一
夜が残る明け方――暁が来る一歩手前の霊峰・郷愁山は静かだった。空には薄く紗がかかった闇と星明かりだけがある。
そんな山の一角で、一人の少女がキノコを採ろうと手を伸ばした格好のまま固まっていた。少女は肩甲骨辺りまで伸ばした薄茶の髪を揺らす。彼女はくりくりとした薄茶の瞳を数度瞬かせて手の甲で擦った。
紅椿の連理木のもとで、青年が身を投げ出していた。黒糸でつなぎ合わせた鎧は外れかかり、籠手や脛当などの小具足はひしゃげている。沓に至っては底が抜けて合間から足袋が覗いていた。腰には大ぶりの太刀を二本穿いている。……右肩には矢が刺さっていた。
漆黒の髪は肩につかない程に短く、涼しげな顔には生気が感じられない。今にも消えそうな顔を、星々が頼りなげに照らしている。
少女は小首を傾げ、膝小僧を抱えて青年を見つめた。
「――――誰だ」
死んでいるようにも見えた青年は生きていたようで、身じろぎする。すっと切れ長の目が開いた。黒曜石を磨き上げたような濃い黒色が少女を射る。苦しそうに奥歯を噛みながら青年は刀の柄を握る。
次の瞬間、ごぼりと嫌な音がしたと思ったら彼の口から多量の血が溢れた。
「大丈夫だよ。あたし、何もしないよ」
少女は青年を安心させるように、にっこりと笑いかける。青年は不審げにそれを見、柄から手を離した。
彼は己の右肩に刺さった矢を握りしめると、一気に引き抜いた。
血しぶきが上がり、地面が真っ赤に染まる。引き抜いた鏃からは腐った肉のにおいがした。
少女は青年の頭上にある椿の葉を、つま先立ちして引き千切った。彼女は背負っていた竹かごを下ろし、木の器を取り出した。彼女は器へ椿の葉を入れ、石ですり潰す。
少女の行動を怪訝な顔で見守る青年へ、少女は器を突き出した。
「椿の葉の汁は止血薬になる。お水もあげるから、傷口を洗い流してから塗って」
「…………」
青年はいるともいらないとも言わず、少女から視線を外した。
「……その肩の傷を放って置いたら、腕が腐り落ちちゃうよ。せめて水でさらさないと」
少女は心配そうに言い、竹筒を差し出す。
「ここに置いておくね」
何も言わない青年に少女はそう言い、すっくと立ち上がると、軽やかな足取りで場を去った。
青年は少女の置いていったものをまじまじと見つめていたが、やがてゆるりと瞑目する。右肩からは多量の血が止まることなく流れ続ける。
翌日の昼下がり。太陽の日差しが木々の隙間より差し込む。溶け残る雪は太陽の下で青い光を放っている。青年は二本の椿の樹木が絡み合った連理木にもたれかかっていた。そんな彼を、猛禽類特有の鋭い目をした鷹が樹上から見下ろしている。
少女は青年の傍に果物や握り飯を置いた。青年は何の反応も示さない。少女はしゅんと俯く。
「血止め……」
青年が躊躇したように言葉を切ると、少女は顔を上げた。
「よく効いた」
その言葉を聞いた瞬間、少女の顔に笑顔が浮かぶ。
「うんっ」と心底嬉しそうに答える少女へ青年は怜悧な美貌を向け、押し黙る。
少女は青年から少し距離を置いたところに尻をついた。地面は雪解け水で濡れている。近寄るなとも離れろとも言われないので、そのまま曇り空を眺める。
少女はおずおずと青年へ声をかける。
「あたし、鷹子って言うの」
少女は、きらきらと輝く瞳で名乗った。青年は微かに目を見開いた。
「……女で、名に〈鷹〉がつくなど……珍しいな」
へへ、と鷹子は鼻をこする。
「死んだおっとうとおっかあがつけてくれたんだ。鷹のように自由に……何者にも囚われず生きられるようにって」
「…………」
「あなたは何て名前?」
名前を問われた青年は視線をさまよわせる。その時、ぽとりと紅椿の花が彼の目の前に落下した。
「――椿」
青年はそう答えた。鷹子は笑顔を浮かべる。
「椿様、椿様」
彼女は口の中で彼の名前を反芻する。その顔はひどく嬉しそうだ。
「ねえ、椿様は寒くないの?」
鷹子は訊ねながら、鼻を啜った。つんと張り詰めた冷たい空気がここにはある。
「寒ければ、来なければいいだろう」と、椿はにべもなく言い放った。
それでは答えになっていないじゃないかと鷹子は口を尖らせる。椿は彼女の相手をするのは億劫だと言いたげに嘆息した。愁いを帯びた黒い瞳が前髪によって隠れる。
「ここに、ずっといる気なの?」
「…………」
「危ないよ。この時期はいきなり雪崩れとか起きるし、そうでなくてもこの寒さじゃ凍えちゃう」
椿はそっぽを向いたまま何も答えない。もう、と鷹子は頬を膨らませる。
「あたしこの山にあるお寺に厄介になってるんだ。良かったら、あなたも」
返事はない。
「――また来るね」
うんともすんとも言わない椿に鷹子はそう言い残し、山の中腹へ向かう。細い木々が立ち並ぶ道を通り抜ければそこには堂々とそびえ立つ一枚の巨石があった。巨石の前には寺が存在する。風雨の浸食によって今にも腐り落ちそうな屋根が何とも言えない。
その寺は、郷愁寺と呼ばれており、巨石の奥に安置されている霊石――ご神体を祀っている。
砂利が敷き詰められた寺の敷地内へ入ると、入り口部分を掃いていた僧侶と目があった。僧侶は軽く笑い、本堂の方を顎でしゃくる。
「おう。夕飯の用意、出来てるぜ」
「はーい」
僧侶達と共に本堂で夕餉を食べ終わり、腹を擦りながら自室へ戻ろうとしていた鷹子の耳に、穏やかならぬ雨だれの音が届いた。年季が入った天井はみしみしと嫌な音を立て雨漏りしている。
「あーあー、降り出しちまった」
「おい。桶を持ってきてくれ」
僧侶達が早歩きで簀子を行き交っている。鷹子はそっと障子を開けて外を眺める。天をひっくり返したような土砂降りの雨が地表を打っていた。
「いやあ、久方ぶりにひどい降り方だ。この分じゃ、雪崩れや土砂崩れが来るかもな」
びしょ濡れの僧侶が、がなるのが聞こえてきた。
鷹子の脳裏に、椎の木の下で出会った青年の姿が過ぎる。彼女はしばし逡巡していたが、小さく頷くと自室へ戻って使い古しの笠を着た。僧侶達に見つからないよう気をつけながら、彼女は寺を飛び出した。
山の中は雨で地盤が緩んでおり、いつ雪崩れや土砂崩れが来てもおかしくない状況だった。鷹子は息絶え絶えに走る。
椿は葉から伝ってくる雨粒を避けようともせず、連理木にもたれかかっていた。遠くに思いを馳せる黒い眼には虚無が漂っている。激しい雨によって紅椿の花が首からもげ、辺り一面汚らしく散らばっていた。がさり、と草を揺らして鷹子は青年の前に立った。
「……お前……」
「一緒に、お寺へ行こう!」
雨音にかき消されぬよう、鷹子は叫んだ。椿は首を横に振る。
「――いい」
「でも……このままじゃっ」
だんまりを決め込み、椿は顔を背ける。鷹子は必死に彼の手を引いた。椿の眉間に皺が寄る。
「くどいっ!」
「!」
鷹子の手を椿が払いのけた瞬間、鷹子の足がよろめいた。彼女の後ろ側は急斜面となっている。鷹子は反射的に目を瞑った。
鷹子の体に強い力が加わる。薄く目を開けると、そこには椿の首筋があった。転がり落ちそうになった鷹子を、椿が助けてくれたのだ。そんな彼の右腕を鷹子はむんずと掴んだ。彼は痛みを堪えるように、渋面を作る。
「離せ」
「いやだ」
「…………傷が開く」
「お願い。危ないから、一緒に来てっ」
「……お前の方が危なかったじゃないか」
「お願い」
「………………」
腕を掴んだまま懇願する鷹子の頑固さに折れたのか、椿は首肯した。
土砂降りの中、二つの影が郷愁寺に蠢いていた。影達は裏口より寺内に侵入する。
椿は苦しそうに咳をした。鷹子は彼に肩を貸しつつ、障子を足で器用に開けた。
鷹子の部屋は、納戸である。土壁を巡らせた納戸には光が射さない。鷹子は隅に寄せた燈台に火打ち石で明かりを灯し、ついでに火桶にも火をつける。じんわりとした暖かさが室内に広がった。
椿は崩れ込むようにあぐらをかいた。彼は水分を含んで重くなった防具類を外すと、ゆがけと足袋を脱いで小袖姿となる。
鷹子は床に散らばった薬草や花、器などを端へ押しやると、竹で編んだ敷物を叩いた。
「ここ、使って下さい」
椿は無言のまま室内を見回すと、鼻を鳴らす。
「そんな古びた寝床、いらん」
「え、でも――」
「俺はここで良い」
彼は壁際にもたれて腕を組んだ。
鷹子は恐縮しつつも寝床に潜り込んだ。
「……ところで、ここはどこだ?」
椿が訊ねてきた。
「へ、ここは郷愁山にある郷愁寺で――」
「そのようなことを聞いているのではない。この国の名は?」
「下野国だよ。下野国の、足利郡」
足利だと、と椿の眉尻がつり上がる。
「うん。けど、ここはすごーく〈へきち〉だから、あんまり重要視されてないんだって」
鷹子は障子に映る自分の影で影絵遊びをしながら答えた。
足利か、と椿はつぶやき鼻を鳴らす。
「随分逃げたつもりだったが……そうでもなかったな」
ほどなくして、椿は寝息を立て始めた。鷹子は自分がかぶっていた掛け物を椿にかけ、火桶を彼の傍に寄せてやった。彼女は敷物の上で丸まって、眠りについた。
鷹子が深く寝入った頃、椿の目が開いた。彼は自分にかぶせてあった掛け物と、傍に置かれた火桶を見る。椿は鷹子に視線をやると身じろぎし、そのあどけない寝顔を見つめ、そっと掛け物を鷹子へかぶせ返した。火桶も鷹子の足許近くへずらす。
燈台の光がちりちりと小さな音を立てて消えた。
雨上がりのにおいがする。鷹子は鼻をひくつかせながら薄く目を開けて驚いた。椿にかけてやったはずの掛け物が、自分の上にあるではないか。がばりと跳ね起き、きょろきょろと周囲を見渡す。
椿は壁にもたれて目を瞑っている。鷹子は彼がここにいることに安堵の溜め息を洩らす。椿ははうっすらと目を開けた。
「おはよう」
「…………ああ……」
頭を押さえながら起き上がろうとする椿を鷹子は止めた。
「まだ寝てていいよ。けが人なんだし」
「――お前に世話になるつもりはない」
「でも――――」
「鷹子!」
すぱんっ、と襖が開いて室内へ数人の男が入ってきた。彼らは揃いも揃って法衣を着崩している。両腕には数珠を巻きつけており、錫杖を無造作に握っていた。寺の僧侶と言うより、山法師と言った方が正しいような出で立ちである。
太眉の僧侶が片目を瞑って凄んだ。
「何を寝坊しておるのだ。大体、おまえはなあ……」
はた、と僧侶の言葉が止まる。鷹子は彼の目線の先を辿った。僧侶達の視線は、鷹子の後ろにいる椿へ向いている。注目されている当の本人は気にする様子もなく、前髪を掻き上げた。
「誰じゃ、貴様!」
「くせ者だ、皆の者であえ、であえー!」
「あ…………」
あっという間に僧侶達が納戸に集まってくる。厳めしい顔をして、がに股で椿に近寄ろうとする僧侶達を、鷹子は両手を広げて遮断した。
「この寺内へ、勝手によそ者を入れるなど……馬鹿者!」
つばをまき散らして僧侶が喚く。
鷹子は首を竦めながらも、僧侶達の前を退こうとしない。
「そこをどけ、鷹子」
「いや」
「こんな時ぐらい言うことを聞けっ」
「絶対いや」
「もういい。こうなったら無理矢理――」
「おやめなさい」
鷹子の首根っこを掴もうとした僧侶を、凛とした声が止めた。
「鶯幸様!」
鷹子の声色が明るく弾んだ。
鶯幸は瞼を閉じたまま、にこりと微笑んだ。その邪気のない微笑は神仏を思わせる。
「鶯幸様、お下がりくださいませ。鷹子の引き入れた不審者が中に……」
僧侶達の言葉に答えず、鶯幸は椿の前に進み出た。
「君は旅人でしょうか」
鶯幸は伸びのある心地よい声で椿に問いかけた。椿の眉間に皺が寄る。
「坊主如きに答える義理などない」
彼が目を眇めて答えると、鶯幸ではなく僧侶達が激しく反応した。
「きさま、我が師の侮辱は許さん。言葉を改めよ」
「改める言葉など一つもない」
「何を!」
僧侶達は殺気立ち、怒りに身を任せて錫杖を振りかざし、椿に殴りかかった。椿は僧侶達の錫杖を太刀の鞘で受け止め、柄に手をやって体勢を低く――。
「やめて! 椿様はけが人なの!」
鷹子が横から割って入ってきたことで、太刀の抜きどころを失った椿は舌打ちする。
「この荒くれどもが」
彼がそう呟くと、僧侶達は再び錫杖を構えた。
「だから、おやめなさいと言っているでしょう。聞こえませんでしたか」
「も、申し訳ございません」
鶯幸から諫められた僧侶達は不承不承といった様子で身を引いた。
鶯幸は椿に対して深々と頭を下げる。
「この者達に代わって非礼をお詫び申し上げます。私は鶯幸。この郷愁寺で和尚をしております。ここにいるのは私の弟子達です」
「弟子……? このように野蛮な僧兵風情がか」
挑発としか思えない椿の発言に僧侶達の表情が強張る。しかし、鶯幸は眉一つ動かすことなく続ける。
「僧兵などではありません。ただの僧侶です。……そうですね、皆さん」
僧侶達は頬に朱に染め、構えていた拳を下ろした。
「して――君の名は?」
「…………」
「椿様って言うの」
答えない椿に代わって鷹子が答えた。ほう、と鶯幸は頷いた。
「あのね、山の中で倒れていたの。怪我もしているから、ちゃんと手当てをしてあげたくてここへ連れ帰ったの。勝手に連れてきたことは謝ります。ごめんなさい」
「そうでしたか。……しかしまた、何故この山中に倒れていたのでしょう」
「それは……知らない、けど」
鷹子は鶯幸の法衣をぎゅっと握った。
「ねえ、鶯幸様。あたしがちゃんと面倒見るから、椿様の怪我が治るまで、ここに置いてあげて」
鶯幸にせがむ鷹子を僧侶達が軽く叩いた。
「黙って聞いていれば――駄目に決まっているだろうが」
「そうだそうだ。こんな得体の知れない男を寺に置いておけるかっつんだ」
僧侶達の猛反発を喰らうも、鷹子はそれを聞き流して鶯幸に「お願いします」と言い続ける。
鶯幸は嘆息した。
「――仕方がないですね。わかりました」
「やったあ」
鷹子は諸手を上げて喜びを表現し、反対に僧侶達は肩を落として落胆を表現する。
「怪我が治るまで、どうぞ心置きなく滞在して下さい。……鷹子、ちゃんと君が面倒を見るんですよ」
「はいっ」
言い含める鶯幸に、鷹子は大きく首肯した。
「そんな……っ」
「おい鷹子、オレ達は手伝わねえからな! あとで泣きついてきても知らねえぞ」
捨て台詞よろしく言い放つ僧侶達に、鷹子は頬を膨らませた。
「いいもん! ちゃんと一人で面倒見れるもん!」
彼女はそう言ってそっぽを向いた。何を、と僧侶が鷹子に詰め寄る。鷹子と僧侶達は言い合いを始めた。
じっと腕を組んでことの成り行きを静観していた椿は身じろいだ。
「……勝手に話を進めるな。俺はここにはとどまらな――」
「先ほど弟子達とやり合った時に傷口が開いたのではないですか」
鶯幸の囁きに、椿は言葉を止めた。
鶯幸は両指を交差させる。
「目が見えないと、感覚が研ぎ澄まされるものです」
「…………」
「いいではないですか。怪我が治るまでゆっくりしていけばいい」
「…………好きにしろ」
椿はぱっくり割れた右肩の傷口から染み出す血を押さえつけた。
僧侶との言い合いが一段落したのか、鷹子が椿に近づいてくる。
「椿様、良かったね」
その笑顔は微かな媚びも企みもない、真心だけが感じられるものだった。