三
息をするのも億劫な熱気が立ち篭めていた。緑はいよいよ深くなり、蝉が一瞬の生を主張している。山の中はまだ比較的涼しいものの、寺内は蒸し暑さに包まれていた。僧侶達は滝行や山菜採りをすると言って出払っている。
そうなると必然的に、寺の掃除や食事作りは鷹子がしなければならない。鷹子は厨へ薪を運び入れていた。薪を抱えているため足許が覚束ない。小石に躓いて体勢が崩れる。鷹子の働きぶりを見守っていた椿が咄嗟に手を差し伸べる。彼は鷹子の腹に腕を回し、鷹子が転倒するのを回避した。
「……お前は本当に危なっかしい」
「椿様、ありがとう」
椿は鷹子から手を放すと、肩を竦めた。先程の行動からも窺えるように、椿が右肩に負った矢傷は、ほぼ完治している。
「今日は何が食べたい?」
「…………魚が食べたい」
「はい。じゃあ獲ってくるね」
鷹子は厨の土壁に立てかけてある笊を頭に乗せて川へ魚を獲りに行く。
「やあ」
鷹子を見送る椿に、明るく朗らかな声がかかった。振り向くと、そこには焦げ茶色の髪を靡かせる青年――嘉納家当主、嘉納則宗がいた。彼は栗毛の馬に跨がっている。
「……鷹子はいないぞ」
椿が愛想なく言うと、則宗は快活に笑った。
「今日はおまえに用があるのだ。少し、時間をもらえるか」
「断る」
椿は、きっぱりと断った。則宗の笑顔が深まる。
「今、坊主達はいないのか?」
「…………さあな」
「まあ、いいや」
厨の近くから一歩も動こうとしない椿に折れたのか、則宗は下馬した。
「――――おまえ、何者なの?」
「…………」
何も答えない椿に、則宗はくすりと笑った。
「答えられないということは、何かあるんだろ?」
「貴様に言うことなど何もない」
「鷹子と関わらず、さっさとこの地から去れば良いものを――――後悔するがいい」
言葉は坦々としているものの、則宗の目には狂気が孕んでいる。椿は臆することなく彼に対峙した。
「貴様こそ。足利に媚びへつらう小者の分際で俺に楯突いてきたこと……悔やむなよ」
二人は睨み合う。やがて則宗はその場を去った。彼の背中が見えなくなるのを見届けてから、椿は鷹子がいるであろう川へと向けた。
長い年月をかけて形成された奇岩奇石が連なる川の中流に、鷹子はいた。薄茶の短い髪が水しぶきを受けて濡れている。適度に焼けた肌がとびきり元気な彼女によく似合っていた。
視線は川底へ向いている。鷹子は笊を川の流れに沿って構え、魚がかかるのを待っていた。
――魚が笊の上で大きく跳ねた。鷹子はたくし上げていた小袖を下ろし、絎紐を結び直しながら川から上がる。
「おい」
呼びかけると、鷹子は小首を傾げた。
「あれ、椿様……どうしてここに?」
「……別に」
椿はむっつりとし、帰るぞと一言放つ。
「変なのー」
乾いた岩場で濡れた足裏を擦りつけながら椿の後に続く。
「ねえ、見て見て。あたし、ちゃんと魚捕まえたんだ」
「そうか」
「あ、鶯幸様やお弟子さん達には内緒だからねっ。本当はお肉って食べちゃ駄目らしいから」
「……ああ」
椿は鷹子を横目見た。彼の横を歩く鷹子は何が楽しいのか笑っている。両親を亡くし、村弾きに遭い、辛いだろうに。彼女は強く生きている。
椿の脳裏に影が浮かぶ。父親の背中、そして泣き顔。ただの過ぎ去りし出来事だとわかっていながらも、振り払えない。しかし、鷹子を見ているとそれらが霧散する。彼女はまるで、優しいひだまりのようだと椿は思った。
いったん郷愁寺へ戻って夕飯の支度を済ませた後、鷹子は山へ入って薬草を採ると言い出した。椿は何故か彼女に付き合わされていた。
椿はしゃがみ込んだまま、常緑木の合間から見える丸い空を仰いだ。暮れなずむ夕陽が目を射る。
ぴー、ぷー、と鷹子は草笛を吹き鳴らす。それに呼応して夜鳥が鳴いた。草のささめき、匂い立つ清らかな水。現世ならざる神聖な雰囲気がここにはあった。
「……綺麗だ」
景色を眺めて言う椿に、鷹子は「うん」と答えた。
「鶯幸様達が来る以前は、荒れ放題だったから、絶対近づきたくなかった。……鶯幸様は本当すごい」
「随分と、鶯幸を慕っているのだな」
鷹子は首肯する。
「あたしね、おっとうが嘉納様の当主を殺そうとしたんだって村の人達から言われて冷たくされてたの。おっかあも死んじゃって、あたしは一人ぼっちだった。話し相手になってくれるのは則宗様くらい。そんな時……三年前……鶯幸様と出会ったの」
その時のことを思い出しているのか、鷹子の顔が綻ぶ。
「こっそりお寺に近づいたら、『おいでなさい』って言ってくれて。たくさん話をしてくれたし、聞いてくれた。あたしが駄目なことをしたら厳しく叱ってくれた。家族、みたいに」
「……良かったな」
「うん!」
ふっと彼女の顔に影が差す。ついさっきまであかね色の雲が浮かんでいたというのに、いまや空に広がるは満天の星。手を伸ばせば掴めそうだ。藍の空を埋め尽くす星明かりがまぶしい。
「あ、そうだっ」
唐突に鷹子は手鼓を打った。彼女は椿の手を引く。
「ちょっとついて来て」
「おい、もう戻らなければ鶯幸達が心配――」
「大丈夫」
強引に鷹子は夜道を進む。木の枝に夜鳥がとまっていた。
「あ、夜鳥の巣から赤ちゃんが顔出してる。かわいいねえ」
「……よく見えるな」
鷹子はかなり夜目が利くのだろう。
二人は獣道を通って拓けた場所へ辿り着いた。椿の連理木が悠然と佇むそこは、椿が倒れていた場所だった。椿の葉が風にそよぎ、その隙間から密集した星が覗いている。
「やっぱり、七夕の季節は星が明るいや」
鷹子に言われてよく見れば、上弦の月の横で星が群れをなし、天の川を作っている。
ここに来たのが如月の終わりで、今が水無月の始め。もう、かれこれ四ヶ月も経っていた。そんなことまで、椿は忘れていた。
しばし、二人は無言のまま星空を見上げていた。椿の木にもたれかかっていると、倒れていた時の苦しみもまた蘇ってくる。鷹子は血が染み込んでいる木の根元を撫でる。
「ここにいたら、全部遠くにあるような気がしてくるの」
鷹子は独り言のように小さく言った。
「村の人達のいじわるも、おっとうや、おっかあが亡くなったのも……全部ただの悪い夢みたいなんだって気分になれるの」
「――――……」
「だからあたし、椿様にもここは素敵な場所なんだよってちゃんと教えてあげたくて。けがが良くなったら連れてってあげようって思ってたんだ」
「…………」
夜風が椿の黒髪をあおった。どこからともなく蛍が舞い始める。鷹子は勢いつけて立ち上がり、後ろ手を組んだ。
「ここ、昔からあたしの〈秘密の場所〉でね。へへっ……。鶯幸様にも則宗様にも教えたことないんだよ」
椿は込み上げてきた何かに面食らった。今まで何も感じることのなかった心が胎動する。心地よい静寂の中で鷹子が笑う。
「…………ここが〈秘密の場所〉で、良かった」
「…………?」
「椿様を見つけることが出来たから」
椿の瞳孔が縮まる。息が、止まるかと思った。
椿は惚けた表情を引き締める。
「倒れていた俺を何故、助けた」
「……だって、椿様が……」
もにょもにょと鷹子が手遊びする。
「はっきり言え」
椿は眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
「……夜みたいな目をしてたから」
「何……?」
「全てがどうでもいいような目をしてたから」
助けなきゃって思ったの、と少女は続けた。
ぱきり、と椿の心を覆っていた氷にヒビが入る。それは瓦解した。
「…………気付いているかもしれないが。俺は都から落ち延びてきた……武士だ」
椿はゆっくりと語り出す。
「半年前、我が家はだまし討ち同然に攻め滅ぼされた」
「え……?」
「仕える主君家の後嗣を巡って他の派閥ともめていたんだ。その時、俺は別の家に仕えていたから……報せが遅れた。夜襲当日に実家が囲まれていると火急の報せを受けて急行したが間に合わなかった。……邸に攻め込まれた原因は、父が、ある男を信用しすぎたから」
椿は嘲笑を洩らす。
「兄からその男のことは聞いていたから、何度も注意するように父へ手紙を送っていたが返事は来ず――――結果、俺の家は滅んだというわけだ」
鷹子は何も言わずに椿の話を聞いている。椿は柔らかな草を握りしめ、拳を震わせた。
「いまだ、鮮明に思い出せる。家が囲まれていると火急の報せを受け、駆けつけた時に見た……家人や郎従共の殺された姿。……塗籠で見つけた父の無念の涙」
情けない、と椿は低く呻いた。
「惜しむ価値もない。……父は愚か者だ」
そう罵る椿を鷹子が覗き込んでくる。
「椿様は、おっとうに許して欲しいんでしょ?」
「!」
「ちゃんと止められたら良かった。きっと、そうしていれば救えたかもしれないって、思ってるんでしょ?」
鷹子は涙ぐむ。
「自分だけが逃げて生き延びたことが、辛いんでしょ?」
「ど…………して…………」
椿の声が掠れた。鷹子は座り込んで、両目に手の甲を当てた。
「あたしも一緒だから。椿様の苦しさがちょっとだけわかるの」
「一緒……?」
鷹子は頷き、涙が光る瞳を椿に向けた。
「椿様が自分を許せる時が来るまで、あたしが代わりに椿様のことを許しておくね」
「……?」
「椿様は何も悪くない。あたしはそう思う。これから先、何があったって、そう思う」
一陣の風が吹いた。
「……馬鹿馬鹿しい……」
喉から絞り出すように、椿は言った。彼は視線を落とし、ぶら下げていた二本の刀を放り出した。そして、ごろんと横になる。椿に倣って鷹子も寝転がった。彼女は腹の上で手を組んで、じっと空を見ている。
「椿様」
「……なんだ」
「泣いてるの?」
「泣いてるのは、お前だろう」
椿の目に涙はない。しかし、彼の瞳に映り込む星々がきらきらと波打ち、潤んでいるように見える。
鷹子は手を枕にして、椿の方に向き直った。一筋の涙が頬を横切って草の先に落ちた。
「泣いてもいいんだよ」
「…………」
怪訝な顔をして椿は鷹子を見やった。鷹子は緩く瞬き、泣きながら笑う。
「鶯幸様によく言われるの……涙には心を和す力が……あるんだって……」
「……口を開けば鶯幸様、鶯幸様。お前は本当に――」
皆までは言わなかった。鷹子が眠ってしまったことがわかったからだ。
椿は無言で上体を起こすと、鷹子の寝顔を見つめた。月と星々の輝きを受けて照り輝く鷹子は、この世の者と思えなくて。椿は鷹子の柔らかな頬に手を滑らせた。規則正しい寝息が彼の手にかかる。椿は鷹子を、そっと抱え上げた。
鶯幸は部屋の前の簀子に文机を置き、正座のまま姿勢をぴんと張って墨を刷っていた。彼は感覚のみで、流れるように美しい文字を書く。月と星、そして燈台の明かりが鶯幸を照らしていた。彼の耳に砂利を踏みしめる音が届く。鶯幸は顔を上げずに言った。
「遅かったですね」
「――ああ」
「鷹子の足音が聞こえませんでしたが」
「眠っている」
「…………おやおや」
鶯幸は笑みを洩らした。鷹子は椿の腕の中で、健やかな寝息を立てている。椿の横顔には、吹けば飛びそうな淡い微笑が浮かんでいた。