八日
段々と空が白み始めた。地平線にはうっすらと太陽が昇り始め、朱と橙を混ぜたような光が山々を照らしていく。昨夜まで空を埋め尽くしていた雲はどこかへと消え去り、まさに快晴と言える天はどこまでも澄み切っていた。また湖面には霧が濛々と立ち込め、まるで空気の冷たさを具現しているようだった。
門の横に備え付けた、簡素な椅子。けして大きくもないその椅子に、私は膝を抱えて座っていた。冷え込みが厳しいのも勿論だが、何よりも物寂しい感情を抑える為に膝を抱いているという方が正しいだろう。現実を無理矢理突き付けられた昨日一日。それは私の心を折るには十分だった。
咲夜さんが死ぬ。それは未だに信じたくない現実である。人間が死ぬことなんて、随分昔からわかっていたはずなのに、いざ考えてしまうと、悲しい気持ちに襲われる。それこそ、パチュリーの言うお嬢様のように、強制的に妖怪や悪魔に変えてしまえればどれだけ嬉しいことだろうとも思ってしまう。しかし本人の意志がわからない今、それを望むことはただの現実逃避であるとわかっているだけに、結局は人間の生き様についての考えに耽ることの繰り返しだった。
先程までは頭を少し覗かせただけの太陽だったが、いつの間にやら完全に地平線からは離れて、目一杯に陽光を振りまき続けている。霧が立ち込めていた湖も今は晴れて、対岸の湖畔まで見渡すことが出来た。
どうやら無理な体勢が祟ったのか、身体の節々が悲鳴を上げ始めている。私は抱いていた膝を離して、ゆっくりと立ち上がると宙に向かって伸びをした。凝り固まった関節が音を鳴らして伸びていく中、肺一杯に朝の清々しい空気を吸い込んだ。
……別に、今日明日に咲夜さんが死ぬ訳ではないんだ。いつかは彼女の決断の日が来るのだろうけど、その時までに、私という存在を考えておけば良い。そう考えると、気分までが清々しくなって、今まで感じていた不安感はどこかへ消え去ってしまった。ただし、これは問題を先送りすることと何ら変わらないのだが、それでも気分は楽になって、いつも通りに今日という日を迎えることが出来そうだ。
伸びのついでに屈伸やらをしていると、館の扉が開いて、咲夜さんが出てくるのが見えた。その姿を見る限り、彼女もいつも通りの今日を迎えることが出来ているようだった。
「今日はやけに早いじゃない」
「そうですね。何故か早くに目が覚めてしまったのですが、することもないので早出してしまいました」
「見上げた心懸けね。それが毎日だったら文句はないのだけれど」
「毎日は流石に辛いですね。それに偶にだからこそ、こうやって咲夜さんに褒められたりするんですよ」
「それもそうね」
咲夜さんはくすくすと笑ったが、すぐに真面目な顔になり、私を注視した。
「メイド長として指示します。美鈴、貴女は今日からメイド長補佐に任命します」
「……はい?」
「だから、メイド長補佐として」
「いや、そのメイド長補佐って何なんですか?」
「字の如くよ。メイド長の私を補助をするの。何か文句ある?」
「いえ、私が内勤となるには、お嬢様の許可が」
「メイドの仕事は全て私に指名権がある。例えお嬢様といえども、それを覆すことはさせないわ」
反論も出来ずに、ただ頷くことが精一杯だった。それ程の勢いが咲夜さんにはあって、しかも一寸の気紛れさもない愚直なまでのその気質が、彼女の決意の固さを物語っている。
咲夜さんは踵を返すと、すたすたと館へ歩き始めた。
「貴女も付いてくるのよ。終わらせないといけない仕事は山程あるんだから」
咲夜さんが歩を止めたのは、大広間だった。パーティーや舞踏会、時には弾幕ごっこなども行うこの部屋は、他の部屋に比べ極端に広く、この館では珍しく窓が多くある設計である。中央にある魔方陣はパチュリーの仕事らしく、何でも防御壁の進化板なんだという。汚れを弾き、そして弾幕などの衝撃から壁などを守る役割をしていると、遠い昔に説明を受けたことを覚えている。
「さて、ここの掃除から始めるわよ」
その言葉と共に、咲夜さんは大広間の端にある掃除道具入れを指さした。
「ここの掃除道具はあそこに全て入っているから。この部屋は汚れが浮き上がるようになっているから、モップでそれを取り除くだけで良いわ。それと、最低でも一週間に一回は、窓の桟や下枠に溜まった埃は拭き取ること。大掃除の時には、シャンデリアの掃除も忘れないように」
掃除と言うよりは、まるで手順の確認をしているようだった。その後も掃除のやり方や順序、注意点などを事細かに説明されるが、莫大な情報量を一気に記憶するのは無理な話で、メモ用紙が欲しくなる時間が暫くは続いた。それが終わればモップがけが始まり、会話はぱたりと止んだ。
それにしても、モップをかけるなんて久しぶりである。幻想郷に来てからというもの、それは咲夜さんの仕事となった。それが十数年経ってから再びすることになろうとは、夢にも思わなかった。懐かしいような、それでいて少し億劫なような、微妙な感情は今も昔も変わらない。ただそれを見破られて怒られることは、過去には経験していない、新たな記憶だった。
「だって、ほんの少し前には私が咲夜さんに掃除を教える立場だったのに、それが逆転するなんて、感慨深いなぁって思いまして」
「だからって、手を止めて良い訳じゃないのよ。まだまだ覚えて貰わないといけない仕事は沢山あるんだから。びしばし働く働く」
「覚える? 私がですか?」
「そうよ。だから手を動かす!」
咲夜さんの最後の言葉には、ピリオドが含まれていた。『これ以上は質問するな』。そんな感情が伝わってくる。
気になったのは、『覚える』という単語だった。彼女の言うように単純なメイド長補佐なら、全ての仕事を覚える必要はないように思う。確かに、補佐が仕事を覚えれば、メイド長の仕事量が減るのは間違いがないはずだが、何もそこまで急いで仕事を覚えさせる理由がいまいちぴんとこない。彼女からはどこか焦っているような、そんな気が見え隠れしていた。
大広間は本当に広い。モップをかけるだけとはいえ、全体にかけるとなると、相応の時間が必要になる。前までは私もやっていたこととはいえ、久しぶりでは疲れも出てくるし、仕事も雑さが見えてくる。しかし、咲夜さんは本当に手早く、そして埃を残すことなく掃除を進めていく。単純にモップを動かすだけなのに、その動きには無駄がなく、思わず見とれてしまう程鍛錬された動きだった。
「凄いですね。流石咲夜さんです」
「そうかしら。私からすれば、これはいつもの仕事だから」
「時間を止めて仕事する時も、それくらいの速さでするんですか?」
「……そうね」
咲夜さんは手を止めて、モップに縋るような姿勢を取る。それに合わせて、私も立ち止まった。
「あ、そのモップ」
「どうしたの?」
「私が咲夜さんにプレゼントしたやつですよね? 咲夜さんがメイド長になった時に」
「そうね。もうだいぶ長く使っているわね。新しいモップを買っても良かったんだけど、これが使い心地が良くてね」
「でも、もう寿命ですかね。留め具の所が腐って外れかけてますし、柄はひびだらけですし」
「……確かに、そうね」
そう呟いた咲夜さんは、おもむろにモップを持ち上げると、柄を額に付けた。そして目を閉じると、瞑想を始める。
彼女の行動は不思議だった。暫く瞑想をしていたかと思えば、今度はモップを胸に抱いて、とても小さな声で何かを呟いた。そして、モップを静かに下ろす。
「……今のは、何だったんですか?」
恐る恐る、質問をした。
「今やったのは、私なりのお礼の仕方。特に長く使っていた道具にするの。まずは額に付けて、それとの思い出に浸るの。そして、胸に当てて『ありがとうございます』『お疲れ様でした』って呟く。たったそれだけのことなんだけど、それで区切りが付くというか、綺麗な形でお別れが出来る気がするの」
咲夜さんはそう言うと、持っていたモップを壁に立てかけて、掃除道具入れから新しいモップを取り出した。
「さぁ、話している暇はないわよ。どんどん仕事しなくちゃ」
そう言うと、今までと同じく完璧なまでの動きで掃除を進めていく。それに付いていくように、私も掃除を再開した。
あのモップは幸せだっただろうと、しみじみ思う。モップをあげてから現在まで、少なく見ても十数年。きっと彼女はその間、毎日あのモップを使って掃除をしていたのだろう。それにあれ程まで痛むようになるには、かなり丁寧に使い込んでいかねばならない。
それに、彼女の言う通り最後の別れ方がまた綺麗だった。道具に対して思いやり、感謝と謝辞を述べて、最期とする。それは道具からしても悔いの残らない別れ方で、咲夜さんは付喪神とは無縁なのだろうと、つくづく思った。