序
平安時代をベースにしておりますが、基本ファンタジーとして読んで頂ければさいわいです。
前回の『螺旋階段の終わり』と違い、今回は投稿した時のものをそっくりそのまま掲載してます。
原稿用紙換算で104枚程度です。
影は息を殺し、邸を囲う築地塀に張りついていた。東の総門には数人の屈強な男が仁王立ちしており、門の両側に爆ぜる篝火が彼らの強面を照らす。
夜闇が、ざわりと動いた。人影は地面を蹴り上げ、そのまま男達を押しのけ総門を突破した。
「何奴だ!」
「まてっ」
影は寝殿と東対とをつなぐ渡殿の下にうまく身を滑り込ませて男達の追跡を退けた。肩で小さく息を吐き、影は己の目の前を通り過ぎて行く者達の合間から様子をうかがう。
「まだだ、まだお館様は生きておられる! 絶対にお守りするのだ!」
郎従達が勇み戦う声が聞こえてくる。
「貴様、ここで何をしているっ」
影の前に一人の武士が立ちはだかった。武士は携えた刀を振り上げる。
「覚――――」
声は最後まで続かなかった。影の太刀が武士の鎧を貫通し、心臓を突き破ったのだ。無言のまま武士は崩れ伏す。渡殿の下から這い出した影は武士から太刀を引き抜くと、母屋へ向かう。母屋の蔀戸の前に置かれた几帳は見るも無惨に乱されていた。燈台の光に浮かぶ血の飛び散った襖障子、金屏風。ひっくり返った火桶の灰をかぶって倒れている女達。動くものはない。影はそれを確認すると、母屋の横にある塗籠へ向かった。妻戸を開け放ち、暗闇の先に目をこらす。視線の先にいたのは壮年の男。がらくたや宝物の間にうずくまっている男の息はひどく荒い。
「父上。あなたともあろう方が、憐れな」
影の声はひどく無機質で、抑揚がなかった。
「――……き」
男は影の名を呼ぶが、声がかすれて聞き取れない。
影は大股で壮年の男へ近寄ると、身をかがめて男を抱き起こした。妻戸越しに洩れる微かな月明かりに照らされて影の顔が露わとなる。美貌の青年が、そこにいた。
「わが、妻……は……」
「母屋で死んでおりました。おそらくは、自刃かと」
「そう、か――――」
美麗な顔を寸毫たりとも乱さない青年へ、男は一本の太刀を差し出した。その目には涙がある。
「……これを……おまえに、託す……」
青年は表情を僅かばかり動かす。男は半ば無理矢理それを青年の手に握らせた。
「……逃げろ……。そして……仇を…………」
風を切る音がしたと思ったら、一本の矢が飛んできて男を射貫いた。こうなることはわかっていたとばかりに、壮年の男は静かに瞑目する。男の手が青年の手より滑り落ちる。
同時に、わっと大音声を上げて数多の武士が塗籠へと乗り込んできた。
「まだ生きている者がおるぞ! 殺せ!」
「まて! そいつは――」
青年を殺そうと意気込む血気盛んな武者を、他の者が制した。
ゆるりと青年が片膝をついて立ち上がった。彼の瞳孔が開く。彼の顔を見た武士達は息を呑んだ。
「お……臆するな、奴は一人だ」
じりじりと武士達が青年との距離を詰めてくる。牽制も込めて矢を飛ばしてきた。鏃は青年の高く結わえた髪に当たった。髪紐がするりと外れ、後ろ髪が宙を舞って床に落ちる。青年は己の髪が散ったことに頓着するでもなく、太刀を一気に抜いて薙いだ。最前列にいた武士が手に持っていた松明が揺らぎ、落ちる。
――それが開戦の合図となった。
熱気が立ち込める邸内の外で、雪が舞い始める。南庭に植えられた椿がぽとりと果てた。炎に燃え上がる館と雪。正反対のものが同時に存在するさまは、幻想的であった。
※
地表に張った氷を思いきり踏めば、ぱりんと冴えた音を立てて砕け散った。
少女は一心不乱に走っていた。小さな足でひたすら逃げる。水溜まりと薄氷が地面を覆っていた。多量の水気を内包した雪に藁靴がはまって抜けなくなる。少女はそれを脱ぎ捨て、裸足となって駆けた。地面に落ちている木の枝や小石が少女の足の裏を引っ掻く。真っ赤な紅葉の如く素足が赤まる。
足がもつれ、少女は倒れた。風がうなり声を上げて渦を巻く。ちらちらと優しく舞っていたはずの雪は、いつの間にか吹雪き始めた。歯の根をかちかちと打ち鳴らす。むき出しの手足が鳥肌立つ。少女の目から涙がこぼれ落ちる。彼女はそれを小さな両手で拭った。しかし、それは次から次へ落ちてきて止まらない。
少女は空を仰いだ。一羽の鷹が、雪雲に覆われた夜明け空の中、力強く翼を広げている。
「……っ」
青白く輝く雪に爪を立てて少女はむせび泣いた。頼りない小さな背中が白い雪に覆われ、霞んだ。