二日
額から汗が滴り落ちて、からからに乾いた地面に一点の模様をつけた。容赦のない日差しは皮膚をじりじりと焦がし、ここぞとばかりに騒がしく鳴く蝉がまた、苛々を募らせる。どこまでも広がる青い空には雲の一つも見当たらず、僅かに吹く風すらも生温く湿り気を帯びていた。見上げる程高い塀も朝方には光を遮ってはいたものの、太陽が真上から照りつければ影の一つすら作ることはない。私に纏わりついてくるものは、どこまでも日光と暑さだけである。
ただ、私も妖怪の端くれ。この程度の暑さならば、口で言う程の辛さは感じない。暑さ寒さは喜ばしいものではないが、少しばかり不快に思う程度のものである。
門番という職に就いてから長くなるが、この職の辛さ――大敵は“飽き”だと言える。無論、眠気も大敵ではある。むしろ負かされる回数だけを見れば、眠気の方が大敵だ。だが、質は飽きの方が断然悪い。他に例えようが無いほど最悪である。
眠気と飽きを比較するならば、寝た方が時間の経過がとても速い。時には勤務時間を過ぎて寝てしまうことだってあるし、寝ること自体は気持ちが良いものだ。ただ、その後に大抵付いてくるお説教が少々困りものだが、それでも悪いのは私だとわかっているだけに、文句を言えるはずもない。だが眠気に負けて寝てしまうこともまた、ある程度は仕方のないことだと思う。どう足掻いても、眠たいものは眠たいのだ。
それに対して、飽きは全く違う。過ぎる時間は遅いし、気持ちも良くない。それに何よりも、時間が経てば経つ程に苛々が募ってくる。“いつまでこの苛々を背負ってこの場に立ち続けなければならないのか”“何故こんな意味のない仕事をしなければならないのか”。そんな負の感情が次々に溢れてきて、溜息の代わりに舌打ちをするようになる。そうなれば、今度は自分自身に嫌気が差してきて、ふてくされて椅子にどっかと座り込む。そして後々に後悔するという、負の循環。
今日という日はどこか、その飽きが出そうな気配があった。とは言っても、これといって嫌な事があった訳ではないし、門番の仕事に嫌気が差した訳でもない。職場環境こそ最悪だが、それにどうこうと文句を付ける気も更々ない。
……そんな難しい理由などではなく、ただ何となく、飽きそうな気がするのだ。いつもと同じだけれど、何だか嫌な気分がする。ただその場にいれば良いだけなのに、それすらが嫌になる。どこからか流れてくるその感情は、今までの経験からするに、間違いなく飽きの兆候であった。
ただ、この段階ならば回避することも可能ではある。絶対に出来る、という訳ではないが、太極拳に勤しんでみたり花壇の手入れ等していると、いつの間にやら忘れていることも多い。
しかし今日に限って、そういうことに興味が湧いてこない。身体を動かしてみても花に水をやってみても、どうにも気分が変わらない。もう僅かの内に、どこからかやってくる苛々が蓄えられて、やがては私を満たすことだろう。
出来る限りの辛抱はしたが、それにすら嫌気が差して、ついには気分転換も諦めた。溜息混じりに体を椅子へと投げれば、勢いをつけて座った気もないのに、椅子はまるで不満を漏らすかのようにぎしりと軋む。……これもいつものことだ。いつも軋む椅子。いつも見るここからの景色。いつもいつまでも続ける、番。
……飽きはまた、眠気すら吹き飛ばしてしまうのが困りものである。不貞寝という言葉もあるが、こんな状態で寝ることなど私には絶対に出来ない。思考だけが一人歩きして、目は冴えてしまう。とどのつまり、飽きには対応する策がないと、最近ではそう考えるようになった。
相も変わらず、生温い風が吹く。それも僅かに空気が動く程度の、細々とした風。……吹くならもっと吹き荒れれば良いのに。それならこんな生温い風だって、少しばかりの涼くらいは感じられるだろうに。もどかしい風に、口からは溜息と舌打ちが勝手に洩れた。
「あら、職務にでも不満があるのかしら」
俯きこんで無防備だった側面からの、唐突にかけられた声だった。あまりの驚きに、脳髄から足の先まで一気に電気が走る。それに刺激されてか反射的に背筋が伸びて、私はその格好のまま、声のした方へと振り向いた。
「何驚いているの」
真横には、私を見下ろすように立つ咲夜さんが立っていた。少しばかり小馬鹿にしたかような目線で、しかし口元には微笑みが浮かんでいる。してやったり、と言わんばかりだ。
「……いきなり現れられると、流石に」
「先に言っておくけど、今日は普通に歩いて来たわよ。時間は弄らずに」
「え、どれくらい前から」
「あなたが椅子に座って頭を掻き毟っている辺りかしら。何だか一人で楽しそうだったから黙って見てたんだけど」
溜息が鼻から一つ抜け出た。いたのなら声をかけてくれれば良いものを、何も観察までしなくとも。それも、この荒れている状況を見られてしまうなんて。それを考えればまた一つ、溜息が口の僅かな隙間から出ていった。
「……もしかして、ご機嫌斜めかしら」
「いえ、まぁ……。芳しくはないとでも言いますか」
「ふぅん。でも、体調が悪い訳では無いのでしょう?」
「えぇ、……身体が丈夫なことだけが取柄ですので」
溜息を肺へと閉じ込めつつ、腕に力瘤を作って見せると咲夜さんは「確かにね」と言いながらからからと笑う。
……咲夜さんはあまり感情を出す性格ではない。こと笑顔やら喜びやらを見せるのは稀である。そんな久しぶりの笑顔に誘われてか、閉じ込めたはずの溜息はどこかへ消え去って、いつの間にやら笑顔になっている私がいた。
「それにしても、咲夜さんが私の体調なんて気にされるとは……。明日は雪ですかね」
「何よ、それじゃ私が冷血な人みたいじゃない」
「済みません、そんなつもりで言ったんじゃなかったんですけど。ただ珍しいなぁ、なんて」
「私へのイメージも、だいぶ偏った部分があるみたいね……」
今度は咲夜さんが溜息をつく番だった。どうやら私のイメージは、咲夜さん自身のそれとは異なるらしい。
ただ、咲夜さんは冷血であるとも思う。何にしても割り切ったかのような迷いのない行動、侵入者やらサボりに対する容赦のない姿勢。人間でない、とは言い過ぎだが、人間味溢れて、とまでは言い難い。それがまた咲夜さんを瀟洒と言われる所以でもあると思うのだが、どうにもその限りではないようだ。
思い起こせば、咲夜さんに優しくされたことも少なくはない。無論ナイフを向けられたり投げられたりしたことの方が圧倒的に多いのだが、その分、時折の優しさは印象に残る。咲夜さんは他の妖精メイドや館の面々からは、どうやら機械のような性格だと思われているようだが、少なくとも私はそんなイメージは抱いていない。どんなイメージかと聞かれても言葉に詰まるが、強いて言うならば、全てに対して厳しすぎる性格、であろうか。
「ところで、今日はどうしたんですか?」
「あぁ、本題を忘れるところだったわ」とまで口にして、咲夜さんは難しい表情を浮かべて黙り込んだ。かと思えば指をもじもじさせながら、はにかんだような微笑みを見せたりもしている。……微かに頬が赤く染まっただろうか。
「何か、仕事ですか?」
「いえ、仕事じゃないんだけれど。……言うタイミングを逃したというか何というか」
「……?」
「……きゅ、休憩しなさいなんて、改めて聞かれたら言いにくいでしょ」
ふと、自分の口が開いていることに気付く。
咲夜さんの口からそんな言葉が出るなんて、今まで考えたことすらなかった。
「咲夜さんが休憩しろというなんて……熱でもあるんですか?」
頬を真っ赤に染めて「熱なんてないわよ」と口早に反論する咲夜さんからは、様々な熱が発せられているようだった。その反応にどうしても微笑が隠せない私を見てか、咲夜さんは身体ごと、ぷいとそっぽに向く。
「済みません、冗談ですよ。でも、咲夜さんがそんなことを言うなんて、珍しくて」
「それはいつもあなたがサボって昼寝してるからじゃないの」
「う、まぁ、それはそうなんですが……」
「今日は何だかいつもと様子が違うから、折角気分転換にでもと誘ってあげたのに」
咲夜さんはそっぽを向いたままこちらを振り向くこともせずに、玄関へと向かう。
「休憩するの? しないの?」
「な、なら、お言葉に甘えて」
私の言葉に、咲夜さんは振り向くことも返事をすることもなかった。……拗ねてしまったのだろうか。
屋外が暑いだけに、館に入れば少しばかり寒気を覚えた。肌に滲んだ汗が一気に冷やされて、体全体に鳥肌が立ってしまう。それから遅れるように汗を吸った服が冷やされて、まるで冷水でもかけられたかのような感覚だった。だが、室内の温度が低いといっても夏は夏である。寒かったのは一時であり、慣れてしまえば心地が良い。
紅魔館は、幻想郷においてかなり広い建物である。敷地もそうだが、幻想郷の一般的な建物が平屋建てであるのに対して、紅魔館は複数の階と地下に至るまで部屋がある。加えて咲夜さんが空間を弄っている為、外見に比べ建物内はとてつもなく広い。私も一応ここに住む者として部屋等の配置は粗方覚えているつもりではあるが、それでも全てを把握出来ている訳ではない。
住んでいても部屋を覚えられない原因は、紅魔館が現在でも、拡張の一途にあるからだ。これはお嬢様の意向であるらしいが、結局は咲夜さんが空間を弄っているだけである。つまり空間を広げることは能力によるものであって、それ故工事も何も起こらない上に、一瞬で空間が広がるのだ。そのようなことを予告なく行われると、時には館内で迷ってしまうことだってある。それは私の方向感覚が狂っているだけだ、とも言われそうだが、一つ言い訳をするならばお嬢様が迷子になっているのを私は見たことがある。お嬢様は廊下で『道がわからない』と癇癪を起こしていたが、それを影で見つつも、心のどこかで安心したことを覚えている。
少しばかり歩いて、行き着いたのは咲夜さんの部屋だった。休憩と聞いて、私はてっきりメイド専用の談話室にでも行くのかと思っていたのだが。
「どうぞ」
今まで黙り込んでいた咲夜さんだったが、自室のドアを開けたところでようやく口を開いた。しかしその声色はどこか機械的であって、いつもの調子ではない。それに少々萎縮しながらも「失礼します」と一礼して、部屋へと入った。
咲夜さんの部屋なんて、いつ以来だろう。咲夜さんとはいつも会うのに、互いの部屋を行き来することは殆どない。メイドと門番という違う職種である以上、業務内容や環境はまるで違う。だからこそ暇な時間が重なることが滅多にない為、仕方がないと言えばその通りなのだが。
それにしても、咲夜さんらしいというか、小綺麗で整然とした部屋である。お世辞にも広いとは言い難い部屋に、机と、椅子と、ベッドと。壁にはスペアのメイド服が掛けられていて、それでようやく、ここがメイドの部屋であることがわかる。もしそれがなければ応接室とでも勘違いしそうな程、ここには人間臭さが存在しなかった。即ちそれは咲夜さんらしさもないということではあるが、それこそが咲夜さんらしいと言っても間違いではないだろう。何せ紅魔館において彼女の存在は“完璧で瀟洒なメイド”であるのだから。
ただ、人間臭さがないにしても咲夜さんが住んでいることには変わりがない訳で、家毎にそれぞれ臭いが異なるように、この部屋も独特の臭いが漂う。それは咲夜さんが持つそれと同じものであり、ここが咲夜さんの部屋と呼べる確かな証だった。
その臭いに混ざって、微かな紅茶の香りが鼻についた。咲夜さんの淹れる紅茶はとても芳醇であり、どこまでも深い紅色である。紅茶の種類、淹れ方その他諸々違いがあるのだろうが、私が淹れた紅茶とはてんで比較にならない。妖精メイドによれば、咲夜さんが紅茶を淹れるようになってからは、お嬢様がお茶の時間に文句を垂れることも少なくなったらしい。
ティーカップとクッキーを乗せた盆が机の中央に置かれた。その瞬間に、今までは曖昧であった香りが鮮明となり、鼻腔をくすぐる。目の前に出されたティーカップを見やれば、それはやはり、見事なまでの紅であった。
「味わって飲みなさいよ。それはお嬢様に出す紅茶と同じなんだから」
そう呟きながら、咲夜さんはティーカップに口を付けて、一口だけ啜った。表情を見るに、今日の紅茶はまずまずといった様子が見て取れる。それを見つつ、私も紅茶を口に含んだ。
お嬢様に出す紅茶だからだろうか、今日の紅茶は色といい、香りといい、いつにもまして素晴らしい。紅茶に詳しい訳ではないが、いつも飲む紅茶とは桁が違うことだけはわかる。私が素直にそれを述べると、咲夜さんははにかむように口元を弛ませて「美鈴が淹れるお茶も中々よ」と付け加えた。
「……ところで」
「はい」
「門番の仕事は、どうなの」
「どう、と言われましても……」
ティーカップの中身はあと半分程である。クッキーに手をつけながらぽつりぽつりと会話をしていた時だった。
「今日は様子がおかしかった。いつもは昼寝してたり花畑に付きっきりだったり」
「あ、えと、昼寝はともかく、今日のことは何でもないですよ」
昼寝のことだったりを突っ込まれるかと、内心ではびくびくしていた。もしかしたら、お説教の為に呼ばれたのかもしれない。いや、説教は今までも受けているのだから、折檻であろうか。どちらにせよ、自分に非があるとはわかりつつも、芳しくはないことである。
「……美鈴は、私が紅魔館に来た時のことを覚えてる?」
「え……はい。お嬢様に連れられて、この子をメイドにする、とか言われて」
「そうね。もう、何年前になるかしら」
「私は少し前の出来事のように感じますが」
「私からしてみたら、もう遠い過去の話だわ」
咲夜さんの目はずっと、ティーカップに注がれている。机に肘をついて背を曲げる姿は、あまり彼女には似合わないと思った。
「私が紅魔館に来た時、美鈴は館の中で働いてた」
「まぁ、掃除やら給仕やら、簡単な仕事ばかりですが」
「美鈴はメイド長じゃなかったの?」
「咲夜さんが来るまでは、メイド長という位は無かったですよ。だから、咲夜さんが初代のメイド長ですね」
彼女の瞳に一層の闇が灯る。辺りを巻く気が重たい。そこら中に溢れていたはずの華やかな紅茶の香りも、今やどこかに消え去っている。
「美鈴、私ね……」
二の句を躊躇う、その僅かな時間ですら、長い。
ただ、その時間を作ったのが咲夜さんであるならば、その時間を崩すのもまた咲夜さんであった。何の前触れもないままに勢い良く立ち上がると、目を瞑って何か集中しているようである。私も気配を探ってみたが、どうやらお嬢様の声がどこからか聞こえてくる。咲夜さんはその声に反応しているようだった。
「…………お嬢様がお呼びだから、私は行かなきゃ。美鈴は紅茶を飲んだら、仕事に戻って頂戴」
私が返事をする間もなく、咲夜さんは目の前から消えていた。時間を止めて移動したのだろう、部屋には先程までの空気だけが残されて、ただその中で立ち尽くす私。ふと目を落とせば、ティーカップの中に半分ほど残った紅茶が、音もなく細波を立てていた。