一日目
咲夜さんが寝る布団の横で、これからの事について永琳から色々と教えて貰った。主には薬の効果の説明で、最初に懐いた人は親に代わる大切な役割を担うだとか、性格は全く違うものになってしまうだとか。どうやら咲夜さんは言葉を覚えている赤ん坊のようなものらしく、その母親として、私は選ばれたらしい。その説明を終えると、永琳はそそくさと部屋を後にする。『母親は一人でないといけない』。彼女はそう言い残した。
『母親』という存在は、ある種絶対の存在である。紅魔館において絶対の存在と言えばお嬢様であるが、咲夜さんがお嬢様ではなく私をその役に選んだことにはどのような意味があるのだろうか。
考えてみれば、確かに紅魔館に住む住民は、母親になりそうな顔触れではない。お嬢様は良くも悪くも我が侭だし、パチュリーは何を考えているのかわからない。妹様は自身が子供のような部分がある。一番似合っているのは小悪魔だが、如何せん彼女も抜けている。母親というには少々抵抗があるだろう。
そこで残るは私、という選択に彼女は到ったのだろうか。……いや、そうは考えたくはない。薬によって眠る前、彼女は私のことを大好きだと言っていた。それは言葉通りの意味なのかもしれないし、もしかすれば母親として、大好きと言っていたのかもしれない。そもそも彼女は私に母親になって欲しいと言っていた訳で、それから考えれば後者の方がしっくりくる気がする。私に母親になってもらい、そして赤子に戻る自分を宜しく頼むと、彼女は言いたかったのだろう。そう結論付ける事が一番である気がして、私はそれ以上考えないことにした。咲夜さんが記憶が無くなるのはもう不可避である。これからは私が母親として、しっかりと彼女に物事を教えていかなければならない。それが彼女の遺言なのだから。
……咲夜さんは、自分の記憶を無くすことを紅魔館の面々に言っているのだろうか。いや、強情な彼女のことだ。私に対してそうだったように、誰にも言っていないに違いない。つまり私は彼女の身に起こったことを説明し、再びメイドとして紅魔館で働けるようにしてあげなければならないのだ。それは簡単なようであって、そう易々と突破出来る問題ではない。
きっと、パチュリーはこうなることを察しているのだろう。魔女として出来る限界まで尽くしたらしいし、咲夜さんの体調を一番知っていたのも、パチュリーだろう。それならば、理解がある分咲夜さんを受け入れてくれる確率も高いに違いない。妹様は、差し当たって細かな事を気にするお方ではないので、大きな問題は起きないと思いたい。……何よりも問題なのは、お嬢様だ。
咲夜さんが記憶を無くしたことを知れば、お嬢様は憤慨なさるに違いない。それはきっと何よりも、咲夜さんの決断に何一つ自分が関わっていないことに。
お嬢様も、私と同様に咲夜さんに大きく踏み込んでいる。いや、ともすれば私以上に関わりを持っているのかもしれない。言ってしまえば、お嬢様は咲夜さんのことを自分のものと思っているに違いない。その自分の大切な所有物が、勝手な判断で記憶を無くしたとあれば、それはきっと悲しみよりも、怒りの方が感情として勝ることだろう。
それに、記憶を無くすという大切な儀式に、お嬢様が呼ばれなかったことにも問題がある。確かに永琳の説明では、薬を飲んだ後には大切な人が一人だけの方が良い、ということだったが、それにしてもこの場にお嬢様がいないことは非常に都合が悪い。我が侭な性格に仲間はずれというのは、けして相容れることはないのだ。
再度、眠っている咲夜さんの顔を見る。その寝顔は安らいだ表情で、微かに笑っているようにも見える。……咲夜さんは、どんな心境で私をこの場に呼んだのだろう。どんな覚悟で記憶を無くすという選択をしたのだろう。私には、到底考えつかない思想が、その根底にはあったのだろう。きっと彼女は、これから起こるであろう出来事を全て予測していたに違いない。そしてその彼女が、私をこの場に居合わせることを望んだのだ。
「ん……」
暫くして、咲夜さんは寝返りを打ち、そして右手で目を擦った。
「……おはようございます」
彼女が目を覚ますのを待つことが出来ずに、思わず声を掛けてしまう。咲夜さんは目を擦るのを止めて、似付かわしくない無垢な瞳で私を見上げる。彼女がどのような反応をするのか、思わず期待してしまう。
「あなた、誰?」
私の足下が、がらがらと音を立てて崩れていくような気がした。勿論、覚悟はしていた。しかし、いざ記憶が無くなったという現実を突き付けられると、落胆というか、自らを否定されたような悲しさが込み上げてくる。しかし悲しみに暮れている暇はない。咲夜さんは今生まれたのだ。今から私が、彼女という人格を形成していかなければならないのだ。
「……私の名前は紅美鈴と言います。貴女の……母親です」
「母親……? お母さん?」
ひしひしと感じる背徳感に、申し訳なさが私を押し潰す。その所為で、私は軽く頷くことしか出来なかった。
「えっと、私は……」
「貴女は十六夜咲夜。紅魔館というお屋敷で……メイドをしているのよ」
「メイド……ですか」
彼女はそう言ったきり、押し黙ってしまった。こちらとしても何を話して良いかわからず、沈黙が続いてしまう。長く、気まずい沈黙だった。
しかし、意外にも沈黙は彼女の方から破られた。
「それなら、早くお屋敷に戻りましょう。お仕事が、あるんじゃないですか?」
「それはそう……だけど、貴女は病み上がりなんだから、もう少しゆっくりしないと」
「私は大丈夫です。何故かは知りませんが、とても働きたいのです。その……美鈴さん、お願いします」
「……貴方、働いていた記憶があるの?」
「いいえ、何も思い出せません。ですが、何故か清々しい気分なのです。その、何というか、まるで生まれ変わったかのような、そんな気分なんです」
絶句した。彼女は自分が生まれ変わったことを自覚していたのだ。薬がどこまでの効果を現しているのかはわからないが、それはとても凄いことに違いない。
しかし、哀しきかな彼女は、骨の髄までメイドであったようだった。意識を取り戻して早々に働きたいとは、いかにも彼女らしい希望であると共に、人間らしさを逸脱した、ともすれば異常な執着心がそこにはあるのだろう。それは彼女を幸せにするのか、私には判断することは出来ない。
「……そう。ならお医者さんに相談してくるから、ちょっと待っててね」
私はそう言うと、障子を開けて外に出た。頬を切るような冷たい空気が、押さえ込んでいた私の感情を呼び起こす。咲夜さんに忘れられた。これから私はどうやって歩んでいけば良いのだろうか。
氷のように冷えた涙が、手の甲を濡らす。嗚咽が漏れそうになるがそれをぐっと我慢し、拳を握りしめてただ涙を流すことしか出来なかった。声を上げて泣き散らかしたい。しかしそれは咲夜さんを不安がらせることになってしまう。折角彼女が清々しい気分だと言っているのだ。それを邪魔するようなことはしたくない。だが、耐えかねる程、悲しい。二つの感情とも、私は思いきることが出来ないままでいた。
暫くの間、そうして泣くことしか出来ないでいたが、これ以上咲夜さんを待たせるのも悪いと思い直し、涙を袖で拭いて顔を上げた。こんなことをしている場合ではない。永琳を探し、帰れるかどうかの相談をしなければならない。それが、今の彼女の希望なのだから。
母屋の勝手口を開けると、先程と同じように永琳は本を読みながら私を待っていたようだった。その表情に感情は全くなく、ただただ真面目な表情で私を注視する。
「……全て、忘れていたでしょう?」
「……えぇ、自分のことも、当然、私の事も」
「落胆しては駄目よ。これは彼女が望んだことなのだから」
「えぇ。落胆はしていません。何せ彼女は目覚めて早々に働きたいと言い出したのですから。今から彼女に教えなければならないことが山程あります」
「え、待って、彼女の口から働きたいって言葉が出たの?」
「そうですよ。それで、今から帰れるかの相談に来たのです」
「はぁ……。彼女の執念にも呆れるわね。わかったわ。今から簡単に診断して、良ければもう帰ってもらっても大丈夫よ」
永琳はそう言いながら本を閉じ、椅子から立ち上がった。そして先程と同じように私を先導するようにして、離れの前に立つ。先程と違うのは、彼女から離れに入ったことだった。
「あなたは、誰?」
「私はお医者さん。貴女の容態を診に来たの。ちょっと熱とか計るから、上着を脱いで貰えるかしら」
熱、喉、瞳孔など、簡単な診断が続いた。永琳は慣れた様子でそれぞれを確認していくと、最後に心音を聞く。そして一度頷いた後、僅かに笑みを含んだ表情をこちらに向けた。
「身体の状態は、健康そのものよ。もう仕事に戻っても何ら問題はないわ」
そう言うと、永琳はすっと立ち上がる。そして、部屋を出る通りすがりに、私にぽつりと呟いた。
「最後に、あんまり彼女に前の記憶を話さないことね。前の記憶は良い結果を残さないから、なるべく新しい彼女を育ててあげることね」
『それじゃ、今後とも御贔屓に』と、彼女は部屋を後にした。静かに閉められた障子から目を離せば、咲夜さんは上着を着直しているところだった。
「……外は寒いですよ。きちんと着込んでね」
「お母さんは? そんなに着てないみたいだけど」
「私は妖怪だから、気にしないでも大丈夫。でも貴女は人間なんだから……身体には気を付けないと駄目よ」
「妖怪……」
「そう。私は妖怪、貴女は人間。だけれども、私は貴女の母親。だから、わからないことがあったら何でも聞いて頂戴。私にわかる範囲なら、教えるから」
咲夜さんは俯きながら、顎に手を当てて何か考えているようだった。しかしそれも束の間、彼女は笑顔で顔を上げる。
「大丈夫です。また聞きたいことがあったら、お聞きします」
以前の彼女からは想像も出来なかったような無垢な笑顔は、まるで晴れ晴れとした彼女の心情を表しているかのようだった。その笑顔に引き込まれそうになる感覚に陥りながらも、私は彼女に立つように促す。私が差し出した手を彼女は優しく掴んで、おもむろに彼女は立ち上がった。
彼女はこれからどのような人生を歩むのだろうか。願わくば、幸せな未来が待っていることを、私は祈ることしか出来なかった。
紅魔館に帰る道程は、幻想郷で生きる知識を教える為におおよそを費やした。記憶がなくなるという、私でも遭遇したことのない状況に戸惑いもしているが、何とか上手く教えられていると信じたい。何せ、彼女は『人間として』記憶が無くなっているのだ。妖怪や妖獣が跋扈する幻想郷では、こういった無垢な人間というものはすぐに食べられてしまう。無論知識があって捻くれていたからといって食べられない訳ではないが、甘い言葉を信じて簡単に付いていってしまうよりかは相当にましである。
簡単な幻想郷の紹介を終え、私はふと立ち止まった。その動きに合わせて、後ろを歩いていた咲夜さんも歩みを止める。おもむろに振り返ると、私は仕舞っていた銀製の投げナイフを取り出した。永琳のいうところでは、個人的な能力は維持しているのだという。となれば、咲夜さんは記憶を無くした今でも、ナイフの投擲は完璧であるはずなのだ。妖怪と対峙する時に、手持ちの武器があるかないかは、非常に大きな差となる。特に銀はそのものに力を有しているし、急所を突けば妖怪といえども無事では済まないはずだ。その間に逃げることが出来れば、咲夜さんが生き残ってさえいれば、全て問題はないのだから。
「これは、貴女が使っていたナイフよ。貴女はこれを武器として使っていたわ」
「ナイフ……にしては細身で、柄まで一直線に伸びた、変わったナイフですね」
「これは投擲用のナイフ。貴女はこれを扱うのが他の誰よりも上手かったわ。試しに……そうね、あの木にでも投げてみたら?」
そう言いながら、私はナイフを咲夜さんに手渡した。咲夜さんは恐る恐るではあるが、しっかりとした手付きで受け取ると、私が指した木に向かって身体を向ける。
刹那、館で味わったような浮遊感ともとれる感覚が全身を包み込んだ。風は止み、動く物は何一つとしてなくなる。そう、まるで時間が止まっているような、そんな感覚だった。
その異様な空間の中で、彼女は思いきりナイフを投擲する。手の振り方、身体の傾き、全てが以前の彼女を見ているようで、そこにまだ彼女の記憶が残っているのではないかと疑ってしまう程、完璧な動きだった。完璧なのは動きだけには留まらず、ナイフは木に向かって吸い込まれるように飛んでいき、軽快な音を立てて幹に突き刺さった。場所は幹のど真ん中、高さも成人の頭部辺りを正確に捉えている。全てが、完璧だった。
「すごい、当たった……」
「流石に、身体は覚えているようね。素晴らしい腕前だわ」
「こんなことが出来るなんて、何だか信じられないんですが」
「それが……貴方の能力よ。自信を持って」
咲夜さんの能力は時間を操ることだ。しかし、彼女の懐中時計は未だ私が預かっている。そしてこれを返して、時間を操れるようになれば……。彼女はまた同じように、精神が死んでいくに違いない。何としてもそれは繰り返してはいけない。まだ……いや、このまま一生、彼女にこの時計が返されることはないだろう。私は彼女を守る。それが、私の役割。
「さ、紅魔館に帰りましょう。お嬢様にご挨拶したり、館の中を覚えたり、やることは色々あるわよ」
幹に埋まったナイフを抜き彼女に差し出すと、彼女はおずおずとそれを受け取った。革で出来た入れ物に仕舞うと、メイド服に備え付けられた差し込む為の穴に、迷うことなく納めた。
あのナイフの収納場所は、咲夜さんが自身で作った物だ。それがわかるということはまさか記憶が残っているのかとも思ったが、その後に向けられた柔らかな表情と笑顔に、そんなことはないのだと改めて思い直した。永琳の薬は完璧だった。身体が覚えていることはともかく、記憶が残っていることはないのだ。
紅魔館まで後少しである。そこでお嬢様に事を説明しなければならないと想うと、少々気が重たかった。
「おっきい……」
咲夜さんは紅魔館を見るなりそう呟いた。本当に驚いているのか、唖然とした表情で屋敷を見つめるその様は、正しく感嘆という表現が似合う。
「ここが紅魔館。貴女が務めていたお屋敷よ」
「私、ここで働けるんですか?」
「うーん、それは今からお嬢様に聞いてみないことには何とも言えないけど……」
「私、頑張りますから! お母さん、早くお嬢様のところに案内して下さい!」
「わ、わかったから、そんなに焦らないの。あと、私のことはお母さんじゃなくて美鈴で良いわ。その方が私としても嬉しいから」
「わかりました。美鈴さん」
……『さん』くらいは残っていても可愛げがあるのかもしれない。
「ほら、お嬢様の所に行くわよ」
そう言うと、私は玄関の扉を開けた。
妖精メイドも仕事が一段落したのかさぼっているのか、館内には誰も居らず、静寂が立ち込めていた。その中を彼女を引き連れて歩いて行く。かつかつという足音が二つ、薄暗い廊下に響いて、静寂を掻き消していく。咲夜さんは緊張しているのか、館に入ってからは一言も発することはない。
階段を上り、遂にお嬢様の部屋へと辿り着いた。咲夜さんの緊張が伝わったのか、私まで段々と緊張してきた。そもそも説明をしなければならないのだから緊張はするのだろうが、それにしても後ろでがちがちに固まっている咲夜さんを見ると、緊張せずにはいられない。果たして、私は上手く説明することが出来るだろうか。咲夜さんを、この館で働かせることが出来るのだろうか。
「いい? ノックするわよ?」
びくりと震えた彼女を無視して、大きく三度、扉をノックした。
「誰?」
中からはお嬢様の不機嫌そうな声が聞こえてくる。私は意を決して声を上げた。
「美鈴です。お休みのところ申し訳ありません」
「……入りなさい」
一つ呼吸をしてから、ノブを回す。がちゃりと金属が擦れる音がしたかと思えば、古めかしい音を立てながら扉は開いた。
室内では、お嬢様が椅子に腰掛けられて、頬杖を付きながらこちらを見ていた。それに一礼をして、私は室内に入った。その後ろから、おずおずと咲夜さんも続く。
「……咲夜? 貴女どうしたの?」
「気付かれましたか。咲夜さんは先程、記憶を無くしてしまいました」
「記憶を……無くした?」
「はい。永遠亭の永琳に薬を処方してもらって、それを彼女は服用しました」
「何でよ! どうしてそんなことをする必要があったの?」
ここで理由を話すことは容易いが、しかし咲夜さんの前でそれをするのは宜しくない。何とか気付いてもらう為に、私は咲夜さんの方を一度見て、お嬢様に目配せした。お嬢様は少し怪訝な表情を浮かべたが、事情を汲み取ってくれたのか一つ大きな溜息をつく。
「お嬢様、咲夜さんをまたこの紅魔館で働かせたいのですが、宜しいでしょうか? 本人も働く気でいますし、それに」
「咲夜」
「……はい」
「貴女は、どうあろうと私の忠実なメイドよ。それを心掛けて働きなさい」
「はい! ありがとうございます!」
「それと美鈴」
「はい。何でございましょう」
「お前は咲夜が一人前に働けるように、教えてやりなさい。どうせその様子じゃ前のことは何も覚えてはいないのでしょう。今まで通りの仕事が出来るように、教えてやりなさい」
お嬢様はこちらから目線を外して、手を払うような仕草をする。それを退室せよ、という合図だと捉えた私は、咲夜さんを誘導するように部屋を後にした。軋む扉を、なるべく音が立たないように閉める。そこで私は一つ、大きな溜息を吐いた。
「良かったわね。お嬢様に認めて貰えて」
「はい! これも美鈴さんの手引きのお陰です。ありがとうございます!」
「あー、えっと、どういたしまして」
何とも、咲夜さんからお礼を言われるという感覚にまだ慣れていない自分がいる。確かにまだ記憶を無くしてから時間が経っていないということもあるが、それにしても以前の咲夜さんを知る私からしてみれば、そもそも私に対して敬語で話す咲夜さんが珍しいというか、懐かしいという感情に捕らわれてしまう。
咲夜さんも幼い頃は、今のように敬語で、きょどきょどしていて、何とも可愛らしかった。お嬢様の前で緊張して上手く話せなくなったり、失敗してくよくよして、泣いたりしたり。
それがいつからだろう。彼女があのように瀟洒で、完璧で、感情を見せなくなったのは。自分に嘘をついて、無理して、そして……記憶まで、失わなければならなくなったのは。それは、つい最近のことのようにも思え、それでいて遠く失われた過去のことのようにも思う。……いや、私の暦で数えても、昨日や一昨日の出来事ではない。彼女は相当の昔に、記憶を無くす前の咲夜さんになってしまったのだ。それを思い出せない私は、彼女の傍らに居るつもりでいて、彼女のことなど眼中にはなかったということなのだろうか。もしくは、私には理解出来ない速度で、彼女が変化してしまったのかもしれない。
そういえば私は、今のような純情な咲夜さんにどんな様子で接していたのだろうか。話しかけ方は、身振りの仕方は、気の、扱い方は……。何一つとっても、思い出すことが出来ない。それは近しい記憶のようで、手の届かない須臾の狭間に紛れ込んでしまった。
しかし、その咲夜さんとの付き合い方をするのならば、咲夜さんがどのように成長していくのかは目に見えている。また記憶を無くさなければならなくなることは、絶対に、解りきっている。それだけは避けなければならない。彼女が完璧で、瀟洒にはならないように、能力に頼り切ってしまわないようにしていかなければならない。それは、私の使命。最期を私に任せてくれた、咲夜さんの教訓。それを忘れてはならない。絶対に。
「……美鈴さん?」
「あ……え?」
「どうしたんですか、急に立ち止まって考え込んだりして」
「ちょっと考え事をね。さて、なら次はお嬢様の妹君に会いに行くわよ」
「はいっ!」
やはり、咲夜さんらしくない。
「美鈴! 今までどこに行っていたの?」
「済みません妹様。お嬢様から門番の仕事を賜っておりまして」
「フーラーン! 私のことはフランって呼び捨てにしてって言ってるでしょ?」
「済みませんフラン様。流石に敬称なくお呼びする訳には参りません」
「美鈴は変わってないなぁ。私は全然気にしないのに。……咲夜、黙ってばかりだけどどうしたの? 何だか楽しそうに見えるよ?」
私が振り返ると、そこには少し不安そうな顔をした、それでいて薄く微笑んでいる咲夜さんがいた。何とも言えない微妙な顔色であるが、けして楽しそうにしているようには見えない。妹様の物事の捉え方は、何というか、独特である。
「そのことですが、フラン様。咲夜さんは記憶を無くしてしまいました」
「記憶を? 何、そんな遊びなの?」
「いえ、遊びではなく、本当になくしてしまったのです。紅魔館のことも、お嬢様のことも。……フラン様のことも」
妹様は咲夜さんに似た無邪気な瞳で、咲夜さんをじろじろと観察しながら彼女の周りを一周する。
「……こ、これから宜しくお願い致します。妹様」
「フランっ!」
妹様の唐突な声に、咲夜さんはびくりと身体を震わせる。ぎゅっと閉じられた瞳からは、今にも涙が零れてきそうだ。
「咲夜、フラン、お友達になって欲しいの。だから、妹様なんて呼ばずに、フランって呼んで」
「……わかりました。フラン様」
「ごめんね、驚かせたね。謝るから。だから、フランって呼んで。呼び捨てで良いから」
「フ、フラン……」
「良く出来ました。これから宜しくね、咲夜」
妹様は未だ縮こまる咲夜さんの手を取ると、両手を使ってしっかりと握手をした。咲夜さんはそれにまたびくりと震え、それでいてしっかりとした声で、問いかけた。
「フラン、手が冷たいですよ。どうしてですか?」
「咲夜さん、それは妹様が吸血鬼だからですよ」
「吸血鬼……なの?」
「そうよ、吸血鬼。まぁそんなこと、どうでも良いことだけれどね」
「そういえば羽が生えておられるし……。なら、お嬢様も吸血鬼ですか?」
「そ。あんな威張りくさしているのが吸血鬼。私みたいに頭がおかしい奴も吸血鬼。この幻想郷に、まともな奴なんていやしないわ」
妹様は、どこか虚空を見つめるように、そう言い放った。そして一人楽しそうにふふと笑う。その嘲るような笑い方には、妹様なりの思うところがあるのだろう。私の思考では到底至れない所に、妹様の妄想はある。
「そして咲夜、今日はどんなことをして遊んでくれるの?」
「どんなことを……とは?」
「例えば、……こんなこととか!」
刹那、妹様は鋭い爪を咲夜さんに振り下ろす。私が緩衝に立とうとする前に、それは咲夜さんに向かっていった。
しかし、咲夜さんに直撃はしていない。寸前の所で、ナイフを使って防御に務める咲夜さんの姿があった。きりきりとした音を立てながら、火花を散らすその様は、まさに決死の攻防が続いているに違いない。……いや、片方は楽しんでいるのだから、決死の防御だろうか。
そんなことを考えながら、私は両者の手首をしっかと掴むと、力任せにそれらを離していった。このままだと咲夜さんが力負けしてしまう。それは明白だったからだ。
「妹様。少々戯れが過ぎますよ」
「うー、確かに、記憶はなくなっているようね。前の咲夜だったら、いつの間にか後ろに居て、私の横腹をこそぐっているはずだもの」
妹様はむぅといった表情を浮かべて、咲夜さんの方に再度視線を送った。しかし咲夜さんは怯えきった表情を浮かべるだけで、それ以上の反応を示すことはなかった。そんな時にふと、妹様は私に抑えられている腕の力をふっと抜いた。それに従い、私も妹様の手首を離す。すると妹様は、おもむろに咲夜さんの方へと近付いていった。 それぞれ違った緊張感が、辺りを支配していく。
「咲夜、これからもよろしくね!」
唐突に、咲夜さんにしがみつく妹様。それは妹様の知る最上級の愛情表現であり、私が知る限り、妹様がそれをするのは何百年以来のことになる。しかしそれを知らない咲夜さんは、私に掴まれた手首を振り放して、ナイフを振るおうと躍起になっている。
「咲夜さん。妹様が挨拶をしておられるのです。きちんと挨拶を返さないと」
私のその言葉に、咲夜さんはおずおずと頷く。そして、カタカタと震える手でナイフを仕舞ったかと思えば、咲夜さんは妹様に抱き付いて、言葉を返す。
「……こ、こちらこそ、これから宜しくお願いします」
微笑ましいその光景を見て、私はこれで妹様との関係は大丈夫だと確信を得ることが出来たのだった。
あとこの館で残っているのは、パチュリーと小悪魔、それと妖精メイドくらいである。妖精メイドはあまりそういったことに興味が無いので別に紹介する事も無いと思うが、パチュリーには挨拶をしておかないと、後々が面倒くさい事になるだろう。特にこの館の防御壁や魔方陣に関する管理を行っている張本人である。親しくしておかないと、それこそこの館で安泰に生活していくことは難しい。彼女は今日生まれたばかりなのだ。覚えていかなければならないことが沢山ある。
私たちは、地下室から登ってすぐの仰々しい扉の前に立った。
「これが、紅魔館の図書館よ。中は莫大な広さがあるけど、ここは司書がいるから、あなたが掃除をする必要はないわ。でも、中にいる魔法使いはレミリアお嬢様の親友に当たる方だから、挨拶しておくわよ」
咲夜さんがこくりと頷くのを見てから、私は重い扉を押し開けた。
図書館の中は相変わらず、呆れる程の図書が仕舞われている。咲夜さんはその威圧感ある物質に戸惑いを感じているようだったが、私が中へと進んでいくと、おずおずと後ろをついてきた。
扉が大きな音を立てて閉まる。それは今この空間が隔離された証拠であり、パチュリーの住居に入ってしまったということに他ならない。
何度ここに来ていても、やはり苦手なものは苦手だ。いや、この閉鎖的な空間自体は嫌いな訳ではない。古い匂いが立ち込めるこの場所は、むしろ好きな部類に入る。ということは、私はパチュリーが苦手なのだ。それを改めて感じながら、机と椅子が置いてある図書館の中央へと進む。
「パチュリー様」
「私の所が最後って訳ね。まぁ何となく予想はつくけど」
湯気の立たない紅茶を啜りながら、パチュリーはぼそりとそう言った。
「済みません、ですが」
「それは良いの。もう過ぎ去った事だわ。それより、咲夜はどうなったのかしら?」
「咲夜さんは、その、記憶を無くしてしまいました」
パチュリーはじっとりとした目をこちらに向けたまま、ゆっくりと溜息を吐く。そして、持ったままだったティーカップを静かにソーサーへと戻す。カチャリと、無機質な音が響いた。
「まぁ、予測通りね。それで、どうして咲夜は紅魔館にいるのかしら? ……いえ、そもそもあなたは咲夜なのかしら?」
不意に話題に引き摺り込まれた咲夜さんは、困惑が隠せないといった様子でおどおどとしている。それでもパチュリーは質問を取り下げる気が無いのか、じぃっと咲夜さんを見上げたままだ。
「わ、私は十六夜咲夜です。美鈴さんから、そう教わりました」
「美鈴!」
喘息を持つ少女とは思いがたい大きな声は、しんと静まり返った図書館に木霊した。私はその声にびくりと反応し、彼女の方を見る。その目は、怒りの感情に満ちあふれていた。
「貴女ならわかるでしょう。また、繰り返す気なの?」
「……いいえ。繰り返させはしません。私がしっかりと彼女の面倒をみます。決して……させません」
「その言葉、いまいち信用が出来ないわ。以前も貴女が面倒を見ることになっていて、結果は経験した通りでしょう?」
「それはそうですが……。私は私なりの覚悟を以て、咲夜さんをきちんと守り切ります!」
「そう……。それで、咲夜はそのことについてどう思うの? 貴女はここで働きたいと、本気でそう思うのかしら?」
「は、はい。お嬢様にお仕えする事が、私の天命だとわきまえております」
その返事を聞いて、パチュリーは盛大に溜息を吐いた。それだけでは飽き足らず、やれやれといった具合に首を横に振っている。
「薬師といえども、忠誠心までは奪えず、か。ま、私なんかが作る中途半端な薬なんかよりは、何倍もよかったのでしょうね」
薄く微笑みを浮かべながら、パチュリーは立ち上がった。
「私の名前はパチュリー・ノーレッジ。これから、よろしく」
「よ、よろしくお願いします」
おもむろに差し出された手に、咲夜さんはおずおずと握手をする。パチュリーはそれに満足したのか、薄く笑みを浮かべてから着席した。そして、二回程手を叩く。すると、本棚の奥から小悪魔がすぅっと現れて、静かにお辞儀をする。
「お呼びでしょうか?」
「この子……咲夜は、今日から紅魔館のメイドになったから」
「えと、咲夜さんは今までも紅魔館のメイド、なのでは……」
「彼女は生まれ変わったのよ。だから、何も覚えてない。だから、貴女が図書館のことや、館にある魔方陣の事などを教えてあげなさい。この館は魔法で動いていることを、しっかりと教えてあげるように」
そんなパチュリーの言葉に、小悪魔はきょとんとした様子で応える。
「で、ですが、魔方陣についてはパチュリー様と咲夜さんが」
「出来るの? それとも出来ないの?」
「……。出来ます。私にやらせて下さい」
「宜しい。美鈴、どうせ貴女が咲夜の面倒を見ることになっているんでしょ? だったら明日一日程咲夜を貸して頂戴。……いえ、貴女も館の中の魔方陣や仕掛けを知っておいた方が良いわね。明日、都合がつくかしら?」
「え、は、はい。私も門番業務を外されたので、思ったように行動が出来ますので」
「そう、それは良かったわ。なら明日の……そうね、レミィの夕食が済んだ朝の十時くらいでどうかしら」
「わかりました。その頃に咲夜さんを連れてまた来ます」
パチュリーはその言葉を聞いた後、机の上に開きっぱなしだった本を閉じて、小悪魔に手渡す。そして、奥にある個室へと入っていった。小悪魔も仕事があるのか、簡単に挨拶をした後にパタパタと消えていってしまった。薄暗い図書館に、二人だけが取り残される。
「さて、私たちも夕食にしましょうか。もう良い時間でしょう」
そう言うと、咲夜さんはこくりと頷いた。
「そうね……。咲夜は何か作れる料理はあるのかしら?」
「料理、ですか。何か作れそうな気もするんですが、何が出来るのかはさっぱりわからないです。というより、私は料理まで作っていたのですか? 今お会いした方々のお世話の他に、館の掃除と、お料理までしなくてはならないなんて……。他にもお洗濯とか、お買い物とか、お仕事は沢山あるんですよね? そんな仕事量、それこそ時間を止めてでもしないと、こなしきれないと思うのですが……」
時間を止めるという言葉に、思わずぴくりと反応してしまう。何か、機転の利いた言葉を――そう考えてはみたものの、即座に思いつくはずもなく、とっさの言葉が口から漏れた。
「そうね。一人だとどうしても無理な仕事量になるわ。だから、私を使ったり時にはサボったりして、何とか切り抜けていかないとね。だから、生きるために必要な料理と洗濯を中心にこなしていったら良いわ。その内に仕事が早くなったら、段々と掃除をこまめにしていけばいい」
咲夜さんはどこか納得していないような表情を浮かべたが、それでも力強く頷き返す。
咲夜さんは完璧主義者だ。きっと記憶がなくなった今でも、その性質は変わっていないに違いない。だからこそ、仕事を後回しにしながらこなすということを嫌がっているのだろう。しかし、それを黙認していたら駄目なのだ。歴史を繰り返してしまう。それをさせない為に、私が彼女の力強さに負けないように、咲夜さんを牽引していかなければならない。
「さて、なら私たちの夕食を作りに行きますか!」
そう言って、私たちは図書館を出て行った。
彼女のナイフさばきが証明したように、咲夜さんの料理の技術は全く変化していなかった。料理のメニューは忘れているようで、献立を考えることは出来なかったが、しかし余りある技術で野菜を切り、肉を捌き、私が指示する通りに次々と料理を完成させていく。彼女も料理をするのは好きなのか、終始笑顔のままこなしていた。
「咲夜の味と違う」
しかし、お嬢様の一言は、今となってはどうすることも出来ない指摘から始まった。
「ですがお嬢様、昔と味付けは変わっていないと思うのですが」
「私に口答えするつもりなの、美鈴」
「……」
嫌な沈黙が続く。お嬢様の我が強いのは昔からのことだが、それにしても私が館内勤務になってからというもの、一段と風当たりが強くなっている気がする。それは私に対する嫌がらせなのか……いや、そんな事を考えるのは止めよう。とにもかくにも、お嬢様の要望は、咲夜さんの記憶がなくなった以上、叶えることは出来ない。何とか言い訳を考えないとと思っていた最中、唐突に咲夜さんが口を開いた。
「お嬢様」
「何よ、咲夜」
お嬢様が咲夜さんの方を向いている隙に、急いで咲夜さんに目配せする。ここで反論してはいけないと何とか気付いて欲しい、そんな心境で一杯だった。
思うことがあっても、余程の間違いでない限り、口出ししない。それがプライドの高いお嬢様とのもっとも諍いの無い関係なのだ。何故咲夜さんに伝えておかなかったのだろうと、後れながら痛く後悔した。
しかし、そんな私の思いとは裏腹に咲夜さんは言葉を紡いでいく。
「美鈴さんの料理は十分美味しいと思います。今日の料理は美鈴さんと私が二人で作りましたが、そもそも私の味とはどのような味ですか?」
「そう、ねぇ。どんな、と聞かれたら、何とも言いにくいけど……」
「それでしたら、特に不満はない、ということですね?」
「そ、そうなるかしら」
お嬢様はそう呟いてから、黙々と食事を続けた。
驚いたことに、お嬢様との口論に咲夜さんは打ち勝った。正確に言えば丸め込んだという表現の方が正しいのだろうが、しかし私が口論した場合には、弾幕の如く反論が返ってきて、最早一方的に攻められるだけになるのだが。
確かに、咲夜さんの反論は概ね正しい。私の料理が美味しいかはさておき、私も咲夜さんの料理を食べていたのだから、そこまでの味の違いが出るとは考え辛い。それに文句を付けたお嬢様は、今となっては過去となった、咲夜さん自身の味付けに幻想を抱いているのだろうか。
その可能性は高い。お嬢様の咲夜さんへの依存は、私なんぞは遙かに超えて、最早人と妖との差を感じさせない程になっていた。そのことから考えると、お嬢様と咲夜さんの関係は限りなく対等に近くなっていたはずだ。少なくとも、今の会話を平気で交わせるように、親しい間柄であったに違いない。私が長く門に立っている間に、館の内では驚くべき変化が起こっていたのだ。私とお嬢様との交流が久しくなかった事を、しみじみと感じた。
それにしても、咲夜さんの記憶は本当になくなっているのだろうか。咲夜さんの記憶がなくなっておよそ一日。節々で記憶があるのではないかと疑いたくなるような部分があって仕方ない。しかし咲夜さんから流れる気は自然体そのもので、嘘を吐いているようには到底考えることが出来なかった。あの薬は性格まで直すことは出来ない。それならば、お嬢様との関係性をも受け継いでしまう、そういうことなのだろうか。お嬢様との間で形成された性格がそのまま残っていると、そういうことなのだろうか。
その可能性が正しいとしても、この関係を続けていくのは良くない。この関係は、咲夜さんを破滅させた関係なのである。今まで通りは、すなわち咲夜さんの自滅を意味する。
「ご馳走様」
はっと我に返る。
そっと辺りを見回してみると、どうやらお嬢様は食事を終わらせたようで、椅子からひょいっと立ち上がると大広間に設置された数少ない大きな窓に目を向けていた。今宵は新月で、更にはどんよりとした雲がかかり夜空は真っ暗である。それにも関わらずお嬢様は羽を広げ、ふわりと浮き上がる。そして、その大きな窓をそっと開けて、くるりとこちらを向いた。
「霊夢の所に行ってくるわ。朝には戻るから」
そう聞こえる時には既にお嬢様は外へと向かい、それでも窓をきちんと閉めてから大空へと飛び立って行った。
「さて、それなら食器を片付けて、私達も休むことにしましょうか」
その言葉に咲夜さんはこくんと頷いて、見えない所に置いてあったワゴンに食器を重ねていった。
片付けも終わり、遂には長かった一日が終わりを迎えようとしている。
「ここが、私の部屋……」
咲夜さんは案内された自分の部屋に目をぱちくりさせていた。果たして何がそんなに驚くことがあるのか私にはわかりかねるが、それこそ部屋の清潔さや簡素さに、疑問を持ったのだろう。この部屋は、紅魔館の中でも特異の部屋と言える。
「この部屋は、自由に使っても良いんですか?」
「そうよ。この部屋は貴女の部屋だから。好きなように弄ってもらって構わないわ」
「……でも、このままで良いような気がします。何だか生活感のない部屋ですけど、生活に必要な物は揃っているようですし、仕事をするには最も適した部屋なのではないでしょうか」
「そう……。まぁ貴女がそう言うなら、それも良いんじゃないかしら。もっとも私だったらもっと住みやすいように物を散乱させるけどね」
くすくすと二人で笑い合い、お休みと挨拶を交わしてから扉を閉めた。静かな笑みを浮かべる咲夜さんの顔が段々と見えなくなっていく。それは彼女が遠ざかっていくようで、どこか悲しい感情に見舞われた。
自分の部屋に帰ってからも、どこか悲しい感情を払拭出来ずにいた。前の咲夜さんはいなくなってしまった。咲夜さんと別れてからというもの、やっと一人で考える時間が取れた私は、そればかりを考えてしまう。楽しかった思い出、ただそれだけが、ふつふつと思い出されて、気付けば涙が浮かんでいた。
お嬢様は咲夜さんに依存している。それは間違いの無い事実だろう。しかし、私という存在も、咲夜さんに深く依存してたことを思い知らされる。確かに、お嬢様には申し訳ないが妖怪としての依存の対象が、お嬢様から咲夜さんに移っていたことは最早言い逃れの出来ないことである。それについて、私はもう否定する気すら起こらない。しかし、その咲夜さんがいなくなってしまった。そして新しい咲夜さんを私が面倒を見ることになった。その矛盾したような関係に、どうすれば良いのか戸惑っているのだと思う。心の拠り所がなくなった。そういう言い方が一番しっくりとくる気がする。
何もする気が起きず、私はベッドに身体を投げた。僅かばかりの反発と、微かに漂う太陽の匂いが私の心を慰めてくれる。枕を抱き締めて、私は考えに耽ることにした。
私は咲夜さんにどれだけ依存していたのだろう。私という存在が残っている以上、存在の全てを依存していた訳では無いのだろう。しかしながら、幻想が存在するこの幻想郷において、その考えは間違っている気がする。幻想として成ってしまったのだから、存在を依存しなくても存在していける。それがこの地においての常識なのではなかろうか。
それならば、私は全てを咲夜さんに依存していたのか。……いや、依存したかったのだろう。依存して、楽に、生きていきたかったに違いない。しかし、それは実現しなかった。実現させて貰えなかったという方が正確だろうか。彼女は、私に一人で立つことを望んでいた。他人に依存する存在ではなく、一人で永遠を生きる存在となれ、と。直にそう言われた訳では無いが、そう思わせる発言や行動は、節々に見られた。特に私が咲夜さんと共に内勤をするようになってからというもの、その言動はかなり激しくなったと思う。
当然、自分が長くないと知っているのだから、お嬢様のお世話など仕事の全てを交代しなくてはならないのだから、独り立ちさせるのはよもや必然とも言える。しかしそれにしても、咲夜さんは私に何を望んでいたのか、それは今となっては確認のしようのないことである。ただ単に自分への依存を取り除きたかっただけなのか、それとも何か別の意図があったのか。……時を操る咲夜さんでも出来なかった時間を戻すという行為を、今となって強く望んでいる自分がいた。
しかし、今から私はどうやって咲夜さんを育てていけば良いのだろう。勉学を教える必要は無いことが、この短い一日でも把握することは出来た。しかし彼女の人格は未だ不安定である。仕事に対しての強い意志は見ることが出来るのだが、それ以外の彼女らしさをいかに作っていくか、それが難しい。
特にそれを感じさせたのが、彼女が過去の自分が使っていた部屋を見た時の感想だ。彼女はあの簡素な部屋を見た時に、物置ではなく普通の人が住む部屋として認識した。それは未だ彼女が元の性格や世界観を引き摺っているということに他ならない。それは時間と共に薄らいでいく物なのか、それともこのまま一生を共にする人格なのか。それはたかだか一日という短い時間しか過ごしていない私には、まだわからないことだ。というよりも、わからないことが多すぎることが困っている諸因とも言える。だが、薬を投与した永琳にしてもそれはきっとわからないことで、その答えは私が今から導き出さなければならないことなのだと思う。思っていた以上に、私に課せられた『母親』という役割は重たい意味を持っていた。
育てるとは、一体どのようなことなのだろうか。私好みに育てることが、彼女の幸せだとは限らない。寧ろ、私の拠り所になって欲しいという願望を押しつけるのは、彼女の存在を軽んじることになってしまうのではないだろうか。ただ私というものの為だけの存在。それはあまりにも意味の無い存在と成り下がってしまう。
すなわち、今までも私は咲夜さんにそうなることを望んでいたのだ。私の為だけに存在するなんていう、ひたすら他人の為だけに生きるという責任を、彼女に押しつけ続けていたのだ。
刹那、扉を叩く音が部屋に木霊した。思わずびくりと身体が震え、抱き締めていた枕をぎゅっと締め付けてしまう。
「……はい」
暫く、返事は返ってこなかったが、やがて小さな声が聞こえてくる。
「さ、咲夜です。済みません、入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
きぃ、と僅かに軋む音がして、おもむろに扉が開かれた。そこには言葉の通り咲夜さんが立っており、僅か俯いてこちらを見ている。
「どうしたの?」
「いえ……どうしても、眠れなくて」
「そっか。とりあえず入りなよ。廊下は寒いでしょ」
咲夜さんは僅か悩むような素振りを見せた後、おずおずと部屋に入った。しかし奥にある私のベッドには近付くことなく、入口付近に立ち尽くしたままである。
「どうしたの? こっちにおいでよ」
「美鈴さんの迷惑になるかな……って。いえ、こんな時間に来る方が迷惑ですね。済みません、帰ります」
「帰る必要なんて無いわよ。寧ろ、私も眠れなかったから丁度良かったわ。何か、お話でもしましょうか」
こくんと頷いた咲夜さんは、それでもおどおどとした態度のまま、ベッドの近くまで歩いてきた。そして、私の数歩先で立ち止まる。私がどうぞとベッドを指し示すと、まるで観念したかのように彼女はベッドに腰を掛けた。
「一人は怖かった?」
「いえ、一人が怖いという訳では無いんですが……。何となく、闇に飲み込まれてしまいそうな感覚があって、それで段々と怖くなってきて……」
「闇に飲み込まれる……」
「あの、時計の音が怖いんです。かちかちと正確に刻むあの音が、私を責めているような気がして。昼間は気にならなかったんですけど、夜になって静かになると、そればっかりが耳について」
「そっか……」
私はすっくとベッドから立ち上がると、壁に掛けてある古ぼけた時計へと向かった。振り子がある旧式の時計だが、私はその蓋を開けると、振り子にそっと触れて動きを止める。運動を止められた時計は否応なしに、時を刻むことを止めた。
「これで大丈夫でしょ。もう、怖くない」
そう言って、私は咲夜さんの頭を撫でた。するとすぐに、咲夜さんは私の胸に身体を預けてくる。私はその華奢な身体をそっと抱き締めながら、背中を優しく叩いた。その身体は冷え切っており、震えている。
暫く、そのままで時間が過ぎた。静寂が辺りをせしめる中、咲夜さんの鼓動までがまるで全身を伝わって感じ取れるのではないかと思う程、私は彼女を強く抱き締めていた。それに呼応するように、彼女の体温は段々と暖まっていき、震えも全く感じなくなった。
「落ち着いた?」
「……はい。ありがとうございます」
咲夜さんは僅か泣いていたのか、少し潤んだ瞳を両手でごしごしと擦る。そして顔を上げて、にこっと笑った。その笑顔を、私は心の底から可愛いと思った。
「どうする? どうせなら、今日はここに泊まって行っても良いけど」
「そう……ですね」
咲夜さんは多少悩んだ末に、私の部屋に泊まることにしたようだった。
「でも、美鈴さんの部屋にはベッドが一つしかないですよね? 一体どうしたら……」
「大丈夫。私はそこの椅子で寝るから。これでも妖怪だから、別に寝なくても大丈夫だしね」
納得のいかないような表情を浮かべるが、私が念を押すと観念したのか、咲夜さんはおもむろにベッドへと入った。それを見届けてから、私も毛布を持って椅子へと座る。
「お休み」
「お休みなさい」
その会話を最後に、部屋からは吐息の音しか聞こえなくなった。
やっと長い一日が終わる。私は一つ小さな溜息を吐いて、瞼を閉じた。
「あの……」
「どうしたの?」
「……手、繋いで貰えませんか?」
「……。良いわよ」
椅子をベッドの横につけるように移動して、布団から僅かに差し出された手を握る。その手は少し冷たくて、それでいて力強く私の手を握り返してきた。
「あったかい」
彼女はそう呟きながら微笑んで、眠りへと落ちていった。それにつられるかのように、私も意識を段々と手放していく。その中で、何とも言えない幸福感を感じている私がいた。