蝶の軌跡 1
※本作品は何とか雰囲気だけでも和風にしようという思惑の元、作者が奮闘しております。
誤字脱字、変な表現等どこか気になるところがあったら遠慮なく報告してくださいね。
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澄み渡った空に、銀色の月が輝いている。
それだけしかそこにはないと、錯覚してしまいそうになる程力強い光を放って、月は輝き続けている。
周りで瞬いている星々を飲み込むほどに強く、街灯のない裏通りでも迷いなく歩けるほどに明るく地面を照らし。
ただ、銀の望月だけが、夜空で存在を主張している。
ただそれだけが、意識に残る。
その日男は、今まで付き合っていた彼女に振られ、やけ酒を飲んでいた。
「兄ちゃん、それぐらいで止めとけって。何杯飲むつもりだ?」
カウンターごしにおやじの呆れたような声がかかる。男の前のカウンターには、何本もの酒瓶が中身のない状態で散乱していた。
太陽も沈み、夜も更けるこの時間帯。賑やかな声と輝くネオンが溢れる大通りから少し外れた別の通りに、おでんの屋台がぽつりと一つたっている。そこから遠目に見える大通りとは違って、その屋台周辺は人がいなく静かだった。現に屋台にはいって椅子に座っている客は、男一人だけである。
その男はというと、二十代ぐらいのまだ若い男で、耳に大量のピアスがついている。そして先ほどから注文するのは酒ばかりで、ついにはジョッキについで渡すだけでは飽き足らず、酒瓶ごと渡すまでになっていた。
その瓶の中身を開けながら、水でも飲み干すかの様な調子で喉に流し込む男は、至って涼しい顔をしている。顔どころか耳すらもまるで赤くなる気配がない。
これほどまで飲んでも、男は全く酔っている様子がなかった。
飲み干した器に男は自分でまた酒を注ぐ。屋台の店主はそれを見て渋い顔をした。
「あんた、ザルだな」
「なあおっちゃん。とりあえず酔いたいんだけど、後どれぐらい飲めばいいと思う?」
「兄ちゃんじゃ無理だろ。あきらめな」
店主の言葉に男はちぇっと舌打ちをしてカウンターに突っ伏する。対して熱くもなっていない男の頬も、無機物のカウンターに触れて、ひんやりとした冷たさを感じる。男の耳にいくつもついているピアスが、突っ伏した拍子に擦れてカチャカチャと音を立てた。
店主はそんな男の様子を見てため息をつく。呆れを多分に含んだため息は確実に男にも届いただろうが、男は身じろぎ一つしない。
仕事帰りの会社員たちの愚痴ならいくらでも聞いてきたが、いかにも遊び人という風貌の男の話を聞くのは、店主にとって初めてだ。更に言うなら、こういう男が店主の屋台に入ってきたこと自体が初めてだった。
こういうやつは、だいたい若いの同士でたむろって騒ぐだけで、悩みなんてないのだろうと勝手に思っていたが、どうやらただの偏見だったらしい。
現に突っ伏する男の様子は、店主がよく愚痴を聞いている会社員とそう大きく違わない。
「どうしたよ。失恋か?」
「んー…振られた」
「兄ちゃん、遊んでそうだもんなぁ。振られて当然だろ」
「うるせーよ」
男は不機嫌に唇を尖らせて、ついであった酒を一気に飲み干した。
(いつもはこんなことしないのになぁ)
飲み干した器をぼんやりと見つめる。いつもだったら、振られたからといってこんな風にやけ酒を飲んだりしない。そんなに繊細な人間ではないつもりだ。だが実際は、男はいつもと違って酒を飲んでいる。
男は現在、自分で自分のことがよく分からなくなっていた。ただ、酒に呑まれて何も考えられなくなりたいという衝動に駆られて、男は一心に酒を飲んでいる。それだけだった。
だが、酒に強い男は結局酔えずに素面のまま。本末転倒だ。
いったい何が、こんなにもこの衝動を駆り立てるのだろうか。そう考えて、男はそもそもの原因である彼女のことを振り返ってみた。意志が強く、どこか冷めたところのあった、彼女の姿を思い出す。
別段本気だったわけではない。そう熱心に口説き落としたわけでも、のめり込むほど惚れ込んでいたわけでもなかった。遊びで付き合っていたことを否定もしない。それは彼女の方も気づいていただろう。
合コンで知り合って成り行きで付き合うようになったような、そんな薄っぺらい関係だった。
薄っぺらいまま、互いに必要以上踏み込もうとしないような、そんな距離感があった。
それが苦痛だったわけではない。むしろ、必要以上に男に干渉しようとしない彼女との距離は、心地よくさえ思っていた。
束縛されずに、やりたいことをやれて、会いたいときには会える。恋人というよりは、友達という感覚の方が近かったのかもしれない。
媚を売らず自分に真っ直ぐで、作らない素のままで接してくる彼女は、一緒にいて不快ではなかった。
飾らない笑顔を向けてくれる彼女との時間は、存外心地よいものだった。
そのせいか、飽きっぽくて二週間持つかどうかも怪しい男にとっては珍しく、一年間も続いたのだろう。
そこまで考えて、ふと思い当たってグラスを置く。男にとっては、長い期間。心地いい時間は過ぎるのが早くて、今まで意識していなかった。もうそんなに経っていたのかと、今更気がついた。
「どうした?」
屋台の店主の声が聞こえる。男は口元に微かに苦笑を浮かべて、懐から財布を取り出し、そこから札を数枚抜き取ってカウンターに置いた。
「おっちゃん、付き合ってくれてありがとな。俺、もう帰るわ」
そう言って男は店主の返事を聞かないまま、屋台を出て行った。
好きだったのかもしれない。薄暗い裏道へ向かうように歩きながら、先ほど考えていたことを思い出してぼんやりと男は思う。好きだったのかもしれない。それが彼女に対してなのか、彼女との距離に対してなのかは分からないが。
そうでなければ、なぜこんなにも衝動的に酒を飲んだのか、男自身説明がつかなかった。
今日空に浮かんでいる月は、珍しく金ではなく銀色だ。
月明かりだけが頼りの道を、男は危なげなく歩いていた。大通りから一本はずれた裏通りに位置するここに、今は人の影は一つも見当たらない。この道の街灯の数は極端に少なく暗闇の道が大半を占めるため、自然と頼りになる光源は前述の通り月明かりのみとなる。晴れ渡った夜空に満月が浮かんでいる今は、男が裏通りを歩く分には申し分のない明るさを確保できていた。
男が大通りを通らず、あえて裏通りを選んだのは、一人になりたかったというのが主な理由だ。
普段からよく大通りを用いている男にとって、大通りには知り合いが多い。ただ歩くだけで何人もの知り合いと会うことが頻繁にあるために避けていた。大通りを忙しく行き来する人々の賑やかな声が、今の男の心情に適さなかったことも大きい。
未だふさがっていない傷を抱えたまま、人と接しなければならないのは、今の男にとってはいささか苦痛なのだ。
所々に裏道と大通りを繋ぐ道がある。その前を通り過ぎると、賑やかな音楽や光が漏れ出てきた。だがそれは、静かなこの道には空しく反響するだけだ。
渦中に身を置かなければ、それはただの雑音に過ぎない。
この裏通りと一本向こうにあるだけの大通りには、目には見えない大きな隔たりがある。あちらの賑やかさは、どうあがいてもこちらまでは届かない。
男が普段の状態なら、この状況にえもいわれぬ疎外感や違和感を感じ取っていたことだろう。
だがそれが今このときだけは、妙に心地よかった。
酒で誤魔化せなかった傷を、この静寂が癒やしてくれているように感じていた。
そう思って、男は一人苦笑する。なんだか今日の自分は、やけに感傷的だ。
いつもなら酒なんて飲まずにただ笑い飛ばして、通りを歩いている女を軟派でもして、同じように付き合っていることだろう。そうして少ない時間で破局して、また同じことを繰り返す。男は元来そういう人間だ。別れる度に、幾度も同じようなことを繰り返してきた。
にもかかわらず、今回そうならないということは、やっぱり自分は彼女のことが好きだったのかもしれない。
だが、今更自覚したところで、所詮はもう過ぎてしまったことだとも、わかっていた。
彼女はもう戻らない。もう、戻せない。
今更……遅すぎた。
男には、もうどうすることも出来ないのだ。
彼女の姿が脳裏に浮かぶ。その記憶の中の姿を、男は頭を軽く振って振り払った。
どうすることも出来ないのなら、いっそ忘れてしまえばいい。
無理矢理にでも前を向いた方がいい。本来男には、こういうくよくよ悩むことは向かないのだ。
賑やかな大通りで馬鹿みたいに笑っている方が、自分には一番性に合うのだから。
いつも通りに振る舞っていれば、きっとそのうち薄れていくだろうから。
月光が照らす裏通りで、男は空を見上げた。銀色の月が、天頂に輝いている。
気分は何かを吹っ切れたかのように穏やかだった。
男はいつの間にか止まっていた足を動かし、再び歩き始める。月明かりは、街灯など必要ないほどに、明るい。
明日になればどうせまた日常に戻るのだろうから、今だけでもこの空気を満喫するのも、悪くない。
周りに誰も人がいないせいか、心なし澄んでいるように感じる空気を吸い込んで、男は帰路に就く。
そのまま真っ直ぐ家に帰ることが叶わなくなったのは、数十メートル先に佇む人物を、視界に捉えてしまったせいだった。
裏道に思い出したかのような間隔でぽつんとたつ街灯。その淡いオレンジ色の光に照らされて――女が一人、佇んでいる。
今の時期にはいささか薄い衣服を纏い、その上に羽織ったものを胸元でかき合わせて、寒さのためか小さく震えている、その女を見て。
「――……」
息が、止まる。
一瞬、男は息の仕方を忘れた。
呆然と歩を止めた男の視界の中で、女は時折街灯の明かりを頼りにして自らの腕にかけた腕時計をのぞき込んでいる。その様は、誰かを待っているようだ。
ひゅっと、男の口から小さな息が漏れた。その無意識の行動で、ようやく呼吸行為を思い出す。
女は、男が裏通りで初めてすれ違う人だ。当然、この道には男が今まで誰にも会わなかったように、人通りは全くない。女が普通の人だったならば、男はこのような人気のない通りで女が一人でいること、誰も来そうにないにもかかわらず、人を待っている様子を、奇妙に思ったかもしれない。
だが、その女はとても美しかった。
街灯の光に照らされて艶やかに光る長く黒い髪。伏し目がちな目を覆う長いまつげ。頬は寒さのためかほんのりと赤みが差している。
遠目から見ても、女の顔のパーツはこれ以上ないほど綺麗に整っている。
その女はとても美しかった。……いっそ、異常ともとれるほど。
ただ見ているだけで、心惹かれる何かがそこにある。無意識に、手を伸ばしたいと思ってしまう。それを摘み取って、愛でて、手元に残して起きたい。そう思わせる何かがあった。それはおそらく、誰が見てもそう感じるような、女に対する一般的な見解。
男とて、例外にはなり得なかった。
男は女を見て、頭の中が真っ白になっていくのが分かった。何も考えられず、何も感じられず、ただ目の前の存在に見入る。……魅入る。
それだけで身体が熱くなり、酒にさえ呑まれなかった男の思考は、妙にぽかぽかしだした。
それが奇妙だと、感じる余裕もありはしない。
「……ねぇ君、ちょっと、いい?」
気づけば男はその女に近寄って、声をかけていた。
その声に反応してぴくりとはねた肩は、驚きのためか、怯えのためか。警戒心に満ちたその目が男を射貫く。
たったそれだけ――女の視界に男が入っただけで、男の気分は高揚した。
「誰待ってるの? そんなに薄着じゃ風邪引くよ」
目が合っているだけで、たまらなく嬉しくなる。
誰も男の意識を逸らす者がいないこの場所では、男は女を見ている時間に比例して、徐々に心に何かが刷り込まれていくようだ。
ほんの少し前に、感傷的に別れた彼女を思っていたことも忘れて、男は熱に浮かされたように女を見つめていた。
そんな男を見た女は、わずかに顔をしかめた後に、そのみずみずしく、柔らかそうな唇を開く。
「軟派でしたらお引き取り願います」
凛とした声で女が男に言った途端。
男が女に堕ちるのは、火を見るより明らかだった。
数十分後、男が去ろうとする女の後をふらふらと追いかけていったのを見ていたのは、空に浮かぶ、銀の望月だけ。
――蝶がまた一人惑わせた