? おかえり?」
私がそのままぼーっと彼に見とれていたことに気づいたのは、彼に再び声をかけられたときだった。
はっとして意識を戻すと、視線の先の彼は困惑した表情を浮かべている。
その頭上に疑問符がたくさん浮かんでいるような気がして、私は慌てた。
直接彼に、どうしたの? とか聞かれたらどうしよう。
(見とれてた、なんて絶対言えない)
なのにそれに代わる言い訳も、とっさに思い浮かんでこなくて。
「…電気ぐらいつけてください」
結局、首を傾げる彼が何かをいう前に、誤魔化すように私はいつもの台詞を吐き出した。
彼がこの部屋の電気をつけようとしないのは、今日に限ったことじゃない。いつも彼は、私が来るまでソファーに座って月の光を浴びている。
自然の光に包まれた彼は、人工の光の下にいるよりもずっと綺麗で、ずっと見ていたくなるけど……それじゃあ、駄目なの。
彼の肌は、白すぎるから。
彼の雰囲気は時々とても儚くなるから。
淡い光の中にいる彼は、とても綺麗であると同時に、見ていてそのまま光に溶けて消えてしまいそうな危うさを覚える。
そんな危うさがあるから、なおさら綺麗に見えるのかもしれない。
桜が散るからこそ美しいように。一日の内のほんの数十分しか見られない夕焼けが、哀愁を誘うように。
彼を見ていると、今にも目の前で消えてしまいそうで、不安になる。
彼が短い時間にしか存在できない何かに見えて、不安になる。
だから、人工の光でくっきりと浮かび上がった彼の姿を確認しないと、私も安心できないよ。
壁に手を這わせて、小さく光を放つスイッチを押す。途端にあふれ出すであろう光を覚悟して、事前に目を閉じたけど、押した後に実際にあふれた光は、瞼越しからでも私の網膜を刺激した。
一度ぎゅっと瞼に力を入れる。いつも同じことをしているのに、まだ慣れない。当たり前のことなんだろうけど、暗いところからいきなり明るいところへ代わる際のこの反動はあまり好きじゃないから、できるのなら慣れたいと思う。
そうじゃなくても、もうちょっと目が眩む時間を短縮することはできないだろうか。
瞼越しの光に慣れてきた頃、私は目を開けて瞬きを数度繰り返した。視界がいつものように機能していることを確認して、そのまま視線をソファーの上にいる彼に向ける。
ソファーの上で私と同じように瞬きを繰り返している彼は、さっきのように儚い姿ではない。
彼が明るい蛍光灯の下で普段通りにしている様を見て、私はようやくそっと息をつくことができた。
大丈夫。
今日も、確かに彼はここにいる。
「こんばんは、主様」
私は背もたれごしに目を合わせる彼に、笑みを向けて頭を下げた。
その拍子に髪が滑り降りてきて、私の視界を塞ぐ。
いつもの挨拶。いつもの仕草。
目の前に幾筋も下がっている黒い髪を右手で掻き上げて、そのまま耳にかける。
だけど、彼にとっては不満だったらしい。
顔を上げたときに見えた彼の顔は、少し眉根が寄っていた。
「主様? どうしました?」
首を傾げてそう問いかけると、彼はますます顔を歪める。
でも、彼がそうする理由が私には分からない。
どうしたのだろう。疑問に思いながらも思考を巡らせてみるけど、思い当たることは何もない。
気づかないうちに何かしてしまったのかもしれないと思いつつも、たった今ここに来たばかりで、逆に何をやる暇もなかったはず。
考えてみてもいっこうに答えが出ずに、私はますます首をひねった。。
もしかして、今日の彼は機嫌が悪いのだろうか。
私、何か気に障るようなことしたかな。
「……違う」
「はい?」
「違うだろ。そっちじゃなくて」
少し言いよどんで、彼は首を軽く振ってから唇を尖らせた。
それを見て、状況も忘れて胸がほんのりと温かくなるのを感じる。
言っちゃ駄目だろうけど、彼の仕草が子供みたいで、ちょっと可愛い。
可愛いけど、それが彼の言葉の理解と繋がるかは、当然ながら別問題なわけで。
「そっち?」
どっち?
「“こんばんは”じゃなくて」
「……はあ」
えっと…彼は、何が言いたいんだろう?
要領を得ない彼の言葉に、私はただ曖昧に頷くことしかできなかった。
彼を見てみると、その顔は不満げながらも真剣そのもので、何かを期待するように私をじっと見ている。
その期待に応えたいとは思うけど、彼の言いたいことが分からなくて、私は内心あたふたするしかない。
困った。
途方に暮れてちらちらと伺うように彼に目を向けていると、彼はそれを察してか顔を伏せてため息をついた。
「きみ、俺が言ったこと、ちゃんと聞いてた?」
その呆れたような物言いに、少しむっとしながらも頷く。
聞いてたよ。聞いてるよ、ちゃんと。
聞いてるけど、分からないんじゃない。貴方の言葉が足りないんだよ。
そんなんじゃ分からない。
頷いたものの、それが彼のこれまでの言葉を理解したということではない。私は何を言えばいいかは分からなくて、立ちすくんだ。
そうして、そういえば玄関に突っ立っていたままだったことに気がついて、そろそろと二、三歩だけ中に入る。
中に入ると言っても、ここは家と言うよりは小屋という方が近いから、靴を脱ぐ必要はないけど。
「おかえり」
「……え?」
彼に視線を向けると、視線の先で彼は苦笑していた。
一瞬分からなかったけど、それがすぐに今言った言葉の続きだと気づく。そうして、私が来たときに彼が言っていた言葉を思い出して、彼が言いたかったのはこれだったのか、と納得する。
同時に、とても不思議な気分になった。
ここは私の家じゃないのに、そう言われると、変な感じ。
こんばんはの方が自然な気がするのだけど、どうしてわざわざ言い直すのだろう。
そんな内心が顔に出ていたのか、彼は私を見ると、言った。
「“こんばんは”だと、他人行儀過ぎて、なんか嫌だから」
とても柔らかい、笑顔で。
「だから、おかえり。揚葉」
呼ばれたのは、私の名前で。
ずるい。
顔に熱が上っていくのを感じて、私は顔を隠すために慌てて俯いた。
視界に映るのは床なのに、脳裏には彼の笑顔が焼き付いている。
…ずるい。
もう一度心中で同じ言葉を呟く。どこか身体の奥がきゅぅっと縮んだ。
彼は私の名前をあまり呼ばない。彼が私を呼ぶときは、大概真剣なときか注意を惹きたいときだ。
なのに……どうしてそんな風に名前を呼ぶの。
そんな顔で、そんなことを言われたら。
断れるわけ、ないじゃない。
酷いな。もしかして、分かっててやってる?
俯いたまま、髪の間から彼をちらっと見てみると、彼は少しだけ目を輝かせて私を見ていた。
それを見て、狙っていたのかとも思ったけど、視線がすごく純粋なものに思えるので、どうやら違うらしい。
彼はただ、私に期待してる。
――それぐらいで貴方の期待に応えられるのなら、別に構わないけど。
私は俯いたまま更に腰を折って、初めのように彼に頭を下げた。
「はい、ただいま戻りまし――」
「それもだめ」
「え?」
しかしすかさず飛んできた駄目出しに、思わず顔を上げて彼を凝視してしまう。
彼は最初と同じように、不満げに唇を尖らせて言った。
「敬語をやめろとまでは強制しないけど……きみからの第一声がそれじゃ、息が詰まるだろ」
「はあ」
「どうせただの挨拶なんだから、堅苦しいのは抜きにしてよ」
堅苦しいの。堅苦しいのを抜きにする、ということは。
そもそも、彼の堅苦しいの基準は何所だろう?
(おじぎ、はない方がいいのかな)
そんな風にあれこれと考えながらどうしようか考えて。
不意に聞こえてきた彼の言葉に、固まった。
「というかきみ、どうして顔赤いの?」
「え」
きょとんとした彼の表情を見て、思考が一瞬停止する。
数秒開けて、おそるおそる片手で自分の頬に触れてみる。
頬は熱を持っていた。
なんで、と思って今のことを振り返ってみて、唐突に思い当たる。
――『だから、おかえり。揚葉』
さっき赤くなった名残だ。
「……っ…………なんでもないです」
疑問符が周りに浮かんでいる彼に、呟くように言い返した。
そう言うしかない。それ以外にどう言えと。
何か言いたそうな彼に、ふいっと視線を逸らして誤魔化す。聞かれたって絶対に答えられない。
というか、貴方が私にそれを聞くのか。
(これは、貴方のせいなんですけどね?)
そう言って睨みつけたいのをこらえて、一度唇を引き結んだ。
そんなこと実際にを言おうものなら、私は恥ずかしすぎて死ねる。
「ただ、いま」
誤魔化すように、その言葉を口の端に載せた。さっきいろいろ考えていたことも無視して、おじぎどころか彼と目を合わせることすらしていない。
言った後でそのことに気づいて、焦って彼に視線を戻すけど。
「うん。おかえり」
そう言って、視線の先で彼がまた柔らかく笑うから。
(…まあ、いっか)
何もかも許してしまいそうになるのも、事実なんだ。
多分これが、俗に言う惚れた弱みというやつなのかも知れない。