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九日

 今日は二階の廊下を掃除することから始まった。咲夜さんの能力で拡張された紅魔館は、私の知るそれとは全く違う建物になっており、箇所箇所で戸惑う部分が多いことに驚いてしまう。特に掃除道具入れは場所がさっぱりわからず、咲夜さんに教えて貰って初めてわかることも多かった。私が門番に立つ間に、紅魔館は私が知るものとは全く違うものへと変化していたのだ。

「案外、筋が良いのね」

 咲夜さんが溜息をつきながら私を褒めた。それが嬉しくて、ついついはにかんでしまう。

 咲夜さんが来るまでの間、館の掃除は全て私が仕切っていた。当時はまだ妖精メイドは居らず、メイドという役職すらなかった。家事一般は私が行う。それが何百年もの間、続いていたのだ。

 当然、咲夜さんが来るまでの紅魔館は、ここまで広い建物ではなかった。それでも小さな建物ではない為に、掃除をする技術も必然的に上がってしまう。他にも炊事、洗濯、庭掃除など、一人では到底こなせない仕事量を担っていたことが記憶に残っている。

「咲夜さんの能力も凄いですね。部屋が昔とは全く違うから、何がどこにあるのかさっぱりわかりませんよ」

「それを覚えて貰うのも、メイド長補佐としての役目でもあるのよ」

「そうですねぇ。例えば、お嬢様の部屋はどこにあるんですか?」

「お嬢様の部屋は三階の一番奥の部屋よ。あの辺りは静かに掃除しないと、お嬢様の気を悪くするから、注意して掃除してね」

「わかりました。一つ疑問なんですけど、今でも三階が最上階になるんですか? 私が掃除していた時も三階が最上階で、一番奥の部屋がお嬢様の部屋でしたが」

「そうよ。私の能力といえども、中々階を一つ増やすなんてことは、霊力の関係上かなりの負担になるから。まぁお嬢様からは階を増やすように言われてはいるんだけど、如何せん霊力の限界には勝てなくてね。今では何とか諦めては貰っているけど、それでも時々階を増やすように言われることもあるわ」

「何ともお嬢様らしいですね……」

 お嬢様の注文の多さは、この二階の廊下を見るだけでもわかる。今までは真っ直ぐな廊下の両端に部屋が五、六ずつ並んでいるだけだったが、見渡してみれば部屋は軽く十を超え、廊下は奥で曲がり、その奥にも部屋がある。つまり、部屋数だけを見ても、軽く三倍は増えていることになり、それを維持する霊力も相当なものだと推察出来る。

「よく霊力が持ちますね。咲夜さんは人間ですから、霊力も無限に湧くものではないでしょうに」

「そうね。今は何とか、パチュリー様から頂いたアミュレットでどうにか霊力を倍増しているわ。それで今の館を賄うことが精一杯。お嬢様が今以上に部屋を増やせと言われても、逆立ちしたって出来そうにはないわね」

 そう言うと咲夜さんは、首からかけたネックレスを見せてくれた。その胸元に輝く宝石からは特殊な気を感じることが出来、それが霊力倍増のアミュレットなのだと予測出来る。

「これのお陰で、身体がだいぶ楽になったわ。やっぱり霊力が底上げされるだけあって、生活に余裕が出てくるわね」

「このアミュレットを貰うために、パチュリー様と夜に会ったりしてるんですか?」

「そうね。それもあるけど、色々薬なんかも貰ったりしてるのよ。霊力に限らず、この館を維持していくのは体力も気力も必要でね。特に栄養剤なんかはよく貰っているわ」

「栄養剤を飲んでまで、何も仕事をしなくても……」

「それだけ仕事が多いってことよ。妖精メイドは大した仕事をしてくれないし、それにお嬢様、妹様、パチュリー様の三人も同時にお世話しないといけないのだから、時間がどれだけあっても足らないわ」

 時間を操ることの出来る咲夜さんが時間が足らなくなるとは、少々皮肉な話である。しかしそれだけの仕事を今まで彼女一人の力でこなしてきたのだから、仕事量はそれこそ一般的な人間とは比べものにならないことだろう。だからこそ、メイド長補佐という微妙な立ち位置の役職が必要だったのかもしれない。むしろ今までそういった補助する役割がなかったことが不思議なくらいだ。

 しかし、私にとってその役職は、一抹の不安を生む原因になっている。

 私はお嬢様に「門番をすること」と命令されている。主に仕えている者にとって、その命令は違反して良いものではない。だが、今はメイド長の命令で、館の掃除や炊事などを行っている。心持ちは、微妙だった。

 個人的には、咲夜さんの助けになることなら進んで手伝いたいと思っている。しかし、私の仕事は紅魔館の門を番すること。それ以外は命令されていないのだ。それも門番は私一人しかいない。すなわち私が門を離れれば、出入り口はがら空きになってしまう。それは下級な妖怪や悪魔の進入を許すことに他ならない訳で、とどのつまり、仕事が増えてしまう。結局は、追い着けない仕事とのいたちごっこなのだ。

 そんな葛藤の中、その渦中の存在がこちらへと向かって歩いてきた。……お嬢様である。

 どうやらお嬢様は機嫌が優れないらしく、しかめ面に近いような表情で近付いてくる。私は逃げ出したい気持ちを抑えながら、お辞儀をした。

「咲夜。館が汚れているのだけど」

「申し訳ありません。しかし以前も説明しました通り、今は手が足りておらず、仕事に追い着けないのが現状で」

「黙りなさい。言い訳は聞きたくないわ。私は館が汚いと言っているの」

「……はい。すぐに掃除致します」

 咲夜さんは深くお辞儀をすると、懐中時計を取り出して蓋を開いた。

 彼女が能力を使うには、どうやら懐中時計が必要なようだ。それは昔から変わらず、時間を停止している時は常に持ち歩いていると、咲夜さん自身から聞いたことがある。

 多分に漏れず、彼女は気を解き放ち、時間を停止させた。

 ……奇妙な感覚だった。いつもなら感じるはずのあらゆるものの気配が全て消え、辺りは無音に包まれた。視界に入る物は存在感を消し、不自然な沈黙が続いている。

 おかしいのはそれだけではない。お嬢様のスカートがひらりとも靡かないのだ。それも止まるには不自然な形状を維持しながら、ぴたりと固まっている。それを纏うお嬢様自身も、瞬きすら忘れたかのように、正しく停止している。

 それは、私も例外ではなかった。視界から得られる情報はわかるのだが、瞬きどころか眼球を動かすことすら適わない。無論手足を動かすなんて到底出来ず、ただ送られてくる風景を眺めることしか出来ない。

 そんな中、動くものが一つだけあった。……咲夜さんである。全てが動きを止めた中、彼女だけがごく当たり前のように動いている。それはごく当たり前のようで、何とも言い表せない不快感を含んだ光景だった。そして私は気付く。これはただ、時が止まっているだけなのだと。

 本来、時が止まっているのなら私の思考が成り立っていることは有り得ない。今まででも、咲夜さんが時を止めている時は、彼女が能力を解除しない限り、私が彼女の能力を感じることが出来なかった。大抵は唐突に現れたり、館が綺麗になったりすることで、彼女の能力を感じることが出来る。それなのに今は、彼女の能力を直に感じている。これは初めてのことであって、慣れない世界に気持ち悪さがこみ上げてくる。それを我慢しながら、私は彼女の動きを追った。

 咲夜さんは、床に突っ伏した姿勢で、暫くは全く動かなかった。その内に嘔吐をしているかのように激しく咳き込み始め、やがては床に倒れ込んだ。相当苦しいのか、何度も何度も深呼吸を繰り返し、目には涙を浮かべている。

 しかし、ぴたりと動きを止めたかと思えば、勢い良く体勢を立て直して咲夜さんは立ち上がった。そして掃除道具を取り出したかと思えば、手際よく掃除を始める。窓、壁、床と掃除を続けていき、やがては私の視界からはいなくなった。とはいえ掃除を続けていることは容易に想像出来て、何とも言い難い感情が込み上げてくる。

 それからかなりの時間が流れてから、咲夜さんは戻ってきた。壁に手をつきながらよろよろとした様子で、かなりの困憊が見て取れる。だが、何度か深呼吸したかと思えば、咲夜さんは平常な顔をして時計を弄った。その瞬間に、時間は動き出す。

「これで宜しいでしょうか、お嬢様」

「えぇ、良いわ。でも、言われる前に最初からやっておきなさい」

「大変申し訳ございませんでした」

「それと美鈴。貴女は門番が仕事だと何度も言い聞かせているはずよ。何で貴女がこんな所で掃除をしているのかしら?」

「それは私が手伝うように指示したからです。全ての原因は私にあります」

「ふぅん……。でも、それは許可出来ないわ。美鈴、貴女はすぐに門番に戻りなさい」

 お嬢様の言葉はぴしゃりと言い切られ、反論は出来なかった。お嬢様はどこか不機嫌な様子で廊下を歩くと、角を曲がって行った。ちらと見えたその表情はどこか考え事をしているかのようで、憂いが含まれているようにも見える。

 刹那、咲夜さんは倒れた。

「咲夜さん! 大丈夫ですか?」

「……えぇ、大丈夫。ちょっと無理が祟ったのかしら」

 言葉の内容とは異なり、咲夜さんの顔色は真っ白で、今にも気を失いそうにだった。

「明らかに大丈夫じゃないですよ! 掃除なんて置いておいて、永遠亭に行きましょう! 医者に診て貰わないと、私では判断出来ませんから」

「そうね。永遠亭に行った方が良いのかもしれないわね。……美鈴、貴女もついてきてくれるかしら?」

「勿論です。ほら、おぶって永遠亭まで運びますから、咲夜さんはじっとしておいて下さい」

 背負いあげた彼女の身体からは、生命力というものが全く感じられなかった。あまりに軽い彼女の身体は、その負担が如何に大きかったかを物語っている。

 外は雪のちらつく中、防寒具をしっかり着込んだ私たちは、永遠亭へと出発した。


 雪に閉ざされた竹林は、さながら訪問者を拒んでいるようだった。今日は誰も永遠亭には行っていないのか、雪が踏み固められた箇所は一切なく、一歩を踏みしめる度に足が深くまで沈んでしまう。なるべく咲夜さんに振動を与えないように、かつ早く着くように足を動かすことは余りに矛盾していて、それは私に焦りを生み付ける。

「……美鈴、貴女さっき、私が時間を止めて掃除しているのを見ていたでしょう?」

 会話がなく、寝ているのかと思っていた矢先の言葉だった。

「……えぇ。見ていました。初めての経験だったのですが。本当にあの時、時間が止まっていたのですか?」

「わからない。ただ、日頃は感じることのない貴女の視線を感じて、きっと見えているんだろうと思ったの。きっと貴女の気を見る力が何らかの原因で互換して、私の能力の中を垣間見たのではないかと思うんだけど」

「咲夜さんの能力が見えた原因はどうだって良いのですが。あの時間を止めた時から、咲夜さんの様子が明らかにおかしかったのですが、一体どうしたのですか?」

「……パチュリー様が言うにはね、私は働き過ぎなんだって。過労って言うのもあるらしいんだけど、霊力の使いすぎで体調がおかしくなっているんだって。だから最近は能力を殆ど使わないようにしていたんだけど、どうやらそれも限界。パチュリー様も言ってたけど、私の身体はもう、魔女が出来る限界を超えているんだって。だから、私は永遠亭に行ったの。だったらね……」

 咲夜さんは中途半端に言葉を切ると、一度深呼吸をした。

「……永遠亭では、何と言われたんですか?」

「記憶を消すしか方法は無いって、そう言われたわ」

「記憶を……消す?」

 あまりの衝撃的な言葉に、気付けば、私は立ち止まっていた。

「そう。それも全体的な記憶を消して、言うなれば人生を初めからやり直すってことらしいわ。永琳の話では、私が時間を止めていた間、肉体的には時間は止まっているけれど、精神的には進んでいるらしいの。だから、私は精神的に寿命が近付いているんだって。それに拍車をかけているのが、時間を止める時に莫大消費する霊力。だから、精神をゼロに戻してやれば、肉体的な年齢に戻ることが出来る。逆に言えば、そうしない限り私は長く生きられない。そう言われたわ」

 記憶を消すとは、妖怪にしてみれば存在すらなくなるということに等しい。それまでに積み上げてきた思い出、経験、思想全てがなくなっては、精神に依存する妖怪の根本がなくなることと同義だからだ。それを消し去らなければ生きることが出来ないなんて、本当に馬鹿げた話である。

 実際、記憶がなくなることとは、一度死ぬことと何ら変わらないと思う。自分というものを構成してきた全てのものを破棄して、新しい記憶を構築していく。それは人生をやり直すことではなく、生まれ変わることなのだ。そうだとすれば、咲夜さんにとって現在の記憶とは、それ程の価値がないということになる。記憶を消したとしても、新しい記憶で何が起こるかわからない。それこそ、すぐに死んでしまうかもしれないし、もしかすれば、もっと楽で、楽しい人生が待っているのかもしれない。

 ……咲夜さんは今まで、苦労しすぎた。紅魔館に来るまでといい来てからといい、彼女の人生は苦労の連続だったといえる。だとしたら、全てのしがらみから解放されて新しい人生を歩むのも、悪いことではないのかもしれない。里で暮らすのも良いかもしれないし、霊夢や魔理沙と妖怪退治をして過ごすのも、彼女からすれば幸せな暮らしなのかもしれない。もしも薬が本当に強い物で彼女の記憶が根こそぎなくなってしまったとしても、彼女の器量ならば、良い旦那さんと巡り会えるに違いない。それは人間として、とても幸せな生き方に違いないはずだ。

「……記憶を消すのも、けして悪い話ではないのかもしれないですね」

「反対してくれないのね」

「……え?」

「美鈴は反対してくれるかと思ってた。私の記憶が大事だって、そう言うと思ってた」

「済みません……」

「良いのよ。きっと貴女なりに考えた答えだろうから。それに、どんな答えが返ってこようと、私は薬を飲む気でいたしね」

「咲夜さんは、もしも記憶がなくなったら、どんな風に過ごすお積もりですか?」

「私? それは勿論、紅魔館で働くつもりよ。記憶がなくなって大変だろうけど、きっと私だから頑張ってくれるはずよ」

 耳を疑った。記憶を無くしてまで長く生きようとして、それでも尚紅魔館で働くとは、あまりに残酷な話である。

「……何でですか」

「何が?」

「何でそこまで紅魔館にこだわるんですか! 今まで咲夜さんは必死に頑張ってきました。それにこれから記憶を無くしてまで長く生きようとしているのに」

「美鈴」

 私の言葉を遮って呼ばれた私の名は、正しく終止符の形で言い切られた。

「私も色々考えたわ。記憶をなくすのだから、お屋敷を出るとか、自由奔放に暮らしていくとか。だけれど、結局はどれも駄目だった。考えてはみるのだけれど、実際にそうしてる自分のイメージが湧かないの。私は、お嬢様に拾って貰って生き長らえた。ならば、私の命が続く間は、お嬢様に仕える。そう思うの。貴女も、そうでしょう?」

 咲夜さんの言う言葉は、私が紅魔館の門に立ち続ける理由と同じだった。自分を生かしてくれたお嬢様の役に立つ為に。見返りなどなくても、忠誠を見せるために、行動する。

 つまりは、記憶がどうとか以前の問題で、咲夜さんの命はお嬢様の命、ということなのだ。全てを捧げているから、自分がどうなろうとも仕え尽くす。咲夜さんの言葉からは、その感情を強く感じることが出来た。

「だから美鈴、お願いがあるの。記憶がなくなった私がまた紅魔館で働けるように、どうにか心配して。お嬢様への説明とか、館の掃除の仕方を私に教えて頂戴」

 そうか、と一人で納得する。私は咲夜さんにとってその程度の存在だったのだと。そう思うと、悲しさが一気に込み上げてきた。

「……私が咲夜さんのお手伝いをしていたのは、この為だったんですね。この為だけに、私は呼ばれたんですね。記憶をただ後に伝える為だけの、存在だったんですね」

「美鈴、違うの」

「違いませんよ。私なんて、結局それくらいの役割しか出来ないんです。もしも咲夜さんが笑顔で暮らしていけるなら、私はそれで満足です」

「違う。それは違う。美鈴、信じて。貴女は私に取ってとても大切な存在なの。貴女がいたから、私は今まで紅魔館で働いてくることが出来た。そして記憶がなくなっても、安心して働くことが出来ると思う。それは貴女を大切に思っているから、貴女に信頼を置いているからに他ならないの。それを、わかって」

「咲夜さん……」

 おぶられた状態から腕に力が入れられて、咲夜さんはぎゅっと、私の肩や胸を抱きしめた。嗚咽までは聞こえないが、呼吸の様子から彼女はきっと泣いているのだろう。そして私も、気付いた時には涙が流れていた。

「……わかりました。私が責任を持って、咲夜さんを紅魔館の立派なメイドにします」

「…………ありがとう。美鈴なら大丈夫。幼い私をここまで大きく育ててくれたんだもの。また私が迷惑をかけるけど、よろしくね」

 本当は、咲夜さんの記憶を失わせたくはない。私にも記憶があるように、咲夜さんにも私との思い出があるはずだ。それを失うのは、咲夜さんの命の為とはいえど、勿体ないようにも感じる。しかし精神的な傷害を回復させる為に記憶の削除するしかないのなら、それは咲夜さんの命には代えることの出来ないものとなるのだ。咲夜さんがそれを望む今、私が反対する理由は無いと言っても過言ではない。

 流れる涙を無視して、私は歩を進めた。


 永遠亭に着くやいなや、あまりにも速い対応に驚かされた。まるで今日咲夜さんが来ることを予測していたかのようなその速さは、少々悪い印象を抱いてしまう。

 私たちは純和風で落ち着いた内装の離れに案内された。室内には布団が一組準備してあって、背負っていた咲夜さんをそこに寝かせる。それと同時に、障子が開かれて、永琳が姿を現した。手には薬包紙と水を持っており、少し厳めしい表情を浮かべていた。

「いつか近い内には、と思っていたけれど、こんなに早いなんて驚いたわ」

「はい。最近は特に調子が優れず、今日は倒れてしまって……」

「あなた、霊力が一切感じられないけど、能力を使ったでしょう?」

「……えぇ、やむを得ない理由がありまして」

「如何なる理由があっても、神経の負担になるからあれだけ使わないように念を押しておいたのに。まぁ、仕方ないわね」

 永琳は薬と水を置くと、咲夜さんの熱や喉の様子を診ているようだった。それもそこそこに『健康状態は異常なし』と口にすると、紙切れを取り出して何かを書き出している。それも時間はかからず、永琳は紙切れを懐に入れた。

「さて、薬だけれど、飲んで少し時間が経てば強烈な眠気に襲われるはずだから、それに抗わずに寝たら良いわ。それで起きたら、もう記憶は無くなっているはずよ。それと、この部屋は事が済むまで使って貰って構わないから。かなりの決意が無いと出来ないことだから、自分の思う時に薬を飲んで頂戴」

 永琳はそれだけを言うと立ち上がり、障子に手をかけた。そして『ごゆっくり』と言いながら部屋を出て行く。部屋には静寂と私たちだけが残された。

「これを飲んだら記憶が無くなるのね……」

 咲夜さんは薬包紙を持ち上げて、しげしげと眺めている。だがそれも束の間、水を持ったかと思えば勢い良く薬を飲み込んだ。私はそれを唖然と眺めることしか出来ず、その内に咲夜さんは空になった茶碗を盆へと戻した。

「さ、咲夜さん……」

「何?」

「いえ、何じゃなくて、もう少し躊躇いというか、飲むのに時間がかかるとばかり思っていたので……」

「……正直なところ、記憶が無くなるのは怖いわ。でも、今は決心出来ているから、それが揺るがない内に飲んでおこうと思ったの。それに、美鈴も付いてくれているから、躊躇う必要なんてないわ」

 咲夜さんはとても優しい笑顔でそう言うと、掛け布団を羽織り、横になった。

「ねぇ、美鈴」

「はい。何でしょう?」

「もう一つ……いえ、二つお願いがあるのだけど、聞いて貰えるかしら?」

「えぇ。私に出来ることなら、何でも」

「ありがとう。一つ目はね……私のお母さんになって欲しいの」

「お、お母さん、ですか」

「そう。私は自分の親の顔を知らないで生きてきた。その中で、こんなお母さんだったらいたら良いのにって思ったのが貴女なの。だから、お願い」

「……わかりました。なら、今の私に何か出来ることはありますか?」

「そうね。…………抱きしめて欲しい。力強く、そして大丈夫だって、言って欲しい」

「わかりました」

 私は横たわる咲夜さんの横まで擦り寄ると、彼女の上半身を抱え上げて、力一杯抱きしめた。咲夜さんも腕を私の銅に回し、弱々しくも抱きしめてくれる。それを感じればまた涙が込み上げてくるが、ぐっと堪えて、抱き締めることに集中した。そして、耳元で囁く。

「大丈夫だよ、咲夜。ずっと私が付いているから。だから、安心して、眠って」

「ありがとう。……お母さん」

 それから少しの間、抱擁は続いた。お互いに話すこともなく、ただただお互いの温もりに気持ちを落ち着かせていた。その中で、咲夜さんは言葉を紡ぐ。

「それと、二つ目のお願い。もしも私が。……もしも私が人間ではなくなった時には、美鈴が、私を、殺して頂戴」

 唐突に聞こえた物騒な単語に、思わず手を離し、咲夜さんをまじまじと見てしまった。

「私はこのまま、人間として生きて死んでいきたいの。記憶が無くなっても私は私。もし妖怪……いえ、吸血鬼になってしまうようなら。お願い、私を殺して」

 自分の存在を委ねている人を殺すなど、以ての外である。しかし、咲夜さんが己の死に際のあり方を望むなら、それを叶えてあげるのも、大切な役目なのかもしれない。

 悩むあまり、私は返事を出来ないままでいた。

「あぁ、本当に急に眠気が襲ってきたわ。これで貴女と話せるのも、最後になるのね。だから、これだけは言っておきたいの。……美鈴、大好き…………」

 ただ眠るだけのように、咲夜さんは瞼を閉じた。静かな寝息を立てながら、深い深い眠りに落ちている。

 永琳の話が本当ならば、これで咲夜さんの記憶は全て無くなるはずだ。全ての重荷を捨てて、新しい咲夜さんとして、言うなれば生まれ変わる。それは長く彼女と共に居られることと共に、彼女と永遠の別れをすることと同義だ。彼女の記憶から私という記憶は掻き消され、また私との新たな記憶が始まるのだ。考えれば考える程、幸と不幸が思想を突いて、思わず涙が頬を伝った。

「咲夜さん、私も咲夜さんのことが大好きですよ」

 彼女の耳元でそう呟き、私は部屋を離れた。これからのことを永琳と話しておかなければ、私だけではどうして良いのかすらわからない。

 永琳は、離れのすぐ近くの部屋で本を読んでいた。物音を聞いたのか、私が声を掛ける前に顔を上げると、多少驚いた様子を見せた。

「いやに早いじゃない。どうしたの、もう薬を飲んだの?」

「えぇ、貴女が出て行ってからすぐに薬を飲みました。そしてつい先程、咲夜さんは眠ってしまいました」

「……そう。なら、貴女には薬のことや今後の説明をしておかなければならないわね」

 そう言うと、永琳は本を置いて私の横を通り過ぎた。そして、離れへと向かう。

「あの薬は、服用した者の記憶を消す薬なの。とはいえ、言語や基礎能力は変わらず維持するから、その辺りの心配はすることないわ。ただし、対人関係については特に効果を発揮するから、自分の事くらい覚えているかも、なんて甘い考えは捨てた方が利口よ。そして、あの薬の特徴として、眠りから覚めた後は初めて見た人に懐くという性質があるの。だから、彼女には自分が最も大切だと思う人を連れてくるように言ってあったの」

 永琳は、辿り着いた離れの障子を開いた。

「さぁ、貴女はずっと彼女についていてあげなさい。貴女は彼女に選ばれた、たった一つの存在なんだから」


 咲夜さんはまだ目を覚まさない。彼女が目を覚ました時には、一体何が起こるのだろうか。彼女は幸せになるのか、それとも不幸になるのか。何もわからない。私はただ、彼女の横でひたすらに待ち続けることしか出来なかった。

 しかし彼女を待つ中で、私は彼女という大切な存在を亡くしてしまっていた。

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